第31話 袈裟懸けの悪魔
オークやオウガといった大型獣魔族を相手に騎馬戦を挑むのは禁物であるとされる。ゆえに、討伐戦は基本的に下馬した状態で行われる。
前線基地周辺を徘徊していると予想されたオークの群れは、偵察隊によりすぐさま正確な位置を割り出され、本隊から分かれた遊撃部隊は、馬車を用いて現場へと急行した。十頭ばかりのオークの群れはみなオスであり、比較的若い個体である。群れの統治者たるクイーンの姿は確認できず、おそらくは狩りの練習のために、巣穴から出てきたオーク達であると思われた。
大型獣魔族は、その膂力で重装騎士の突撃など容易く受け止める。また、大抵のフルプレートメイルもその豪腕の前では意味を成さない。騎馬による攻撃をタブーとする理由は主にここにある。
出撃を前にヨーデル・ハイゼンベルグは、その旨を改めて通達した。
参加要請を受けた一部の騎士達は、コボルト討伐の際に突撃部隊へ参加していていたわけであるが、その通達と共に甲冑の追加装甲、及びアタッチメントパーツを外した。キャロルや別動隊に参加していた伝統騎士達を思わせるような軽装、すなわちマーリヴァーナ要塞騎士としての本来の姿に戻る。
マーリヴァーナ要塞騎士の甲冑は、黒竜式戦術剣技の哲学に乗っ取り基本は軽装とされるが、追加装甲の着装により重装鎧として扱うことも可能だ。刺突剣もまた、〝砲熱斗式〟と呼ばれるアタッチメントにより馬上槍として扱えるようになる。近年における突撃戦術の強化、発展に伴う武装面の主な進化であった。
ショウタの感想は『ちょっとかっこいい』ってなもんである。男の子はギミック好きだ。
アイカの鎧は現在まとっている超重量の甲冑のみであって、このような対応性のある切り替えはできない。まさか鎧下姿のまま戦列に加わるわけにもいかないので、周囲の騎士が軽装である中、暑苦しい全身甲冑に身を包んだまま、少しばかり気まずそうに馬車に乗り込んでいた。
まぁ、そのような経緯を経て総勢30名近くの遊撃隊がオークの群れのもとへとたどり着いたわけである。
遠方から群れの存在を視認した時点で、馬車は三方へと展開した。オークの群れより80メーティアほど離れた地点に馬車を止め、進撃先にやや回り込む形で、鶴翼状に布陣を敷く。遊撃隊の指揮官であるヨーデル・ハイゼンベルグは馬上より指示を下した。
こちらに気づいたオーク達は両腕を高く掲げて唸り声を上げた。獣魔族の若い個体は、得てして好戦的だ。これが単なる威嚇行動ではなく、戦闘を仕掛ける前段階であることを、ヨーデルは丁寧に解説する。
うねり癖のある金髪を人差し指で巻き上げながら、ヨーデル・ハイゼンベルグは実に余裕のある態度を見せていたが、その声が微かに震えているのに、近くに立つショウタは気づいていた。
オークを鶴翼に迎え撃つ陣形である。アイカとショウタは、ヨーデルの正面に配置された。機動性に欠けるため、指揮官の護衛と突出して来た個体の迎撃を行うという建前の上ではあったが、その実、獣魔族討伐の手順を指揮官に近い立ち位置から見学させるのが目的だ。
「しかし、オークってナマで見るとあんなもんなんですね……」
「予想外でしたか?」
「いえ、割りと予想通りです……」
ショウタの目には、怒号とともにこちらへ駆けてくるオークの群れが映った。筋肉の鎧を、脂肪とたるんだ皮で覆っているために、でっぷりとした印象を受ける。ぬるりとした体液が表皮の上を滴る様は、見ていて決して愉快なものではない。頭部の形状は豚に近い。たるんだ額の皮は両目にまで覆いかぶさっている。
生き物の形状に美醜を問うのはどうかとも思うが、とにかくオークの外見はおぞましい。あえて人間の美的センスを意識して造型したのではないかと思われるほどに、悪趣味なカタチをしていた。
「オークは本能的に、敵対する群れの一番弱い部分を狙う」
馬上のヨーデルは震える声で言う。群れの一番弱い部分。それが誰であるか、おそらくはっきりと自覚しているのだろう。
「成熟した個体の混じる群れであればもう少し頭が回るのだが、若い個体はそうではない。一番弱い部分を中央に配置し、防御に適した鶴翼で迎え撃つのが定石だ。わわ、わ、わかるかね」
「まぁ、理屈としては……」
そのように考えれば、一番弱いヨーデルの護衛として、アイカやショウタを配置したのもわからない話ではない。
中央突破を図ろうとするオークを、伝統騎士たちが翼包囲する。リヴァーナ式合成弓に番えられた矢が、一斉に放たれた。
30本ばかりの矢が、地響きを立てて走るオークの群れに襲いかかる。伝統騎士の膂力に合成弓の張力が合わされば、岩をも砕く一矢となる。手や足などに狙いを定めた矢は、次々とオークの分厚い皮を貫いた。これらは致命打にはいたらないが、ハリネズミのようになったオーク達の姿を見て、ショウタは身をすくませる。
「あの矢は特別製で、抜けないように返しがついている」
更に痛くなるようなことを、ヨーデルが告げた。加えて、それらの矢には頑健そうな縄が巻きつけられているのを、アイカとショウタは確認する。伝統騎士たちが手馴れたかのような連携で縄を引けばオーク達の勢いが大きく減衰した。
オークの若い個体は身体能力に長けるが、熟練した伝統騎士が3人がかりで挑めば、決して御しきれない力ではない。かくてオークと騎士による綱引きが始まる。10頭のオークのうち7頭は、やがては騎士たちとの力比べに負け、大地へと引き倒された。それぞれの担当するオークが、〝どう〟という音を立てて倒れこむと、3人の騎士が剣を抜いて殺到する。
竜鱗すら突き穿つという、黒竜式戦術剣技の奥伝をもってすれば、オークの分厚い肉の塊を貫いて致命傷を与えることなど容易である。オーク達は次々と、あまりにも呆気なく伝統騎士達の手で屠られていった。
と、そこまでは良かった。
残された3頭のうち2頭が、縄を引きちぎる。瞬間、部隊に緊張が走った。
オークは、常に敵対する群れのもっとも弱い部分を狙う。だがその習性は、あくまでも合理的な戦闘本能の上に成り立つものであることを忘れてはならない。個体差はあるものの、他者を蹂躙するためにもっとも効率良い方法を思いついた場合、彼らの行動はそのセオリーから外れる。
縄を引きちぎった2頭のうち、1頭は迷うことなくヨーデルを目指した。馬上の百騎士長が、小さな悲鳴をあげるのがわかる。
問題はもう1頭である。そのオークは、最後に残った1頭を縄で引く3人の騎士に狙いを定めた。正しくはその中の1人、もっとも若く、もっとも力が弱いと判断される女騎士だった。ましてその時彼女は、両手を縄にかけている。全神経を綱引きに集中させていたその女騎士は、伝統騎士の持つ従来の戦闘能力を、この時十全には発揮できなかった。
「ブオオオオォォォォォォォッ!!」
オークが咆哮をあげて、女騎士にタックルをかます。
「きゃああっ!」
肺からたたき出された空気のせいで、悲鳴が潰れる。女騎士の身体は、ぽーんと跳ね、数メーティア離れた荒地へと叩きつけられた。拘束する力の1つが失われ、更にもう1頭のオークが自由を確保する。縄を引く2人の騎士に向けて飛びかかり、その野太い足で蹴飛ばした。
一転攻勢。瞬く間に、3頭のオークが拘束から解除される。オークはそれぞれ右翼、左翼、そして中央に散った。
「とと、戸惑うなっ!」
恐怖の滲む声音で、しかし毅然とサー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグが叫ぶ。
「周囲の騎士は、倒れた騎士を守りつつリカバリーに回れ! 持ち場を離れすぎるな! 右翼と左翼、それぞれ10人体制で押さえ込め! せ、接近戦は挑むなっ!」
浮き足立つ伝統騎士たちは、ぴたりとその足を止め、数秒の逡巡の後、その言葉に従った。その間、なおも中央のオークがヨーデルを目指す。
アイカは振り返り、青い顔でガチガチと震えるサー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグに声をかけた。なおも正面からは、オークの巨体がまっすぐにこちらを目指す。この巨躯に宿る殺意が、明確に自身に向けられているものだと悟れば、なるほど、ヨーデルの恐怖も理解できないではない。
だが、
アイカは視線を正面に戻した。彼我の距離は、もう3メーティアにも満たない。オークが2歩、3歩踏み込めば、接触距離となる。アイカは、ちらりと脇に立つショウタを見た。ショウタもこちらを見上げ、小さく頷いている。
「ブオオオオッ!」
「くっ!」
アイカは鞘ごとの剣を掲げ、振り上げられたオークの拳を受け止めた。ショウタが両手をかざす。ぐん、と後押しされる感覚があり、オークの拳が軽くなる。
アイカは、鎧を着たまま地面を蹴りたて、身体を宙に浮かべた。超重量の甲冑をまといながらも、なんとか姿勢制御を成功させ、きりもみ半回転を行いながら、その両足をオークのみぞおちめがけて叩き込む。
「重式月穿砲ッ!」
オークの巨体が、軽々と突き飛ばされた。同時に、左右のリカバリー役から漏れた騎士達が、倒れ込んだところめがけて、奥義を放つ。分厚い肉の壁を食い破り、刺突撃は致命打となった。これで8頭目。
アイカはドロップキックを放ったままに地面に落下したが、すぐさま立ち上がり戦況を眺める。
右翼側、倒れ込んだ女騎士に、オークは更に襲いかかる。彼女のいる箇所がもっとも守りが薄いと判断したのだろう。だが、四方から特製矢を打ち込まれ、10人がかりでその手足を封じられる。1歩たりとも動けなくなったところに、女騎士渾身の奥義によって、その頭部を吹き飛ばされた。
左翼側もまさしく決着がつくところである。同様に、予備の矢を打ち込まれたオークは手足を封じられ、残った騎士達の手であっさりと討ち取られてしまった。
「戦いとは、こうしたものです」
まだわずかに震えを残した声で、ヨーデル・ハイゼンベルグはそう告げた。
そのセリフは、彼の口から初めてアリアスフィリーゼ・レ・グランデルドオに向けられたものである。戦いの喧騒の中、アイカは姫騎士アリアスフィリーゼとして、後ろを振り向く。
「きちんと作戦を組み、状況に応じた指示を下せば、殿下や騎士将軍のような突出した力量を持つ者にのみ、頼る必要はないのです」
「でも、今回は殿下がいなかったら、侯爵さん死んでましたよ?」
ショウタの指摘は、のんびりとした口調だが容赦がない。ヨーデルは渋面を作る。
「まぁ、そうですな……。殿下のお手を煩わせたことは、非常に苦々しく思いますが……」
逆に言えば、彼女の突出した力の使い道は限られているということだ。今回であればそれは、作戦の安全性を増すための保険としてだった。それに、例えヨーデルがオークの拳に叩き潰されて散っていったとしても、彼の残した指示はきちんと機能していたし、オークの殲滅という作戦自体は成功していた。
「………」
「浮かない顔ですな」
「……いえ、マーキス。あなたのおっしゃる通りなのでしょう」
アイカは、その形のいい顎に手をやりながら、かろうじてそう言った。
ヨーデル・ハイゼンベルグの言葉は正しい。騎士ならば護国のために命を捧げる覚悟があって然りだし、そうした命が人垣となり脅威を退けられるのならば、それは騎士団としてあるべき理想の姿だろう。
ショウタが、悩むアイカの真横で、ヨーデルに対しこのように言った。
「殿下は、たぶん、目の前で誰かが傷つくとか、そういうの駄目なんだと思いますよ」
「なるほど。恐れながら殿下は、指揮官としての資質がいくらか欠如しているようですな」
少しばかりグサリと来る一言を、ヨーデルは平然と告げる。そのまま、馬を一歩前に動かして、サー・マーキス・ヨーデル・ハイゼンベルグは戦場の伝統騎士たちに声をかけた。
「諸君、ご苦労である! これより通例に従って、死体の焼却処分を行う。5分で薪を組め! 残る者は死体を一箇所に集めろ!」
騎士たち言葉を受けて命令を実行する。オークの討伐など、終わってみればあっけないものだった。
アイカ・ノクターンはちらりと、右翼側でオークの死体を牽引する女騎士に目をやる。同僚に声をかけられ、照れくさそうに頬を掻く彼女に、どうやら大きな怪我は見られない。青みがかったショートヘアの女騎士の装いは、剣友の出で立ちとは似てもにつかない。
が、オークに突き飛ばされた女騎士の姿に、一瞬でも彼女を重ねてしまったのは事実だ。
自分は、キャロルを信頼していないのだろうか。アイカは、妙な胸騒ぎを覚えたまま、空を見上げた。
今にも泣き出しそうな曇天は、ただひたすらに、生ぬるい風を運び続ける。
Episode 31 『袈裟懸けの悪魔』
FATAL PRINCESS of the KNIGHT KINGDOM
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そのオークは、すべてが規格外であった。
一般的なオークをはるかに凌駕するその巨体は、3メーティアを超える。腕周りの太さだけでも、キャロルの胴回りをふたつ、みっつ束ねたほどはあるだろう。太いだけでなく、妙に長いその腕は、本体が猫背気味なのも相まって、だらりと垂らせば指先が地面を擦る。
通常のオークが濃緑色の表皮を持つのに対し、この個体は赤錆たよう銅のような色合いをしていた。何より目を引くのは、右肩から左腰にかけて大きく走る裂傷の痕跡だ。
全身から分泌する、オーク特有の不燃性の体液は一般的な個体よりもはるかに量が多く、また生臭い。肥大化した頭部からは、二本の捻くれた牙が覗き、たるんだ皮の中に埋もれてもはっきりとわかる真紅の双眸には、明確な殺意をにじませていた。口元から黒い煙のような吐息が漏れている。
大型獣魔族オーク種準戦略級特異個体・袈裟懸け。
そのそそり立つ威容を前にして、キャロル・サザンガルドの身体は震えを隠せない。果たしてそこに、彼女のオーク種に対する恐怖は関与しただろうか。生きとし生けるものすべてに対する純粋な殺戮者。獣欲と虐殺の化身。恐怖の具現。それこそが目の前にいる怪物だ。
「う、あ……あ……」
金色の瞳は大きく見開かれ、全身から噴き出す汗はとめどない。鼓動の早鐘は、それ自体が警報器であるかのように、キャロルの鼓膜を幾度となく叩いたが、肉体のアラームに反して彼女の肉体は一歩たりとも動き出そうとはしなかった。まるで皿の上に載せられ、据え膳と共に〝その時〟を待つ主菜となったかのように、ゆったりとした足取りで近づく袈裟懸けを眺めていた。
「騎士隊長ッ!」
共に行動していた伝統騎士の一人が、キャロルの手を取った。ぐい、と引っ張られて初めて、キャロルの身体がそこを動く。
「騎士隊長、しっかりしてください! 貴女が動かなくてどうするんです!」
「あ、ああ……」
「一度、他のみんなと合流します。いいですね!」
「そ、そうだな……。すまない……!」
まだ身体の震えは収まらないが、部下からの一喝はようやく、キャロルの脳にまともな理性を呼び戻した。
一般的にオークは鈍重なイメージを持たれているが、標準個体でも訓練された成人男性とほぼ同等の速度で走ることができる。この特異個体を前に、果たして逃走が正しい選択であったかどうかは不明だが、今3人で挑めばどのような結果を呼ぶかは火を見るよりも明らかだ。
この時、彼らにとって幸運だったのは、他のゴブリンの群れがちょうどこちらへ姿を見せたことだった。ゴブリン達は、袈裟懸けの足元に転がる仲間たちの亡骸を前に憤慨し、小さな蛮刀を振りかざして次々と、未知なる怪物に襲いかかっていく。
「へぇ、連中も仇討ちってするんスねぇ……」
逃走中、部下の1人があえて軽口を叩くように言った。
「獣魔族は知能の高い社会性動物だから、ある程度の仲間意識はある。ゴブリンは個々の力が弱い分、結びつきが強いんだ」
キャロルは知識を引き出しながら、自らの思考回路が完全に凍りついていないことに安堵した。
背後では、勇猛果敢で、なおかつ無謀なゴブリン達の断末魔が聞こえたが、振り返る余裕はない。感謝を捧げるつもりもなかった。連中が、ここではないどこかの村を襲い、またこの村に残る村民達の死体を弄んでいたのは事実だ。
直後、
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
身の毛のよだつような大咆哮が、後方より轟いた。袈裟懸けのものだ。同時に、地響きのような足音が、こちらにまっすぐ伸びてくるのがわかる。ゴブリン達は、ほんのわずかな足止めにも、なりはしなかった。
キャロルたちは互いに頷き合い、逃走経路を家屋と家屋の狭い隙間に変えた。やや回り道になるが、直線状の通路はすぐさま追いつかれ、背面からの強襲を受ける恐れがあった。
道幅が狭くなろうと、動きに大きな支障はでない。変わらぬ走行速度で一気に駆け抜ける。
袈裟懸けの咆哮に加え、巨体が石造りの家屋にぶち当たる鈍い音が、こちら側に響いてきた。恐怖心を抑えきれず振り返ると、袈裟懸けの肥大化した頭部が、狭い隙間に首を突っ込んで牙を剥いている。涎と煙状の吐息をまき散らしながら、こちらに噛み付かんと首だけをむちゃくちゃに動かす様がおぞましい。
だがすぐに、袈裟懸けはその両手を家屋の間に突っ込むと、力任せに、しかし軽々と石造りの家屋を突き崩した。もはやこの程度の建造物では、足止めの障害物にはならない。
キャロル達は再び、全力で走りだした。壁を粉砕しながら迫る音に、もはや振り返る余裕はない。
「うあああッ!」
走りながら、部下の一人の悲鳴が聞こえた。振り返る余裕はない。全力疾走を続けながら、キャロルにできることといえば、その名前を読んでやることくらいだった。
「サー・ジャック、どうしたッ!」
「騎士隊長、走って! 俺に構わ……」
言いかけたその言葉を最後に、ジャックの声は聞こえなくなった。同時に石壁を突き崩す音が消え、代わりに骨が砕けて肉の飛び散る嫌な音が、耳朶に届く。キャロルの心に、さっと冷たいものが落ちた。そのあとも、何かを力任せに引きちぎり、握りつぶし、あるいは咀嚼する音が、音だけが便りとして届く。
くじけそうになる心を後押しし、泣きそうになる身体を抑えて、キャロルは走った。部下が最後に発した言葉を、裏切るわけにはいかなかった。
やがて、キャロルと残ったもうひとりの部下は、中央広場にたどり着く。そこには、村落内に響く轟音から異変を察知したか、討伐隊の他のメンバーも集まっていた。副隊長格の男が、キャロル達を見て訝しげに首をかしげる。
「騎士隊長、サー・ジャックは……?」
「……袈裟懸けに襲われたものと思われる」
声帯の震えを押さえ込むには、少しだけ時間を要した。隊内の空気が変わる。ジャックと仲の良かった一人の騎士が、おずおずと声をあげた。
「そ、それで、やつの最期は……」
「不明だ」
端的に言えば、キャロル達はサー・ジャック・リンドを見捨てたことになる。一瞬それを口にすることを躊躇したが、キャロルは恥辱と後悔に顔を伏せながらも、正直にそう告白した。どうせ黙っていても、察するにはあまりある話だ。
しかし、不信の種を残しておくよりははるかにいい。『自分も見捨てられるかもしれない』と疑わせておくよりは、『状況如何では、誰であっても見捨てる』と、はっきり覚悟させておく必要があった。
副隊長も、そうしたキャロルの意図を察したか、隊内から様々な感情が噴出する前にこう言った。
「懸命な判断です。3人そろって討ち死にするよりははるかに良い」
「仇を打ちましょう。騎士隊長」
先ほど、ジャックの最期を尋ねてきた騎士が、表情に微かな怒りをにじませる。
怒りに身を任せるのは危険だ。だが、この場にあっては決して悪いことではないと、キャロルは判断する。何より、同様の感情は自身の中にもあった。怒りが、恐怖をかき消してくれるならば、自分はまだ戦
える。
「……当然だ」
拳を握るキャロルに、副隊長が心配そうな顔を向けるが、彼はそれ以上何も言わなかった。
キャロルは、一同に5人編成のチームを組ませ、ある程度距離を取りながら、しかし決して視認不能な距離に離れないよう行軍する旨を伝えた。袈裟懸けの奇襲に対し、1ヶ所にまとまっていれば一網打尽にされる可能性があったからだ。しかし、完全なる別行動はむしろ各個撃破の危険がある。ゆえに、キャロルなりの最適解がこうであった。
ジャックの欠員により、1つだけ4人編成になる班が出るが、そこにはキャロルが収まった。2人が弓を構え、残りのメンバーが剣を構えた状態で進軍する。
オーク討伐のセオリーはおおよそ決まっている。キャロルが率いる袈裟懸け討伐隊のメンバーは、いずれも単騎でオーク一頭を仕留められる猛者ではあるが、相手が規格外の化物ともなれば話は別だ。袈裟懸けの膂力を御しきるには、実力者数名が一丸となる必要がある。
廃村には不気味な静寂が戻っていた。ゴブリンを含めた生者の気配が、まるでない。
オークを発見する手段には、その独特の体臭を辿るというものがあったが、この村に立ち込める腐臭と血臭が邪魔をしてそれすらままならない。大地に散らばる血の海は、村人のものとゴブリンのものが混じって、吐き気を催すような色合いへと変化していた。
やがて、ジャックの声が途絶えた地点にたどり着く。家屋は完全に粉砕されていた。床には、真新しい血の跡が点々と残っている。
「クソッ……!」
まだ若い騎士の1人がそう毒づく。副隊長は、周囲を冷静に見渡した。
「袈裟懸けは姿を消したのでしょうか?」
「いや、やつの執念深い習性は報告されている。まだ私たちを狙っているように思うが……」
一同は油断せず、視線を配る。その時、家屋の物陰に、ひらりと布の切れ端のようなものが消えるのがわかった。目には、同時に人影も映る。それがマーリヴァーナ要塞騎士鎧下制服の裾であることは、誰しもが気づいた。
「サー・ジャックか……?」
そんなはずはない、と思いながらも、キャロルが口にする。共に袈裟懸けのもとから逃げた騎士が、重苦しい声で言葉を呈した。
「騎士隊長、やつは……」
「ああ、そうだな。すまん……」
ジャックが生きているはずがないのだ。何かの見間違いに決まっている。
だが、ジャックの友人であった若い騎士は、刺突剣を構えたまま恐る恐るそちらへ足を進めた。
「騎士隊長、確かめてきていいですか?」
「1人で行くな。先ほどまで同じ、5人1組を維持しろ」
キャロルはぴしゃりと言う。チームが若い騎士の後を歩き、キャロルの班と、もうひとつの班も彼らを視界から逃さないように、少し距離を置きつつ移動する。
物陰を覗き込むと、そこには1人の男が、騎士剣を杖がわりにし、壁に寄りかかるようにして背中を向けていた。全身からは夥しい血が流れ、鎧下制服はボロボロになり、各部のポイントアーマーは砕けているが、それは間違いなく、
「ジャック……!」
若い騎士は声に安堵と喜色をにじませて叫んだ。彼の喜びは、遅れて部隊の全員に蔓延する。
「良かった、ジャック。無事だったのか! よく袈裟懸けから逃げられたな! 騎士隊長も心配して……」
若い騎士がジャックの背中に駆け寄った。笑顔で、彼の肩を叩いた、その瞬間だ。
ずるり、と、
彼の身体が、荒々しい切断面を晒して崩れ落ちた。いや、切断面と呼ぶことすら躊躇される、力任せに強引に引きちぎったような痕。ジャックの身体は、すぐさまバラバラになって地面に転がった。キャロル達がジャックだと思っていたモノは、かつてジャックだったモノを積み木のように組み立てて、無理やり立たせていたものに過ぎなかった。
ごろん、と地面に転がった彼の頭部は、表面がえぐり取られていてその人相を確認することすらできない。
「うわあああああああああッ!」
若い騎士が悲鳴をあげたのは、決して戦友の無残な亡骸を目の当たりにしたから、
だけでは、ない。
まさしくその瞬間、完全に死角となっていた家屋の物陰より、3メーティアを超える獣魔族の巨体が姿を見せたのだ。袈裟懸けの豪腕は石造りの家屋を突き崩し、立ちすくむ若い騎士に襲いかかる。騎士は刺突剣を構えて応戦の姿勢を見せたが、豪腕は彼のはかなげな勇気を容易く打ち砕いた。青年の身体が宙に踊り、そのまま巨大な手のひらが彼の身体を掴み取る。
「総員、弓を構えろ!」
キャロルは即座に、非情とも言える命令を下した。数匹のゴブリンをまとめて握りつぶした袈裟懸けの握力を、彼女は知っている。
若い騎士は、即座にその表情に恐怖をにじませたが、その表情が決意と覚悟を宿したものへと変わるのに、そう時間はかからなかった。幸いにして自由な右腕で、背中の矢筒から数本の矢をまとめて抜き取り、袈裟懸けの首筋に突き立てる。袈裟懸けは悲鳴こそ上げなかったが、青年を握る拳にぐっと力を込めた。
果たして若い騎士の肉体は、直後に血と肉が詰まっただけの袋となる。外圧によって袋は弾け、内容物が飛散した。
「放てェッ!!」
キャロルの号令もまた、悲鳴に近かった。袈裟懸けは手元の肉くずを放り捨てると、唸り声をあげて突撃する。矢ぶすまにされてなお、袈裟懸けの足は衰えない。その真紅の双眸がまっすぐに見つめているのが自分だと気づいたとき、キャロルの心胆は再び、必死でかき消していた感情によって覆い隠される。
「――――――――――――――――――――ッ!!!」
恐怖によって足のすくんだキャロル・サザンガルドに、袈裟懸けの巨体が襲いかかった。




