選択の果て
混沌の海。そこは多数の世界が浮かぶ、原始の場所。法則は意味を持たず、それ以前に概念さえが曖昧で、確かなモノが一つも無い。いや、確たるモノを確立できなければその場所では存在できないと言うべきか。
ちなみに混沌獣の「混沌」は、当然ながら混沌の海からきている。存在の定義を曖昧にして、そこへ獣を再定義することで、バケモノを生み出す。それが混沌獣だ。もともとはヒト(ズィーラー人)の殻を破ってより神に近い存在へと進化させるための研究だったのだが、それがバケモノを生み出すことになったのは皮肉としか言いようがない。とはいえ今となっては詮無きことである。
その混沌の海に、いまサラはいる。ただの人間なら一瞬で自我を混沌に飲まれて存在を失う場所だが、神器「聖樹の精髄」と融合状態にあるサラなら、プラーナで自分を守ることができる。そして彼女はゆっくりと聖杯にプラーナを溜めていく。
焦る必要は無い。主観的な時間は流れているが、他人から観測されないその時間は刹那であり永遠。つまり自分にしか意味のないもの。もうすぐ願いが叶う、いや今まさに叶いつつあるとの実感が、より彼女を没頭させた。身体への負担は小さい。少なくとも今はまだ。
- § -
「…………以上が再編の途中報告となります」
「ご苦労」
報告を終えた副官に、エルネストは作業中のディスプレイから視線を移さずにそう答えた。現在、大打撃を受けたアーヴル軍は再編の真っ最中で、司令長官たるエルネストにも仕事が山のようにある。正直に言って現状は悲惨で、忙しさでそれを無理矢理忘れているようなところがあった。
「司令長官……」
「なんだ?」
躊躇いがちに話しかける副官に、エルネストはやはり仕事の手を止めることなく答える。そんな彼に副官は絞り出すようにしてこう尋ねた。
「我々は、どこで間違えたのでしょうか……?」
その問い掛けに、せわしなく動いていたエルネストの手が止まる。エルネストはゆっくりと視線を上げて副官の顔を見た。彼はまるで途方に暮れた子供のような顔をしている。若いな、とエルネストは思った。
「……そうだな。では仮に、アーヴルがズィーラーに降伏していたらどうなっていた?」
「我々はズィーラーの奴隷にされていたでしょう。まあ、ル・アーヴルは失われなかったかも知れませんが……」
「そうだな。では現状と比べてどちらがマシだ?」
「それは……」
若い副官は即答できなかった。もちろんこれは単純に比較できるような問題ではないだろう。ただ「悩む程度に差は無い」とも言える。エルネストは強いて回答を求めることはせず、小さく頷いてからさらに別の話を持ち出して質問を続けた。
「あるいは脱出作戦のおり、神子様の撤退を待ち、神子様を回収していたとしたらどうだ?」
「……その場合はズィーラー軍の追撃を受け、護衛艦隊は少なからぬ損害を被っていたでしょう。グラン・アーヴルも無傷とはいかなかったはずです。最終的に追撃は振り切れたと思いますし、また神子様の存在によって地球側との交渉に別の展開があり得たかも知れませんが、あの時点でそれを想定することは不可能でした」
「そうだな。では現状と比べてどちらがマシだ?」
「…………」
若い副官はやはり即答できない。そんな副官にエルネストはさらにこう問い掛ける。
「もしくは献杯作戦を行わなかったとしたらどうだ?」
「……我が軍が大損害を被ることはなかったでしょう。ですが戦争の主導権はズィーラーが握り続けることになります。またズィーラーが何かを企んでいたことは明白で、献杯作戦がなければそれは十分な準備の後に決行されていたでしょう。その場合、地球や我々にどれほどの被害が出ていたのかは分かりません。その前に神子様が動かれる可能性もありますが、その場合でも我々の事情を考慮してはいただけないでしょう」
「そうだな。では現状と比べてどちらがマシだ?」
三度目の同じ質問。若い副官は苦しそうに黙り込んだ。エルネストは小さく息を吐くと、イスの背もたれに身体を預けてこう言った。
「貴官はさきほど、『我々はどこで間違えたのか?』と言ったな。我々はその時々で常に最善と思える選択をしてきた。少なくともそう努力してきたことに疑いの余地はない。だが確かに今この状態は、いやここへ至るまでの間に状況が好転したことはなかった。
状況は悪い方へ転がっているように思える。間違えたと思いたくなるのも当然だな。だが我々は最善の結果を求めて決断を続けてきた。それでもなお我々が間違えてきたのだとしたら、それは選択を間違えたのではなく、そもそも選択のための基準が間違っていたのだろう」
「基準、とは……」
「さて、な。私はアーヴル軍の司令長官だ。その立場を超えた決断はできない。いや、それは言い訳か」
そう言って自虐的な笑みを浮かべ、エルネストはやや疲れたように眼を閉じた。そしてこれまでのことを思い返す。彼は「基準」という言葉を使ったが、では一体どこにその基準を置けば良かったのか。いま過去を振り返ってみてもまだ分からない。
ならばどこが一番大きな転換点だったのか。それは間違いなく故郷ル・アーヴルからの脱出だろう。多数の同胞を切り捨てなければならず、その犠牲は生き残った者たちの心に迫る。あらゆる価値観を一変させるほどに。だが見方を変えればそれは考え方を、心をかたくなにしたとも言える。
(これまでの犠牲を、切り捨てなければならなかったモノを、無価値にしたくはなかった……)
それは全てのアーヴル人が抱える想いだろう。だとすればそれが軸に、すなわち基準になっていたのではないか。感情的になって過去にこだわり、それが現在と未来をないがしろにすることに繋がった、ということはないか。
「あの、司令長官……」
「ん、ああ、すまない」
副官に呼ばれ、エルネストは目を開けてイスの背もたれから身体を起こした。過去は変えられず、仕事は山積みだ。さし当たっては目の前の仕事を片付けるという選択をして、エルネストは副官にも仕事に戻るように命じた。副官は敬礼してから部屋を出て行ったが、その数分後に彼はまた戻ってきた。それも信じがたい報告を持って。
「司令長官! 地球の魔法士が大帝エーデルベルトを討ち取りました!」
「なんだと!?」
思いもよらぬ報告に、エルネストは思わず立ち上がった。地球のラ・ロシェルからの報告によれば、大帝エーデルベルトは巨大な竜の混沌獣となり、それは討伐されたという。聖樹の神子も姿を現わし、未確認ではあるがどうやら自分で聖杯を確保したようだ。いずれにしてもこの戦争が大きな区切りを迎えたことは間違いない。
そしてさらに驚くべき報告は続く。副官に続いて部屋に入ってきたのは一人の科学者。彼は興奮と困惑をまぜこぜにしたような表情でこう報告した。
「先ほどから、プラーナを蓄積してある聖樹の果実が何かと感応しています」
「何か? 何かとはなんだ?」
「分かりません。ですが聖樹の果実は当然聖樹と関係のあるものですし、蓄積してあるプラーナは聖樹、ひいては女神アレークティティス由来のものです。それが感応反応を示していると言うことは……」
「聖樹、ひいては女神と何かしらの関係がある可能性が高い、というわけか」
エルネストがそう言うと、科学者は唾を飲み込みながら一つ頷いた。その目には言葉にできない期待と予感の色が浮かんでいる。エルネストにもそれは良く理解できたが、彼は努めて冷静さを保ってこう言った。
「何と感応しているのか、急いで確認を」
「了解しました」
科学者が走って部屋を出て行く。神子が聖杯を手に入れたことと、今回の感応反応は無関係ではないだろう。だとすればそれは何を意味しているのか。
「司令長官、これは……」
「今はまだ何も言うな。ともかく、何が起こっても対応できるようにしておかなければ……」
エルネストの言葉に副官も頷く。状況はもしかしたら好転しつつあるのかも知れない。その予感を抱きながら、二人は艦隊再編の作業を続けた。
エルネスト「私も白髪が増えた。……年齢以外の理由で」




