譲れない行動原理
あの時のお礼をさせてください、と言う長篠さん。
俺は、迷う余地もなかった。
「ありがとう。お気持ちだけもらっとくな」
「え。……で、でも!」
長篠さんは、ちょっと困ったような顔をした。
あっ、と合点がいったように、目を丸くした。問題文の意味がようやく読めた数学の問題みたいに、もうここからは解けると確信している目。
「だ、大丈夫ですよ。私、大倉さんに彼女さん居るって知ってますし。お礼って、あれですよ。いいとこのお菓子とかの包みをお渡ししたいなと…思って…彼女さんも込みで、お礼の品を差し上げたいんです」
お菓子。……スイーツが好きな来海は、喜ぶだろうか。
でも、俺は咄嗟に、あの日、空港で長篠さんとののちゃんを見送った後の来海の横顔を思い出していた。
「………いや、ありがとう。お礼は、本当に大丈夫だ。お礼をされるようなことなんて、してないから……大丈夫」
……やめてほしい、と思った。
俺はもはや既にあの日のことは、悪手だったと思ってすらいた。姉妹の仲が険悪なまま旅行に行くのは可哀想だと思って、本当にちょっと協力しただけだった。だけど、来海にあの後余計な不安を覚えさせてしまった。
ののちゃんだけなら良かったんだろうが、この同年代の姉の存在が、来海にとって引っかかっていたのだ。
もちろん、長篠さんにとって初対面の俺がそんな対象であるはずはない。当たり前だ。
だが、来海はそれでも不安になってしまう。俺はあの日に彼女が不安になる程度の匙加減をミスったからして、どうにかしなければならない。
長篠さんが不可解そうな表情を浮かべた。
「……大倉さん、どうしてそんな頑なに…?もしかして、大倉さん…彼女さんに何か言われてーーーー」
「碧くん…?」
長篠さんの背後に、来海が立っていた。
ぱちり、と来海の長い睫毛が上下する。
『部活が今日は早めに終わるから、私も行っていい?』とボランティアの話を朝にした時に言っていた来海。
あの後、1人は心配だから桜井さんと来てくれと言ったから、桜井さんの姿もあった。
そろそろ来る頃だとは思ってたが……
長篠さんは、よく感情の分からない視線を来海に向けていた。
長篠さんより寧ろ来海の方が何故か、バツの悪そうな表情を浮かべた。こつんと、俯く。
「あ……ご、ごめんなさい。もうボランティア終わった頃かなと思って……」
「来海」
「あ、えと、ちょっと唯ちゃんとその辺ぶらついておくね…!碧くん終わったら、連絡して…!行こうっ、唯ちゃん…」
来海は、親友の桜井さんの腕を取って、踵を返した。桜井さんは、俺と来海を心配するように交互に見ていた。しかし、来海の方へついて行った。俺としては、彼女が来海の近くに居てくれてありがたかった。
長篠さんはいまいち要領の得ない表情を浮かべていた。
「大倉さん、えっと…私…」
「彼女には何も言われてないよ。俺が不安にさせたくないだけ。……お礼は本当に気持ちだけで、十分だし、必要ないんだ」
「でも私、借りは残したくないタイプなんです。後で気持ち悪くなっちゃう」
「じゃあそれでいいんじゃないか」
「え?」
長篠さんは、親切をしてくれた相手に礼を尽くすことが絶対的な善だと思って、疑わない。
だけど、申し訳ないが、その善意は押し付けがましい。こちらが辞退してなお、自分が後で気持ち悪くなるからという理由で礼を強いることは、一方的なように思う。
ああ、よくない。
もっと穏便に済ますつもりだったのに、自分の何より優先される行動原理が、俺をよくない方向へと駆り立てる。
それを何とか悟られまいと、俺は思ってもない笑みを浮かべる他なかった。
長篠さんが悪いわけではない。
「ううん。ごめん何でもない。…じゃあ、俺はこれで失礼するな」
「大倉さん、待ってください。連絡先だけでも…」
連絡先だけでも?
その言葉が俺からすればおかしくて、どこか乾いた笑みが溢れた。
長篠さんは、知ってか知らずか、まだ俺の信条を破らせるつもりでいるらしい。どうして俺が来海をわざわざ不安にさせることをできると思うんだ。
まあ、そうだ、知らないから仕方がない。
知らないということは、ある意味において無敵ということでもある。
だけど、本音を言えば、俺と来海の先ほどの空気感で察して欲しいというものだ。
俺は教室の奥に引っ込んで、引率の高嶋先生に帰宅する旨を伝えた。無事に許可がおりたので、俺は鞄を持って、外へと出た。
出口が1つしかないので、横を通り過ぎた時に、長篠さんに呼び止められる。
「あの、大倉さんっ、あ、の、何か誤解させてしまったようなら、私も一緒に彼女さんに謝ります」
どうしてさっきから、長篠さんは悪手しか選んでくれないのだろう。
「ううん、大丈夫」
長篠さんの方は振り返らずに、俺は、門に向かって歩き出した。
幸いにも、来海は保育園のすぐ近くの公園のベンチに居た。隣には、桜井さんが寄り添っている。俯いている来海より、桜井さんの方が先に俺に気付いた。
桜井さんが、来海の肩を優しく叩いて、大倉くんが来たわよと来海に教えてくれていた。
俺は、ベンチに座っている来海の前で、膝を折った。
来海の手を取って、小さく揺らす。
「……来海。帰ろう」
「………うん…」
来海は立ち上がって、俺に少し身体を寄せた。
「悪いな桜井さん。代わりに俺の親友が送って行ってくれるよ」
「あら、それは良い提案ね」
お互い雰囲気をたしなめるように、そんな言葉を交わした。
桜井さんと別れて、俺と来海は駅までの道を歩く。商店街のアーケード、入り口が緑に覆われた神社。普段過ごしてる水上市より、少し昔の風景が残る場所だった。
手を繋いで、2人で歩く。
「………碧くん」
「……うん」
「私ね………碧くんしかいないの」
「嬉しいよ」
「碧くんならそう言ってくれるって、知ってる。でもね、私は………、私、あの子の言葉聞いちゃったの……私、碧くんの迷惑になりたくないんだ………だから、私もう碧くんには………」
どうして彼女はその言葉の続きに行き着いてしまうのだろう。
いつも、いつも。
昔から、ずっと。
逆に決まってる。
来海に、俺しかいないんじゃない。
俺に、来海しかいないのだ。
どうして分かってくれないのだろう。
薄い氷の上にいるみたいに、ふとして壊れてしまうモノのままだ。
どんなに厚くしたつもりでも、気付けばいつも揺らいでいる。
来海が俺を信じている気持ちは、まだ追いついてはくれない。
「………来海だけだから、絶対に」
「……うん」
でも、思ったよりずっと力強い頷きが彼女から返ってきて、俺は安堵した。長年の成果、というべきか。
来海は、顔を上げた。それは何の憂いもない笑顔とは形容しがたかったが、それでも彼女の元来の明るさが現れていた。
元々、来海はそのような性格ーーだった。
「……うん!私、悩むのやめーよ!」
「うむ。それがいいな」
「でねー、碧くんっ!」
「ん?」
来海は、俺の前にぱっと飛び出た。
口に丸めた手を当てて、こほんこほん、と咳き込んだ。
「昨日、コンビニでアイスを買って帰ったせいか、ちょっと風邪気味でね……?」
俺は、笑った。
なかなかに芝居がかっていらっしゃる。しかし、美少女補正でいたいけな風邪を引いた少女になっており、大倉賞は受賞できそうなところであった。
昨日の学校からの帰り道の言葉を思い出す。
俺が『風邪引かないようにな』と言ったら、来海は確か『風邪引いたら、碧くんがお泊まりして看病してくれる?』と、可愛く言ってきた。
あれ?
おい待て。来海は、たった今風邪気味申告をしてらっしゃったぞ?
つまりーーーーー。
来海は少し茶目っ気まじりの笑顔を浮かべて、俺を見上げた。こちらを窺うように、小首を傾げた。
「碧くん!お泊まりしよっ?」
おい、ちょっと待てい。
とんでもないこと言ってきたぞこのお姫様…?
「……なっ、!い、いや、そんな急に…」
「大丈夫っ、うちの家族は皆んな居るよ!」
「いや恥ずかしいわ逆に!逆に!?」
過度な姉への甘やかしを規制しているだけであって、来海の弟の和泉は、俺たちの関係性自体はずっとにやにやして見ていた。
加えて、母親の都さんに、父親の遼介さん。
この宮野家オールメンバーが揃ってるなど、つまり、もう生温かい目で見られる以外あり得ないーーー!
俺は普段アホみたいなノリかましてるけど、根っこの部分はシャイボーイですから!?
ノリで行けないところは、もう、普段の勢いお前どこに行ったという感じになってしまう。
「や、それは、もうちょい段階踏みませぬか、来海王女?」
「ふふっ、ここでー!久しぶりの分からせタイムを発動させていただけます〜!お泊まりが終わる朝まで、私のお願い、碧くんに全部聞いてもらいます!」
「ここで…まさかの発動、だと…!?」
前回俺は猫にさせられた。
いや、改めて見てどんな文面だ。猫て。
来海に頬擦りされた部分は意地で脳裏に刻んだが、気持ちよすぎたか、いたたまれなかったのか、俺は他はあやふやな記憶しかなかった。
来海のお願いを全部聞くのが、分からせタイム!
それを宣言されてしまうと、俺に拒否権はない!
「く、来海……、再考しないか…?」
「やーだっ、今日は碧くんと寝るの〜!」
「おう…」
可愛いよ。可愛いよ、こんちくしょう。
俺、どうなるんだろうね。大丈夫かな?
耐えれるかな?いや、無理だろ。
………いつの間にか、来海は成長してたらしい。
泣いてばかりのあの頃とは、もう違った…。
…のかもしれない。




