献杯作戦2
アーヴル軍の大攻勢はズィーラーにとって青天の霹靂だった。
ズィーラーの本拠地とはつまり、ズィーラーという異世界そのものであると言って良い。アーヴルが仕掛けた崩界作戦のためにかなり小さくなってはしまったが、独立したバイオスフィアとしての機能を有しており、混沌の海にたゆたうズィーラー人の揺り籠。それはまさに一つの世界だ。
ズィーラーはアーヴルという異世界を混沌の海の中から見つけ出したが、それはズィーラーにとっても国を挙げた一大プロジェクトだった。優秀な人材が集められ、専用の設備が用意され、その上で長い年月をかけてようやく達成された計画だったのだ。
そういう自らの経験があるからこそ、アーヴルが本拠地へ侵攻してくることをズィーラーは想定していなかった。本拠地が特定されるとしてもそれはずっと先の話で、その時までにズィーラーの最終作戦は終わっている。そのはずだったのだ。
しかしその目論見は脆くも崩れ去った。ある日突然、アーヴル軍が大攻勢を仕掛けて来たからである。恐らくは聖樹の神子が関わっているのだろう。神器とは人の想像を容易く超えるからこそ神器なのだ。
(両者の関係は決して良くはないと思っていたのだがな……)
エーデルベルトは胸中でだけ嘆息した。聖樹の神子が生きていたことはすでにマルガレーテから報告を受けている。ただ彼女はアーヴル軍に置き去りにされた経験があるはずで、両者の関係は決して良いものではないはずと推測されていた。だがその憶測はどうやら外れたようだ。
(まあ神子がズィーラーに好意的になる理由はない。敵の敵は味方、ということか)
エーデルベルトは声には出さず、苦い気持ちでそう呟いた。そして意識を現実への対処に向ける。戦況は極めて劣勢だった。
もとよりズィーラーにまともな戦力は残されていない。完全に不意を突かれたこともあって抵抗は散発的にしか行えず、それさえも全体から見ればあってないようなもの。ズィーラーの命運は風前の灯火と言って良い。
「申し訳ございません、大帝……。マルガレーテ将軍が指揮を取っておりますが、敵の勢い強く、押しとどめる事ができませぬ……」
「混沌獣と化して特攻する者もおりますが、敵も用意周到にして、今のところ目立った戦果は……」
「良い指揮官だな」
悪い報告ばかり聞いていた大帝エーデルベルトが、突然そう呟いた。彼が何を言っているのか咄嗟に理解できず、侍従たちは顔を見合わせる。そんな彼らにエーデルベルトはさらにこう言った。
「敵の指揮官のことだ。見ろ、市街地がほとんど攻撃を受けていない。恨みも憎しみも積み重なっているだろうに、だ。戦略目的を明確にして、それを末端の兵士にまで徹底している証だ。その掌握能力、まことに見事よ」
「……では、敵の戦略目的とは一体何でしょうか……?」
「知れたこと。聖杯であろうよ」
片肘を付ながら、やや皮肉げにエーデルベルトは答えた。ズィーラーの制圧や蹂躙が目的ではないのだとしたら、残る目的は何かの奪取ということになる。そしてあれだけの艦隊を動かしてまで今のズィーラーから奪うべき物といえば聖杯しかない。
「では……」
「遠からずここへ押し寄せて来ような。組織的な遅滞戦闘ができない以上、残念ながらこれ以上の時間稼ぎは無理だ」
「そんな……っ」
侍従達が悲痛に顔を歪める。そんな彼らを見ながら、エーデルベルトは努めて表情を消した。揺らいではならない。彼は自分にそう言い聞かせる。一度揺らげば、何もかもを投げ出したくなるからだ。
(聖杯だけは……)
聖杯だけは奪われるわけにいかない。聖杯がなければエーデルベルトが計画する最終作戦を決行することができなくなるからだ。例えいかなる犠牲を払おうとも、そこを揺らがせてはいけない。そのことは侍従達も分かっている。だからこそ彼は侍従達に言わせてはいけない言葉を口にした。
「出航する。カイザー・ユーデルベルトへの避難民の受け入れは打ち切るように」
カイザー・ユーデルベルトはズィーラーの命運を明日へ繋ぐために建造された、次元間航行船である。つまりズィーラーから地球へ、ズィーラーの民を運ぶための船だ。本来であれば地球を制圧したのち、ズィーラーと地球を往復して全ての民を移住させる計画だった。
だがそれより早く、こうしてアーヴル軍の大侵攻が起こってしまった。現在、カイザー・ユーデルベルトには続々と避難民が集まってきている。ここへ避難するように通達が出されたからで、また他に避難できるような場所がないからだ。だがもう避難民を受け入れる時間的余裕もなくなってしまった。
エーデルベルトの命令。それは残された民を見捨てるという宣言だった。カイザー・ユーデルベルトが出航した後、この世界は地獄になる。アーヴル軍による蹂躙とはまた異なる。そのための仕掛けがあるのだ。エーデルベルトの言葉は当然それを承知の上でのことだった。
もちろん、いくらカイザー・ユーデルベルトが大型船だと言っても、全てのズィーラー人を乗船させられるわけではない。むしろ乗せられるのはごく一部。だからアーヴル軍の突然の大侵攻が始まった時点で、大多数の臣民を見捨てなければならないことは確定していた。
しかしそれでも。実際にその決断を下すのは重くそして辛い。時間さえあればもう少し多くの命を救えるはずだったと思うと、心はさらに締め付けられる。だがその感情に引きずられて大局を見失っては、これまでの全てが無駄になし、ズィーラーの命運も断たれることになる。そして侍従達もそれは分かっている。
「御意……」
悲壮な顔をして侍従達が頷く。それに小さく頷いてから、エーデルベルトはマルガレーテに通信を繋いだ。
「マルガレーテ。カイザー・ユーデルベルトを出航させる」
「はっ。ではその後に最後の仕掛けを使います」
「マルガレーテ。今日まで朕に仕えてくれたこと、感謝する」
「勿体ないお言葉です、大帝。どうかズィーラーの未来をお願いします」
「うむ」
大きく頷いてから、エーデルベルトは通信を終えた。そのタイミングで艦長から「出航の準備が整った」との連絡が入る。エーデルベルトは一つ頷いてから出航を命じた。
「赦してくれとは言わぬ。朕も必ずそこへ逝く。だから待っているが良い」
そう呟き、彼は目を閉じた。
マルガレーテ「最後にあの人の墓参りをしておけば良かったわ」




