第42話 ジャンクション
手配された馬車は、アリアスフィリーゼとニセショウタを乗せたままゆっくりと大通りを進んでいく。連日のけたたましい豪雨のおかげで、雨音にも耳はすっかり慣れてしまった。雨のおかげで、王都の経済活動は最小限度まで縮小している。
姫騎士アリアスフィリーゼは、馬車の窓から、のんびりと外を眺めていた。当然、家々からは灯りが覗き、市民の平和な日常が変わらず進行していることを示している。この王都の地下に、恐るべき怪物が暗躍していることを、多くの市民は知るよしもないし、このまま何も知らないままに、すべてが片付けばいいと思う。
詰所を出る際、アリアスフィリーゼはやはりわずかに躊躇した。早くショウタに会いたい気持ちはあったが、地下水道に潜む脅威を放置していいかといえば、それはまた違う。そんな彼女の態度を見て、現場の指揮を任せられたベテランの騎士隊長は、苦笑いしながらこう言った。
『ご心配なら、あとでまた戻られても構いませんよ。お時間はありますから』
と。
まぁ、実際のところ、ゴブリンどもを誘き出すために手配した豚の屠殺体が届くまでは、作戦は決行できない。それまでの間、やることがないといえば、ない。もともとじっとしているのが苦手な性分だし、ゴブリンの討伐作戦自体は、王立騎士団が主導で行うので、ますますやることがない。どちらにしても、サロンに戻ってショウタに料理を作ってもらうのが、彼女にとってはベターな選択肢に、なるのだろうか。
「殿下、何を考えてるんです?」
対面の席に腰掛けたニセショウタが、そのように尋ねてくる。
「いろいろなことです」
「いろいろなことですか」
「はい、いろいろなことです」
ちらり、と視線を彼の腕に移す。ゴブリンとの戦いで負った裂傷は、自分やニセショウタの観点で考えれば、そう大した怪我ではない。一流の伝統騎士に言わせれば、『ツバつけとけば1日で治る』ものですらあるだろう。だがその傷を、ショウタの姿をしているみっちゃんが負っているというのは、いささか心臓に悪い。
そのアリアスフィリーゼの視線に気がついたのか、ニセショウタは佇まいを直し、やはり本物のショウタが滅多に見せないような真面目な顔を作って、こう切り出した。
「いい機会だから言っておきますが、殿下」
「は、はい。なんでしょう?」
偽物だとわかっていても、黒瑪瑙を思わせる瞳でじっと見つめられれば、心中穏やかではいられない。
ニセショウタは、包帯の巻かれた腕を掲げて、言葉を続ける。
「僕を連れ回すということは、常にこうなる可能性があるということです。現に、袈裟懸けとの戦闘で腕を折っています。だからこそ、地下水道には連れて行かなかったわけですけれども」
口調こそはショウタのものだが、それははっきりと、みっちゃん自身の言葉として語られるものだった。
「殿下のこれからの立場を考えれば、もっと危険な場所に赴くこともあるでしょう。一度僕は、というか私は、ショウタ殿と手合わせをさせていただいたことがあります。剣を交えた感想としては、現状、ショウタ殿がそうした修羅場をくぐり抜けられるとは、到底思えません」
アリアスフィリーゼは、みっちゃんの言葉を遮らず、ただ黙ってじっと聞く。
ショウタは普通の人間だ。少なくとも身体の作りは。彼の故郷では、アリアスフィリーゼのようなデタラメな身体能力を持つ人間はいなかったという。少なくとも、ショウタの見知る限りにおいては。彼の過去や素性は断片的にしか聞いてはいないが、よほど治安のいい、平和な国で育ったということは想像がついていた。
まして彼は、騎士として戦うことを義務付けられたり、戦うことを目的とした人間の教育を受けたことが、あるわけではない。みっちゃんの言いたいのは、そのすべてを包括した問題のことだ。アリアスフィリーゼも、袈裟懸けの一件を通して、薄々感じていたことではある。
ショウタ・ホウリンは、このままでは力不足なのだ。
「薄々感づいてらっしゃるとは思いますが、ショウタ殿が殿下と行動を共にされるのは、騎士王陛下の御意向あってのことでもあります。ただ、私の見る限り、これから増えるであろう危険な仕事に同行を続ければ、ショウタ殿は、」
完全にみっちゃんの言葉遣いに戻ったニセショウタは、そこで言葉を区切る。
「命を落とすことも十分に考えられます」
その言葉は、氷槍のようにアリアスフィリーゼの心に突き刺さり、そのままきゅっ、と彼女の心臓を鷲掴みにした。
「ま、このあたりは、私が個人的に、ショウタ殿には無事でいて欲しいから申し上げることではありますが」
みっちゃんは最後にそのように言って、これがウッスア宰相子飼いの密偵という、本来の立場から飛び出した発言ではないことを断った。
とはいえ、語られた内容は深刻だ。アリアスフィリーゼも、薄々、しかし常に考えていたことではある。
ショウタの〝力〟で窮地を救われたことは何度もある。彼の同行によって、アリアスフィリーゼが無事でいられているのは事実だ。そして彼女も、極力ショウタに危害が及ばないよう力を尽くしてきたつもりである。
が、そこには常に限界があることを、先日の袈裟懸け戦で知った。腕部の骨折は、ショウタにとっては完治に長い時間を要する重傷だ。その重傷すら、あの戦いにおいては奇跡に等しい軽微な損害であると言えた。あの時点で、ショウタは死んでいてもおかしくはなかったのである。
今後、幾度となく同様の危険に晒された際、アリアスフィリーゼが常にショウタを守りきれるかというと、それは疑問だ。彼の安全を考えるならば、間違いなくこれ以上連れ回すべきではない。
これまでの彼女であれば、その言葉には大いに頷いていたことだろう。だがこのとき、アリアスフィリーゼにはわずかに逡巡があった。
「ショウタは、私一人が戦っているのではない、と言いました」
ぽつり、と以前彼に言われた言葉を反芻する。
「それが、つまりみっちゃんや、キャロルや、他のみんなを示す言葉であるのもわかっているつもりです。ですが、それはきっと、ショウタなりの決意の言葉だったのだろうと思います」
あの雷の日のことだ。隣でぎゅっと握り締めてきた、ショウタの手のぬくもりを覚えている。彼が一緒に戦うと言ってくれたとき、心から怯えが消えたのは事実なのだ。弱く、脆く、頼りないショウタだが、その秘めた決意を無下にすることだけは、どうしてもできない。
「なるほど」
みっちゃんは短く、しかし深々と頷いた。しかし、こうも続ける。
「しかし、ショウタ殿も、いずれは帰ってしまうのでしょう?」
「えっ?」
不意を打つような言葉である。アリアスフィリーゼはおもむろに顔をあげた。
まぁ、確かにそうだ。ショウタはこの国の人間ではなく、故郷から遠く離れたこの地で永住する決意を固めているわけでもない。言葉の端々からは、いつか自分の国に帰れるのだろうという楽観的な希望が透けて見える。あえて、今まで考えずにいたことが、みっちゃんの言葉と共に脳裏に蘇った。
それはある意味、ショウタが戦いの中で命を落とすという話よりも、よっぽど現実味の薄い未来像だった。ショウタが、ある日突然、いなくなる。故郷に帰ってしまう。それはそれは遠い国であるらしい。二度と会えるかも、わからない。
それを意識した瞬間、アリアスフィリーゼの瞳から、ぽろり、と感情の礫がこぼれ落ちた。それも、かなりの大粒だ。
「殿下?」
みっちゃんが、ショウタの顔でぎょっとしたように目を見開く。
「で、殿下、申し訳ないであります。あ、あの、悲しい想像をさせたでありますか?」
悲しい想像。確かにこれは、悲しい想像、なのだろうか。あまりにもリアリティのない想像だけに、それに付随する感情の正体がよくわからない。まぁ嬉しいか悲しいかで言えば、悲しい寄りな気がする。
そうした気持ちを正直に口にし、伝えようとしたのだが、代わりに飛び出してくるのはなぜか嗚咽だけであった。目元を拭うと、だあだあと流れる涙の量は意外と多い。
「あ、う……。ぐすっ……」
「ああその、申し訳ないであります! た、楽しいことを考えましょう。殿下! ショウタ殿の作ってくれる料理、楽しみであります!」
いつも冷静沈着マイペースなみっちゃんが、こうも取り出すのは珍しい。面白いものを見た、と思う気持ちはあれど、アリアスフィリーゼは目元から流れ落ちる正体不明の感情を持て余し気味で、それを指摘するだけの余裕はなかった。
ただきっと、いまひどい顔をしているのだろう。こんな顔をショウタに見られるのは気まずい。なんとか、サロンに到着する前に泣き止んでおかねば。
みっちゃんの言う通り楽しいことを考える努力をして、アリアスフィリーゼは、しばらく後にようやく泣き止んだ。
「ま、まぁ。その、なんでありますか」
それでもまだ、微かに嗚咽を漏らすアリアスフィリーゼを前にして、みっちゃんは言う。
「殿下と共に戦いたいというショウタ殿の意見を尊重するならば、ショウタ殿にはもっと、強くなってもらわないといけないでありますね……」
「ぐすっ……やはり、今のままでは、その、危険なのでしょうか……」
目元を拭って尋ねる彼女に対して、みっちゃんは重々しく頷く。
「先ほど殿下と一緒に戦ったゴブリン特異個体一頭でも、今のショウタ殿には致命的でありますよ」
「3人とも、下がってください!!」
ショウタはあらん限りの叫び声をあげて、左腕を突き出した。吊られた右腕を動かせないのがもどかしい。意識を先鋭化させ、大脳旧皮質を経由して、思考領域から不可視の力を引きずり出す。空間が陽炎のようにゆらめき、ショウタ自身と〝それ〟の間に壁を築き上げた。〝それ〟の鋭利な爪が、壁に叩きつけられ、衝撃がショウタの身体へわずかにノックバックする。全身が痺れるような感覚があった。
「な、なんだ!?」
ショウタの声に促されるまま下がったサウンだが、ショウタと〝それ〟の間に生じた不可解なやり取りを目の当たりにして混乱をあらわにする。
彼女が、ショウタが今まさに相対している〝それ〟の姿を視界に収め、その外観を正しく認識するまでに、少しばかりの時間を要した。
「あ、こ、こいつ! こいつだ! アタシ達がこの地下水道で見た怪物!」
「ええ、でしょうね!」
ショウタは歯を食いしばりながら、〝それ〟を見る。
血を思わせる赤で、地下水道の暗闇を照らす不気味な双眸。口元から除く、歪に捻くれた牙。黒い霧のような吐息。床を擦るほどに発達した長腕。文献で見たゴブリンによく似ているが、違う姿。そして、いやがおうにも想起されるあの怪物、袈裟懸けとの部分的な共通点。
もっとも当たって欲しくはない予想が当たる。この怪物の正体とはすなわち、ゴブリンの特異個体であったのだ。
特異個体とは本来、通常個体より凶暴化した、一部の突然変異体にのみ用いられる呼称だ。特定の要因で変化した獣魔族全体を指し示す言葉ではない。が、このゴブリンらしき怪物は、オークの特異個体である袈裟懸けと、似通った部分があまりにも目につく。あるいは、同様の原因による突然変異であるのかどうか。
いや、
そこまで考えて、ショウタはかぶりを振った。
今はそのようなことを、考えている場合ではないか。
「お、おい! どうすんだよ、おいっ!」
背後から、焦るサウンの声が聞こえる。その間にもなお、ショウタの広げた不可視の壁を切り崩そうと、ゴブリンの特異個体はその腕を振るう。今までの戦いで、山賊や町のチンピラを抑え付けた時とはわけが違う、強烈なノックバック。それは、先日の大規模な獣魔族の討伐作戦においてショウタがあいまみえたコボルトの通常個体よりも、はるかに強い力の拮抗だった。
それでも、守りに徹する限りはまだしばらく持ちこたえられる。ショウタは歯を食いしばりながら、こう答えた。
「逃げるんですよ! 決まっているでしょう!」
タイミングは最悪と言って良い。サウンと2人であれば、彼女を引き連れ、強引な転移で窮地を脱することができた。だが、全員抱えてのテレポートを試すには、自分を含めての4人は数が多すぎる。
ショウタの言葉を聞いて、サウン達は我に帰ったかのような表情をする。すぐさま3人で頷き合い、一目散に逃げ出そうとし、立ち止まってショウタに振り向いた。
「お、おい、おめーは……」
「逃げますから! 今は! あなた達の為に、時間を……ッ! 稼いでるんでしょうが!」
その言葉を聞き、サウンはどのような表情を浮かべただろうか。確認する術はない。だが、石床を蹴る足音が遠ざかりはじめたのだけは、確かに聞こえた。
全身から、じわりと汗がにじみ出す。力の拮抗は、徐々にではあるが付き崩されつつあった。ショウタは必死で歯を食いしばり、汗と共ににじみ出る悔しさを咬み殺す。今回は決して、修行を怠っていたわけではない。ほんの数日ではあるが、日々を鍛錬の場として、この不思議パワーを地道に強化してきたつもりだ。
だがそれでも、あの袈裟懸けを相手にした時のような無力感が拭えない。せめて、サウン達が逃げるまでは、ここから一歩も通さない。心に決めた覚悟を糧として、ショウタは力の拮抗域を押し戻す。不可視の壁をはさんで、ショウタとゴブリンの特異個体はにらみ合った。
袈裟懸けのような巨躯はなく、その身長はむしろショウタよりも低い。だがそれゆえに、その顔ににじませた、こちらを嘲笑うかのような表情ははっきりと視認できた。怪物の笑みは余裕を示すものなのか。
「うっ、うわあああああッ!」
背後で、サウン達の悲鳴が聞こえた。はっ、と振り返ろうとしたその隙をついて、不可視の壁が強引にこじ開けられる。
力の均衡が敗れれば、出口を失ったエネルギーはすべてショウタの思考領域に還元される。ショウタの全身に、身を引き裂くようなすさまじい衝撃が逆流した。彼は目を見開き、背筋を反らせる。この瞬間、ショウタ・ホウリンの身体は完全に無防備となった。
ゴブリン特異個体は、その嘲笑を確かなものとして、長腕を振り上げる。自身に向けて振り下ろされる鋭利な爪の先端部を、ショウタはスローモーションを眺めるかのように見つめていた。




