サラのこと
地球に、日本に戻ってきたアンジェは途方に暮れた。しかしすぐにそんな場合ではないことに気付いた。激痛が彼女を襲ったのである。神器「聖樹の精髄」と融合し、さらにその力を使い続けてきた事への反動だった。
――――これは、マズい……!
何がどうマズいのかは説明できないが、とにかくマズいことだけは直感的に分かった。ともかくもう一度力を使い、痛みを抑え込む。そしてアレークティティスから今の状態についての説明を受ける。聖樹の精髄と融合してから、アレークティティスとのコミュニケーションは格段に取りやすくなっていた。
まず教えてもらえたのは、痛みは力を使い続けたその反動であること、そして今のところは耐える以外に手がないこと。こうして力を使っていればひとまず痛みは抑えられるが、それは問題の先送りでしかない。そもそも、力を使うのもそろそろ限界なのだ。
ともかくアンジェはその場から移動した。幸い日本でも、探せば人の寄りつかない廃墟は存在する。ともかく無人で雨風をしのげる場所を確保すると、彼女はうずくまって激痛に耐えた。
「ぐぅぅ、うう……!」
痛みには慣れている。戦争中、何度も傷ついたからだ。だから身体が痛いのは耐えられる。耐えられないのは心の痛み。それを誤魔化すためにも、彼女は痛みをいたがり、激痛に正面から耐えた。
どれだけの間、全身の激痛が続いたのか、はっきりとは覚えていない。ただその間ずっと、アレークティティスが寄り添って励ましてくれたことはうっすら覚えている。そしてその中で彼女は言ったのだ、「アンジェと呼ばないで」と。
アンジェ。その名前を付けてくれた女性神官は優しかった。ただその名前には名前以上の意味が付属してしまった。祭り上げられた、聖樹の神子。裏切られ、切り捨てられた、愚かな神子。かつて咲菜の名前がそうなったように、アンジェの名前も彼女にとってトラウマになってしまったのだ。
そんな彼女を哀れに思ったのか、アレークティティスは彼女に新しい名前を贈った。新しい名前は「サラ」。新しい名前をサラは何度も何度も頭の中で繰り返す。そしてその名前を抱くようにして、サラは意識を失った。
どれだけ眠っていたのかは分からない。日の光に照らされ、打ちっぱなしのコンクリートの上から身を起こした彼女は、もうアンジェではなくサラだった。生まれ変わったわけではない。ただもう以前の彼女ではないことだけは確かだった。
さてサラは地球での活動を開始した。親元に帰るつもりはない。母親はもう他人だと思っている。ただそうなると、今の日本で彼女の身分を証明するものは何もない。現在の彼女はただの不審者である。生活していく上でそれがどれだけ不便なのか、今の彼女には分かっていた。
「どうしよう……」
サラは悩んだ。今の彼女は極めて特殊な立ち位置であり、そういう事情を表に出すのは憚られる。一切を秘密にした上で生活拠点などを確保するにはどうしたら良いのか。その方法は一つしかないように思えた。
「ちょっとだけ! ちょっとだけだから!」
有り体に言うならば。聖樹の精髄の力を悪用して、サラは生活基盤を整えた。ただ力を悪用したのは最初の本当にどうしようもないところだけで、そのあとはネットを駆使して資金を稼いでいる。力を使えば株や暗号資産で一儲けするのは簡単だった。
そうやってお金を稼ぎ、現在のマンションを購入して当面の生活基盤を整えたサラは、次にやるべき事に取りかかった。地球に帰ってきてからマンションに入居するまでの間、彼女はずっと自分が何をするべきなのか、いや何をしたいのかを考え続けていた。そして出した答えは、崩壊した異世界ル・アーヴルの再建だった。
なぜサラはル・アーヴルを再建しようと思ったのか。その理由は幾つかある。かつて女神アレークティティスが君臨していた世界はなくなってしまった。それを取り戻してあげたいというのがまず一つ。
また融合した神器「聖樹の精髄」は、その力を使わずとも徐々にサラの身体を蝕んでいる。力が強すぎるのだ。かといって今のままでは分離することもできない。彼女が生き延びるためには、「大いなる揺り籠」としてのル・アーヴルが必要だったのだ。
『あなたは生きて』
聖地の神官たちは、サラにそう願ってくれた。彼らに助けてもらった命を蔑ろにすることは、サラにはできない。生きるためにル・アーヴルの再建が必要だというのなら、彼女はそれをするしかなかったのだ。
ル・アーヴルの再建とは言っても、サラはそこにアーヴル人を呼び寄せるつもりは毛頭無かった。いま生きているアーヴル人は全て彼女を置き去りにした者たちで、そんな連中を助けてやる理由は一つも無い。
だから本当の事を言えば、「ル・アーヴル」という名前もあまり使いたくない。「新しい世界には新しい名前を」という気持ちはある。ただそこは女神アレークティティスが君臨する世界だし、かつてのル・アーヴルにも優しい人たちはいた。新生ル・アーヴルをその人たちのいわば墓標にする。そのつもりでサラは自分を納得させたのだった。
「他の人なんていらない。ティスがいれば良い。それがわたしの安息の地」
サラは安心できる場所が欲しかった。地球、日本でさえ、彼女にとってはもう安心できる場所ではない。誰にも脅かされることのない新世界。それを求めて、彼女はル・アーヴルの再建に取りかかった。
その仕事は、しかし遅々として進まなかった。アレークティティスにとって世界の再建は難しいことではない。難しくないからこそ彼女は神なのだ。だがそれをアレークティティスの主観で行おうとすると、彼女にとっては一瞬でも、サラにとっては一億年以上かかるかも知れない。
つまりサラの願いを叶えるには、サラの主観でアーヴルの再建を行う必要があるのだ。そしてそれは、聖樹の精髄と融合した今の彼女になら可能。少なくとも理論上は。そして理論と現実の間には、いつだって深くて広い谷が広がっているものなのだ。
問題となったのは、やはりサラの人間としての肉体。世界を創り出すには、当然ながら相応の力が必要になる。その力は神器を介してアレークティティスから供給される。だから力が足りないと言うことは全くない。
だが聖樹の精髄は現在サラの身体と融合してしまっている。つまり彼女の身体を介してアレークティティスの力を行使するのだ。世界を創り出すほどの力を。人間の身体が耐えられるはずもなかった。
「困った。どうしよう」
試行錯誤を繰り返してもブレイクスルーが起こる気配はない。そして何度目かの激痛明け。サラが缶のおしるこでちびちびやっていた時、それは起こった。すなわちエーデルベルト大帝の宣戦布告である。
「これだ!」
サラは閃いた。力を直接行使しようとするからダメなのだ。少しずつ、問題ない量の力を引き出してどこかに溜めておき、十分に溜まってから世界の創造を行えば良い。問題はどこにそれだけの力を溜めておくかだが、ちょうど良いモノがあるではないか。
つまりズィーラーの創造神パド・メレの神器「聖杯」である。エーデルベルトが生きていたということは、聖杯も彼の手元にある可能性が高い。これを奪取すれば良いのだ。ようやく何とかできそうな方法を見つけ、サラは久しぶりにウキウキとした気分になった。
ズィーラーは戦争で散々やり合った相手。つまり敵だ。サラがズィーラーに良い感情を持っているはずがなく、聖杯を奪われたことで彼らがどんな苦境に陥るのか、そんなことは彼女にとってどうでも良いことだった。
サラ「ダース買いしたおしるこがもうない……」




