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くちびる同盟  作者: 風見 十理
六章 目を開ける
105/139

105.ひび割れたくちびる

 



 約束の日まで、マリーは部屋に篭ってずっと泣き続けた。

 おそらく漏れる悲痛な声に、家族はみんな心配して順番に扉越しに声を掛けてくるも、すべて放っておいてとはねのけた。食事は部屋の前に置いてもらって、全く喉を通らないが一口だけ食べた。

 どれだけ自分を必死に説得しても、納得を拒む心が大泣きする。すっかり体力を奪われて、ベッドから動くことがまともにできなくなっても、零れる涙は止まらない。好きな気持ちも、全く折り合いがつかなかった。


 そんな日を一日過ごしていただけで、マリーは憔悴し、見るも無残な姿になっていた。

 ブルネットは荒れはて、目は酷く腫れて赤く、顔は幽鬼のように生気がない。デジレから貰ったものを見ればますます涙が出るので、封印したクリーム缶を使っていない唇は、あっという間にひび割れと切れた部分が血の色を見せ、酷い有様だった。鏡を見ながら、マリーはまた大きな悲しみに襲われた。


 嘆いても嘆いても、時間は過ぎていく。

 約束の日になってしまい、マリーはリディの手伝いを断って、一人で支度を始めた。

 まともに寝もせず、泣きに泣いたためようやく涙が枯れたようだった。重く、天地がひっくり返りそうなほど揺れる頭をなんとかやり過ごし、デジレから貰ったものではないドレスに袖を通す。

 悲惨な顔はもう手の施しようがなく、またやる気も湧かず諦めた。髪だけそれなりに整えて、鏡を見れば、青い瞳が暗く、平凡より下の女性が見える。この姿をデジレに見せるのかと、マリーは自嘲した。


「マリーさま……。デジレさま、応接の間に通しましたよ」


 舞台は整ったようだ。

 マリーは震える手を握ってすっと立ち上がると、何も言わずに部屋の扉を開ける。

 リディがちらりと見えたが、見えない振りをする。口だけは、開いた。


「ありがとう」


 やはりかすれて、元気がない声だ。それでも、なんとか聞こえる声でマリーは安心する。これならば、デジレに伝えられる。涙も、止まっていた。

 最初の、くちびる同盟の締結以来、使っていなかった応接の間に着く。軽くノックして、反応があれば、マリーは深呼吸して、扉を開けた。


 日当たりが良い応接の間には、午前の日差しが差し込む。眩しくて、マリーは目を細めた。その輝きの奥に、ひとり背の高い人の姿が見える。


「あ……!」


 彼が息を呑んで、驚いたような声を漏らす。そして、すぐにマリーの前まで駆け寄ってきた。


「この姿、どうしたんだ! 一体、なにが!」


 強い声を上げて、ひどく険しい顔をするデジレを、マリーはぼうっと見上げた。

 エメラルドのような瞳が好きだ。さらさらと輝く、白金のような金髪も好きだ。鼻も耳も、顔のすべてが格好良いと思うだけでなく好きで。ずっと綺麗ではりがある唇は、泣きそうになる程愛おしく感じる。これ程までに、好きだ。

 今日までどれだけ嘆いても、マリーはデジレへの恋を、過去のものだと思えなかった。


「マリー!」


 デジレが何を言わない彼女にしびれを切らしたのか、腕を伸ばしてつかもうとする。瞬間、マリーは先日の公爵邸の彼の姿を思い出して一歩引いた。


「……触らないで、ください」


 非常に小さな声だったが、デジレには届いたようで腕が止まる。彼は悔しそうに腕を下げた。

 マリーローズに触れた手を向けられるのは、嫌だった。まして、あの時と同じ声でマリーと呼ばれるのも、辛かった。

 散々ぼろぼろにされた心が、またぎしぎしと(きし)んで血を流し始める。


「……わかった、触れない。触れないから、何があったか教えてほしい。どうしてこんな、憔悴して」


 デジレは顔を歪めて、真剣で心配している。本当に優しい人だと、マリーは思う。


「もしかして、この間の公爵邸でのことか。来ていたんだよな。話そうと探してもいなかったから、邸に戻ったかと行ってみれば、二日後に来いと門前払いされて!」


「わかってますよ」


 デジレが言葉を止めて、マリーを見つめる。マリーは俯いて、もう一度言った。


「ローズ様とのあれは、わたし、わかっていますから」


「……本当に、わかっている?」


 マリーは頷いた。

 何度も自分に事実として言い聞かせたことだ。そうは言っても、さすがにデジレの口から同じ内容を話されるのは辛すぎて、耐えられる自信がなかった。


「それなら、どうして弱り切っているんだ。誰かに何かをされたのか!」


 激しい怒気も、今のマリーには心を動かすものではなかった。

 それならどうして弱っているのかなど、デジレは知らないにしてもひどく残酷だ。彼はやはり、マリーが普通の態度をとると思っていたのかもしれない。マリーが、デジレとマリーローズを祝福すると信じていたのかもしれない。マリーは、そんなに大人にはなれなかった。


「ちがいます」


 平然と言ったつもりだった。しかし、目元からぽろりと涙が流れる。枯れきったはずの雫は、耐えることもできずに次から次へと落ちていった。


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