105.ひび割れたくちびる
約束の日まで、マリーは部屋に篭ってずっと泣き続けた。
おそらく漏れる悲痛な声に、家族はみんな心配して順番に扉越しに声を掛けてくるも、すべて放っておいてとはねのけた。食事は部屋の前に置いてもらって、全く喉を通らないが一口だけ食べた。
どれだけ自分を必死に説得しても、納得を拒む心が大泣きする。すっかり体力を奪われて、ベッドから動くことがまともにできなくなっても、零れる涙は止まらない。好きな気持ちも、全く折り合いがつかなかった。
そんな日を一日過ごしていただけで、マリーは憔悴し、見るも無残な姿になっていた。
ブルネットは荒れはて、目は酷く腫れて赤く、顔は幽鬼のように生気がない。デジレから貰ったものを見ればますます涙が出るので、封印したクリーム缶を使っていない唇は、あっという間にひび割れと切れた部分が血の色を見せ、酷い有様だった。鏡を見ながら、マリーはまた大きな悲しみに襲われた。
嘆いても嘆いても、時間は過ぎていく。
約束の日になってしまい、マリーはリディの手伝いを断って、一人で支度を始めた。
まともに寝もせず、泣きに泣いたためようやく涙が枯れたようだった。重く、天地がひっくり返りそうなほど揺れる頭をなんとかやり過ごし、デジレから貰ったものではないドレスに袖を通す。
悲惨な顔はもう手の施しようがなく、またやる気も湧かず諦めた。髪だけそれなりに整えて、鏡を見れば、青い瞳が暗く、平凡より下の女性が見える。この姿をデジレに見せるのかと、マリーは自嘲した。
「マリーさま……。デジレさま、応接の間に通しましたよ」
舞台は整ったようだ。
マリーは震える手を握ってすっと立ち上がると、何も言わずに部屋の扉を開ける。
リディがちらりと見えたが、見えない振りをする。口だけは、開いた。
「ありがとう」
やはりかすれて、元気がない声だ。それでも、なんとか聞こえる声でマリーは安心する。これならば、デジレに伝えられる。涙も、止まっていた。
最初の、くちびる同盟の締結以来、使っていなかった応接の間に着く。軽くノックして、反応があれば、マリーは深呼吸して、扉を開けた。
日当たりが良い応接の間には、午前の日差しが差し込む。眩しくて、マリーは目を細めた。その輝きの奥に、ひとり背の高い人の姿が見える。
「あ……!」
彼が息を呑んで、驚いたような声を漏らす。そして、すぐにマリーの前まで駆け寄ってきた。
「この姿、どうしたんだ! 一体、なにが!」
強い声を上げて、ひどく険しい顔をするデジレを、マリーはぼうっと見上げた。
エメラルドのような瞳が好きだ。さらさらと輝く、白金のような金髪も好きだ。鼻も耳も、顔のすべてが格好良いと思うだけでなく好きで。ずっと綺麗ではりがある唇は、泣きそうになる程愛おしく感じる。これ程までに、好きだ。
今日までどれだけ嘆いても、マリーはデジレへの恋を、過去のものだと思えなかった。
「マリー!」
デジレが何を言わない彼女にしびれを切らしたのか、腕を伸ばしてつかもうとする。瞬間、マリーは先日の公爵邸の彼の姿を思い出して一歩引いた。
「……触らないで、ください」
非常に小さな声だったが、デジレには届いたようで腕が止まる。彼は悔しそうに腕を下げた。
マリーローズに触れた手を向けられるのは、嫌だった。まして、あの時と同じ声でマリーと呼ばれるのも、辛かった。
散々ぼろぼろにされた心が、またぎしぎしと軋んで血を流し始める。
「……わかった、触れない。触れないから、何があったか教えてほしい。どうしてこんな、憔悴して」
デジレは顔を歪めて、真剣で心配している。本当に優しい人だと、マリーは思う。
「もしかして、この間の公爵邸でのことか。来ていたんだよな。話そうと探してもいなかったから、邸に戻ったかと行ってみれば、二日後に来いと門前払いされて!」
「わかってますよ」
デジレが言葉を止めて、マリーを見つめる。マリーは俯いて、もう一度言った。
「ローズ様とのあれは、わたし、わかっていますから」
「……本当に、わかっている?」
マリーは頷いた。
何度も自分に事実として言い聞かせたことだ。そうは言っても、さすがにデジレの口から同じ内容を話されるのは辛すぎて、耐えられる自信がなかった。
「それなら、どうして弱り切っているんだ。誰かに何かをされたのか!」
激しい怒気も、今のマリーには心を動かすものではなかった。
それならどうして弱っているのかなど、デジレは知らないにしてもひどく残酷だ。彼はやはり、マリーが普通の態度をとると思っていたのかもしれない。マリーが、デジレとマリーローズを祝福すると信じていたのかもしれない。マリーは、そんなに大人にはなれなかった。
「ちがいます」
平然と言ったつもりだった。しかし、目元からぽろりと涙が流れる。枯れきったはずの雫は、耐えることもできずに次から次へと落ちていった。




