おねだりとしるしを
夕食を終えて、宮野家のリビングでは大問題が発生していた。正確には、リビングの奥にある和室だった。
畳の上で、俺は来海のことを押し倒していた。
フローリングの床じゃないので、それほど来海の背中の心配をせずに済む畳で、ひとまず助かった。
来海が俺を見上げている。
来海の艶やかな黒髪が、畳の上で野放図に広がっていた。その絹のような細かさに、思わず掬いたくなってしまう。
儚い美少女が、俺の身体の下でみじろぐ。
和室の電気は、つけていない。
障子越しに届く、リビングの光源だけ。
来海が俺の頰にそっと、手を伸ばしたーーーー
「碧くん……」
「来海……」
互いの名を呼び合う。
来海は、こんな時は、ちょっと俺を揶揄うような妖艶な笑みを浮かべた。
そしてーーーーー
「お風呂、一緒入ろ?」
小首を傾げて、俺がめちゃくちゃ弱い上目遣いで惜しげもなく俺を見上げてくる来海。
俺は微笑んだ。
「………さて、来海ちゃん」
「お風呂、一緒ーーーーーーん"ん"ん!!?」
「ん?何か言ったかな?」
俺は冷や汗を垂らしながら、来海の口をパシッと手で塞いだ。俺の平均より大きい手に、来海の小さい口がすっぽりと収まってしまう。鼻は塞いでないので、申し訳ないがそちらで呼吸をしてもらう。
来海の唇の感触を直に感じて、もう何か色々ヤバいが、今はそれどころではない。
実はこの娘、先ほど宮野家のリビングでまったく同じ言葉を言っていたのである。
家族団欒の一コマで、そろそろお風呂どうするという話になった途端、とんでもない爆弾発言をした来海。
和泉は部屋に居たが、都さんも遼介さんも俺たちのそばに居たし、絶対聞かれた。
く……っ、2人が向けてきたあの生温か〜い目が、いたたまれない……!!
よって、俺は来海を小脇に抱えて、急ぎこの和室にて事情聴取の運びとなった。
来海は、ジタバタ。
俺の手を必死でどかそうとするが、俺も正念場だった。
「んー!んー!」
「来海、やめろ、言うな…!言ってはならぬ…!それを言われたら俺はおしまいなんだ…っ!」
何がヤバいかって?
終わってないんだよ、分からせタイムが!
来海の言うこと全部従う究極の甘やかしタイムが、続行中なんだよ、このお泊まりが終わる明日の朝までーーーーー!
分からせタイムだからちゃんと言うこと聞いてね?と言われたら俺は、拒否権などない。
一緒に本当にお風呂に入ることになってしまう。
風呂だぞ?!
頑張ってタオルでどうにかしても、裸だぞ?!
この前の腹筋がチラッと見えただけでいっぱいいっぱいになってた生娘に、それは性急すぎるに決まってる!
てかまず、いや、俺が無理だから!?
失神する。
恋人になってからのキスもまだなのに、何段飛ばす気だーーーー!?
ちなみに、来海の目は本気だ。
いやっ、どうしたんだ今日は…!まあ、何となく理由は分かるけどね!?
お泊まり提案といい、お風呂といい!
ブレーキを少しは踏んでくれこの娘ーーっ!
と、その時。
来海が、トントンと俺の手を叩いた。目尻には涙が浮かんでいた。
「…………っ、んん……っ!」
「……え!?…あ、すまん!?ごめんな!!苦しかったな、ごめん!」
はっ、俺は何てことを……!!
焦ったあまり、来海の口を塞いでしまった。
いたいけな来海に苦しみを与えてしまったなんて、彼氏失格と罵られても仕方がない!
「ごめん、本当にごめんな…!?大丈夫か、息でき………」
俺が来海の口から手をどけた瞬間ーーーーーー、
にやり。
ブラック来海ちゃんの笑顔が降臨した!!!
かっ、可愛……っ。
初めて見たんだが、そんな悪巧みしてる可愛い顔!
恋をすると人は変わるというがそういうことか!?いや違うな、多分この場合は違うわ!
でも可愛いからいいや〜!
ーーーーいや、良くねえわ!?
今日の仮病は一目で演技だと分かるものだったくせに、実はこの子演技派だった…だと!?本当は大倉賞じゃなく、アカデミー!?
来海はするっと俺の空いた片手を取り、指を絡ませた。封じられた!
俺がしまったと思うよりも早く、来海が俺に宣言する。
「お、お、お風呂は一緒に入ります…っ!分からせタイムなので、碧くんはこれを拒否してはなりませんっ!」
「………なっ、」
俺は動揺した。
否、動揺しないはずがなかった。
大好きな俺の彼女は、顔を真っ赤にして……
とてもそんな大胆なことを自分からするより、実は相手からされたくて。
自分からするには、羞恥心が先行して、結局いつも不発に終わる彼女が。
そんな最大限の勇気を出した言葉にーーー俺は何より心を奪われていた。
「…………く、来海……?」
「………っ、」
来海の肩が跳ねる。俺が覗こうとすると、来海は顔を隠すように、ころんと寝返りを打った。彼女の長い髪が、カーテンを閉じる。
来海の表情は、俺からは窺えない。
そっと、その髪を彼女の耳にかけた。
「来海……」
「……駄目、み、ないで………」
上気した頰も、潤んだ瞳も、全部勇気を出してくれたからだとすぐに分かった。
必死に言葉だけは王女をやって、でも本当はたまらなく恥ずかしかった彼女の本心が、全部出てしまっていた。
「…………不安なの……」
「来海……」
「この前も、多分、あの子は碧くんにどこか惹かれ始めた女の子の目をしてたから………でも、もうきっと会うこともないだろうって…、思ってた………だけど、また、碧くんと再会して、あの子の方がよほど運命だなって………」
恐らく……長篠さんの件だろう。元々来海は不安を覚えていたが、陽飛たちの見送りの日は俺にその不安を吐露することはなかった。
だけど、今日、その引き金を引かせてしまった。
でもまたそれも来海は飲み込もうとして、考えないことにするだなんて言って、だけどやっぱり…不安だったのだ。
本当は全然心の準備も何も出来てないくせに、俺に一緒にお風呂に入ろうなんて言い出したのも、きっとそれが原因なのだと思う。
「来海」
「………碧くん、お願い……何でもいいの……、何でもいいから………」
か細い声で、まるで縋りつくみたいに。
来海のまんまるの黒目がちの瞳が、揺れた。
「…碧くんは、私のそばにずっと居てくれる人だって、…分からせて……?」
多分、きっと、言葉を尽くしてもまだ足りない。
それは俺の今までのやり方だった。
優しくて甘い、唯一の言葉をかけて、来海を安心させてきた。
だけど、それ以上にもっと相応しい解決策は、俺と来海の関係性の変化が、もたらしてくれる。
恋人だから。
もう、遠慮する必要なんてない。
好きなだけ、彼女に行動で分からせたらいい。
「…………うん」
畳に立てていた片腕を曲げる。
俺と来海の、距離はほとんどない。彼女の吐息が、すぐそばで聞こえた。
薄暗がりの中、来海の首筋に俺はキスを落とす。
彼女の不安なんてなくなるくらい、俺はどうか分かってほしいと、そこに託した。
来海の甘い声が上がって、自分がそうさせてるんだと思うと、頭がどうにかなりそうだった。
暗闇で、よく見えない。
上手くできたかは、よく分からない。
それでも、彼女を分からせるにはきっと十分だった。
でも今までで、俺が昔彼女にあげたこの時間の中でーーーー最もそう感じられた『分からせタイム』だった気がする。




