アンジェのこと
魔法士の中で日本人が突出して多い理由。ユーグはそれを聖樹の神子が原因だと言った。その二つがどう関係するのか、陽菜はそれをこれまでに聞いた話を勘案して考える。そしてこんな仮説を立てた。
「それはアンジェさんが、日本人だから……?」
「ちょっと違う。……最初に渋谷に現われた混沌獣。アレを討伐したのは、アンジェなんだ。その時に使ったのが聖樹の精髄の力で、その力の余波を受けた子たちが魔法士の資質を開花させたと考えられているよ」
魔法士となるために契約する聖樹の果実は、言ってみれば聖樹の精髄の劣化量産品。親和性が高いのは当然と言える。つまりアレがロンドンで起きていればイギリス人の魔法士が多くなっていただろうし、ニューヨークで起きていればアメリカ人の魔法士が多くなっていた、ということだ。
とはいえあの時アンジェが渋谷に、もしくはその近くにいたのは、彼女が日本人であることが関係しているはず。そこまで含めて考えれば、やはり彼女の母国が日本だったというのは、大きなファクターだったといえるだろう。
「じゃ、じゃあ、ユーグたちはアンジェさんが日本にいることに気付いていて、それなのに何もしなかったの……?」
「何もしていなかったワケじゃないけど、まあ何もできなかったと言う方が正しいかなぁ」
ぼやき気味にユーグはそう答えた。渋谷とその周辺をぶらつき、向こうからの接触を待つと言うことはしていた。とはいえ確かに、積極的な探索を行った事はない。ただそれにはもちろん理由がある。
第一にアンジェの存在をズィーラーに悟らせないため。第二にアンジェが本気で隠れたら、ユーグらが彼女を見つけ出すのはほぼ不可能であるため。主な理由はこの二つだが、アーヴル人はそれぞれに三番目の理由を抱えている。つまり罪悪感と恐れだ。
彼らは自分たちの都合で聖樹の神子を切り捨てた。その彼女を探し出して再び利用しようというのか。その身勝手さには反吐が出る。それに探し出したとして拒絶される可能性は高い。事と次第によっては敵対関係に陥ることさえあり得る。
そういうやらない理由を探し出し、けれどもやらないわけにはいかなくて、相手に見つけて貰うためのお散歩という消極的なことしかしてこなかった。表向きはもちろん違うが、個々人の心情としてはそれが一番近いかも知れない。
そんなわけで探し出すこともできないまま三年が過ぎ、しかし突然アンジェは姿を現わした。しかも味方ではないものの、敵にまわりそうでもない。そのことにユーグはもちろん、全てのアーヴル人が驚いている。
「アンジェさんは、どうして助けてくれたんだろう……?」
膝を抱えながら、陽菜はそう呟いた。もちろん「ヴィンセントも助けることはできなかったのか?」とか、思うところはある。だがそれでも、アンジェの介入がなければきっと自分たちは全滅していただろう。
それが分かるだけに、彼女を責める気にはなれない。またこうしてアーヴルとの因縁を知ると、むしろなぜあのタイミングだったのか、全滅するまで待つことだってできたのに、とさえ思う。
「アンジェは、あの子は、良い子なんだ。ボクはもうこんなことを言える立場じゃないけど、その、どうか悪く思わないであげて欲しい」
「うん、大丈夫。分かってる、つもり」
最後にちょっと自信なさげに付け足し、陽菜はにへらとはにかんだ。アンジェともう一度関わることがあるのか、それは分からない。でも仲良くできたら良いな、と彼女は思った。
- § -
「ぐぅぅ、うう……!」
渋谷にあるマンションの一室、ほとんど家具のないその部屋。床に直接敷いたマットレスの上で、サラは胸を押えながら苦しげに呻く。昼間は力を使いすぎた。いや、使った力の分など、実のところたいしたことはない。問題は力を使うために箍を緩めたこと。そのせいで、無意識のうちにあふれ出した力が彼女の身体を蝕んでいる。
――――大丈夫?
アレークティティスがそう呼びかける、気配がする。脂汗を額に浮かべながら、それでもサラは気丈に頷く。大丈夫。苦しいだけで死ぬことはない。少なくともまだ。彼女はそのことを分かっていた。
あの時、つまり六年前。アーヴルから脱出する艦隊に置き去りにされたサラは、満身創痍になりながらも敵艦隊を突破して聖地へ逃げ込んだ。そこにはこの世界と共に散ることを選んだ神官たちが残っていて、彼らはボロボロになったサラの姿を見てとても驚いた。
事情を聞いた神官たちは、サラ(アンジェ)を生き延びさせるためにある儀式を行う。秘中の秘とされる、神器「聖樹の精髄」との直接契約である。簡単に言えば、これは魔法士たちが聖樹の果実と結ぶ契約のようなもので、この儀式によってサラは聖樹の精髄と融合。単身でも混沌の海を生き延び、地球へ帰還することができた。
「これから、どうしよう……」
地球へ、日本へ戻ってきたサラは、しかし途方に暮れた。家に帰ることはできない。いや、帰りたくない。家に帰るくらいなら、死んだ方がマシだ。そもそも家に帰るなら、アーヴル戦争が始まるまえに帰っている。
サラの、日本人としての名前は北石咲菜という。父親の顔は知らない。母子家庭で育ち、母親のことは嫌いだった。
咲菜の母は弱くて見苦しい女だった。男に縋ることしかできない女で、子供を放り出して彼氏に媚びていた。咲菜は「いつか優しいお父さんが迎えに来てくれる」と夢を見ていたが、今にして思えばこんな女と付き合う男だ、きっと父親もクズだったのだろう。
咲菜と母親の生活は、ある日突然に終わった。ある日、母親が新しい男を連れてきた。その男はニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべていて、咲菜はゾワリと振るえる身体を抱きしめた。
『咲菜、この人に抱かれて?』
それが母親が娘に言った言葉だった。きっと彼女はもう狂っていたのだろう。もともと強い人ではない。重ねていく年、衰えていく容貌。それに合せてつかまえられる男のランクは急降下していく。そして思うような男をつかまえられなくなった彼女が差し出したのは、自分の娘だった。
咲菜は母親が何を言ったのか分からなかった。分からなくても、男は気持ちの悪い笑みを浮かべたまま近づいて来て、手を伸ばして咲菜を掴まえる。押し倒され、泣き叫びながら彼女は助けを求めた。
『お母さん、助けてっ!』
だが母親は助けてくれなかった。絶望が咲菜を襲う。咲菜の口を塞ごうとした男の手に、彼女は力一杯噛付いた。男の力が緩む。その隙に咲菜は逃げ出した。彼女は泣きながら行くあてもなく走る。
立ち止まればまたあの男に捕まってしまいそうな気がした。走って走ってたぶん転び、気がついたらおとぎ話の中に出てきそうな大きな樹の根元にいた。これが、彼女がル・アーヴルへ行ってしまった経緯である。
当初は驚かれたものの、アーヴルの聖地での生活は咲菜にとって初めての心安まる生活だった。すでにズィーラーの干渉は始まっていたが、実際の戦闘はまだ始まっていない。聖樹の精髄を使って干渉を防ぎつつ、咲菜は聖地で大切に守られて過ごした。
聖地で咲菜は自分の名前を名乗ることができなかった。名乗ろうとすると、あの時のことがフラッシュバックするのだ。困った女性神官の一人が彼女を「アンジェ」と呼び始め、やがてそれが定着した。
アンジェという新しい名前を、彼女自身も気に入った。まるで生まれ変わったように感じ、色々なものがまっさらと新しくなったように思えた。聖地での生活は穏やかで、彼女はそれを失いたくなくて戦争にも加わった。
だがその戦争の最終局面でアンジェは味方に裏切られた。聖地で優しかった神官達と一緒に死のうとした彼女に、しかし神官達は「生きて」と願う。その想いと、ずっと支えてくれたアレークティティスの存在だけを胸に、彼女は崩壊する世界と混沌の海を生き延びた。
作者「聖樹の神子は名前が三つもあって、どの場面でどの名前を使うのか、ちょっと面倒でした」




