兄の知らない義弟と実妹のこと (和泉視点)
もう深夜に近い。
『ごめんね』
翠ちゃんから送られてきたメッセージを見て、僕はスマホの画面を伏せた。既読無視にはしない。後できちんと返すけどーーーー、今は無理だった。
ベッドに顔を沈める。
もう何も考えたくない。
今日は碧兄ちゃんが我が家に泊まりに来ている。
翠ちゃんの兄にして、お姉ちゃんと僕にとっての幼馴染。
碧兄ちゃんは父親譲りでスタイルが良くて、おまけに何でもできる。碧兄ちゃんが苦労してる姿なんて、僕は生まれてこの方見たことがない。
しかもその才能を自分のためではなく、ほとんどお姉ちゃんに費やすか、他人のために使う。僕は碧兄ちゃんは、だいぶお人好しの部類だと思うけどね。
それに、本人は否定してるけど、顔もなかなか良い。
僕は…整ってはいるけど、お母さんに似たから「美人」という方が適切で、碧兄ちゃんみたいに男らしいイケメンではない。
女子の心をいとも簡単に掴んでしまうのは、碧兄ちゃんみたいなタイプだ。
うちのお姉ちゃんも、メロメロだし。
そりゃあ、あんなのが近くに居て、自分を甘やかしてくれたら、好きになるに決まってる。
まあ、お姉ちゃんはだいぶ単純かもだけど。
ーーーー羨ましい、と心底思う。
幼馴染で、何事もなく順調に付き合ってる碧兄ちゃんとお姉ちゃんの方が、世間で見たらレアケースだ。
碧兄ちゃんは、知らない。
僕と翠ちゃんが、自分たちのように、将来結ばれると確信して昔から疑わない。
でも、僕は。
昔、一度翠ちゃんにフラれてる。
両想いだと思ってた僕が、馬鹿だった。
小学生らしく、ガキだった。
周りでだんだんカップルが出来て、「じゃあ僕たちも」なんて、僕は断られる未来線なんてあり得ないと思ってた。
でも、翠ちゃんは言った。
『和泉とは、幼馴染で居たいの』と。
何で?
幼馴染以上で居たい僕にとって、それは残酷な答えだった。幼馴染で居たい彼女と、それ以上を望む僕の間にある溝が、浮き彫りになった瞬間だった。
でも、僕は諦められなかった。
翠ちゃんに一度フラれたからって、この恋にピリオドを打つつもりはなかった。
クールな翠ちゃんは、僕には色んな顔を見せてくれる。淡々とした言葉は彼女の基本仕様だけど、不意な瞬間に満面の笑顔を見せてくれたり。僕の一言に、赤面してそれを恥ずかしそうに隠したり。
それは……幼馴染の僕にだけだ。
でも、「幼馴染だから」……なのかなとも、思ってしまう。
お願いだから、僕の勘違いでなくあって欲しい。
僕と同じ気持ちでいて欲しかった。
前に告白した時と違って、今はもう、違う気持ちでいて欲しかった。
今日の帰り道、翠ちゃんにもう一度告白した。
彼女が同じ部活の先輩に告白された、なんて僕にいちいち報告してくるから、僕は焦った。
彼女が違う男のものになるなんて、想像もしたくなかった。
翠ちゃんは、言った。
『幼馴染で居るのは、駄目?』
じゃあ、何でそんな僕を焚き付けるようなことを言ったの、と訊けば、翠ちゃんは不思議そうな顔をした。
『だって、その日に報告しなきゃ、和泉怒るもん。違う?』
違わないけど、そうじゃない。
報告してくれるのに、何で付き合うのは駄目なんだよ。僕の言うこと、そうやって受け入れてくれるくせに、何で一番大事なところは、翠ちゃんは受け入れてくれないの。
だから、僕は返した。
『幼馴染以上に、なりたいんだよ僕は』
『……何で?』
『好きだから、付き合いたいって、自然なことじゃないの』
『私、この関係に好きとか嫌いとか持ち込みたくないの』
『………僕はどうすればいいの、じゃあ。ずっとこのまま?幼馴染のまま?』
翠ちゃんは、ちょっと困った顔をした。彼女自身も、多分答えを持ち合わせていなかったんだと思う。僕のことを、幼馴染以上には…男としては見れないって言うんなら、そうはっきり言えばいいのに。
どうしてそこで悩むの翠ちゃんは?
ずっと僕に先の見えない期待だけさせて、どうしたいんだよ。
『………和泉は、あれだよね。恋人になって、恋人同士がするようなことしたいって、こと?』
身も蓋もない言い方をしてしまえば、そうなるのか。
好きな女の子がそばに居て、キスとかあれこれとかしたいって思うのは、仕方がない。
でもそれは単なる性欲とかじゃなく、彼女にだけ生まれる感情だ。
僕は翠ちゃんだから、彼女に恋人になりたいと申し出てるのだ。
そうだよ、と僕が返すと、翠ちゃんは頷いた。
僕の手を両手で取って、引いた。
僕は男子の平均で、翠ちゃんは女子にしては高い。
そう、背は変わらない。
だからなのか、翠ちゃんはちょっと屈んだ。
それから、目を閉じた。
『じゃあ……しよ?和泉』
彼女の誘いに、僕は動揺した。
翠ちゃんの方からまさかそんなことを言ってくるなんて、予想できる筈がない。
それは訳が違う。
違うんだよ、翠ちゃん。
僕は君で、自分の欲を満たしたいんじゃなくて、幼馴染よりもずっと約束された「恋人」になりたいんだよ。
そんなの、順番が違う。
『翠ちゃん、僕はさ……』
『私ね』
その後の彼女の言葉が、引き金だった。
『和泉の彼女には、ならない。これからも。……だから、今しておこ。和泉の言うことなら、恥ずかしいけど、聞いてあげる。これ以上もいいよ』
何で?
何でだよ。
訳が分からない。翠ちゃんの言っていることが、全然分からない。いいよ、って彼女は言う。
でも、絶対に僕の告白だけは了承してくれない。
限界だった。
何で僕が我慢する必要なんてある。
いいよって言うなら、じゃあもらう。
僕は、彼女にキスをした。
柔らかい感触が、一瞬で僕の意識を全部持って行った。
夜の静けさに、僕たちの初めてのキスは消えていく。
僕は彼女から唇を離した。
それとほぼ同時に、どん、と押された。
翠ちゃんが僕を突き飛ばすように、肩を押したのだ。
翠ちゃんは、驚いた顔をしていた。
切れ長の彼女の瞳が、珍しく開いていた。
『あ………ち、違う。わ、わざとじゃ。ただ、本当にすると思わなくて、びっくり…して………っ』
僕を誘ってきたのは、翠ちゃんだ。
男を甘く見過ぎだ。
だけど、これは僕が悪いんだろう。
僕が彼女の本気と、自分の本気を、履き違えたのだ。
冷静になると、僕は何をしてしまったのだろうかと猛省した。
本気にした僕が…悪い。
『……や、ごめん。………ごめん、翠ちゃん』
翠ちゃんは、あ……と固まっていた。
視線があちこち彷徨って、僕を最終的に見た。
まだ繋いだままだった僕の手を、翠ちゃんはきゅうと握った。
『………ごめんね、和泉。キスはね、嬉しかった。だから、これ以上も和泉が望むならいいよ。でも恋人にはなれない。………これが、今の私のあげられる答え』
翠ちゃんは、微笑んだ。
『帰ろ、和泉?』
『………うん』
彼女は詰まるところ、僕のことを、告白以外は受け入れてどうしたいんだろう。
僕は知ってる。
彼女は告白された時、いつもこう返す。
「私、好きな人がいるんです」と。
それが誰なのか、彼女に2度もフラれた僕は未だ訊けずにいる。
両想いだと、僕は……信じてる。
でも、それはただの僕の願望なのかもしれない。
『翠ちゃんのこと、諦めないでいい?』
『………い、いちいち聞かないで。キス受け入れてる時点で察して和泉』
『…………分かった』
『…………うん』
2人で手を繋いで帰る。
本当は分かってる。こういうことをしてくれるのは、翠ちゃんにとって僕だけで、翠ちゃんが何の気持ちもなくこういうことを器用にできる女の子じゃないなんてこと。
じゃあ、何でだろう。
僕たちはこの先も、幼馴染のままなのだろうか。




