104.恋を失う
デジレはきっと、間違いなく、この人と決めればその人だけに目を向ける。決して逸らすことはないだろう。
だからもう、マリーがいくら頑張っても、彼の気持ちがマリーに向くことは二度とない。
心がばらばらになるような激しい苦痛を覚えた。呼吸がままならなくて、マリーは死んでしまうのではと思う。それでもいいかと力を抜いても、身体は必死に息を吸おうとする。マリーはそれを、とても虚しく感じた。
なぜ、デジレを好きになったのだろう。ぼんやりとしてぐちゃぐちゃな頭で考える。
分相応な相手を見つけ、平凡な生活を送ることが目標だったはずだ。デジレはいろんな点が高位すぎて全く条件に当てはまらない上、本来知り合わないはずの世界が違う人で、事故で偶然出会っただけの存在でしかない。分不相応だと最初から思っていたにも関わらず、どうして惹かれたのか。
仕方なかった、とマリーは自分に答えを出す。
気付いた時には好きだった。好きになった時などわからない。彼の良いところや好きなところはいくらでも言える。それだけ魅力的だったのだ。
マリーローズも、それは知っているはずだ。
マリーは未だ止まる気配がない涙を無理矢理拭った。すぐにまた顔が濡れて、意味はない。
そう、デジレの相手がマリーローズなら、お似合いだ。マリーはよくマリーローズを知っている。どれだけ良い人物か、知っている。なによりマリーは、デジレもマリーローズも好きだ。
大好きな二人が幸せになるなら、応援すべきだ。好きな人の幸せを祈ることは、当然のことだ。そうマリーが言ったのだ。
今、ここでマリーがただをこねても、楽しい思いをする者は誰もいない。祝福すれば、まず二人は幸せになる。マリーは、我慢すればいい。恋心を殺せばいい。
「あのー、マリーさま……」
リディの扉越しの控えめな声に、ようやく気付いた。心配が滲んでいて、戸惑いも大きい彼女の声音に、マリーは相槌だけ返す。
「デジレさまが来てるんですけど。息を切らして、会いたいって言ってます」
デジレの名前に、さらに涙がぼろぼろと流れる。心がきつく絞られて、マリーの中で聞くに堪えない悲鳴をあげる。
どうして来たのだろう。追ってきたんだろう。そう思っても、僅かな期待はつい今ほど断ち砕かれたマリーには、毒にしかならなかった。
「……会わない」
しゃくりを上げながら放った湿った声は、かすれて明らかに号泣していたとわかる。誤魔化すことは、無理だった。
顔も、見ていられないほど酷い顔になっているだろう。もう濡れていないところはなく、目頭も鼻もじりじりとして痛い。
デジレに、会えるはずがなかった。
「でも、伝えて」
喉から迫り上がる嗚咽を飲み込もうとして、大きく咳き込んだ。公爵邸の二人の姿が脳裏に浮かぶ。叫びたかった。
「二日後、約束の日に、待ってますって。わたしも、話したいことがあります、って」
デジレは、優しい。
彼に好きな相手ができたとしても、自らくちびる同盟をなくすことはしないだろう。むしろ、マリーの相手探しにより力を入れるかもしれない。キスの責任を取らねばならないから。
ならば、マリーが言わなければならない。
デジレの幸せを考えるのなら、責任感から解放してあげることが、マリーのできることだ。足枷にしかならないくちびる同盟など、もういらない。
「……わかりました! 絶対、伝えますね! そして、絶対に今日は追い返してみせますから!」
リディが力強い返事をして、走っていく。
マリーはすぐに目を閉じて、耳を手で覆って、またベッドに埋もれた。少しでも聞こえるかもしれないデジレの声を、聞きたくなかった。
今までの人生で、ここまで泣いたことがないかもしれないと思うほど、涙と泣き声があふれる。今まで経験したどんな痛みよりも、心に激痛が走る。はじめて経験する津波のように襲いくる感情に、マリーはあらがうすべがなかった。
「わ、かっていたのに」
自分には、平凡が良いと。デジレは手の届かない人だと。それなりに恋を経験したら、離れるべきだと。それをなあなあと先延ばしにしていたから、今のような目に遭った。
マリーは顔を上げて、ぼんやりと滲む視界でなんとか暦を見つけ、ふらふらと近付く。印を付けた日付は、二日後だ。
その日は、デジレと会う最後の日となる。
彼と会うというのに、明後日が永遠に来なければいいのにと、マリーは突っ伏して泣いた。




