アルベラン 七
大族アルドス、そしてガーカ。
そして数多の中小部族を瞬く間に支配下に置き、エンレイネのバザリーシェの名が広まり始めて二年と少し。
そうした騒動が一段落し、記憶から薄れ始めていた頃、周辺世界に伝えられたのは一つの言葉であった。
――木々に隠れし日陰の子らよ、アルベランの下へと集え。
多くの者はその言葉を挑発と受け取った。
特に森の木々を神聖なものと信仰する者達にとってみれば、その信仰を踏みにじる発言に等しい。
いくつかの部族は団結し、アルベランを騙る、驕った小娘を晒し者にしてやろうと得物を手にして、その領域に。
「……なんだ、これは」
大族ロデットの長、長い白髭を編んだ巨躯の老戦士、エイデナールは唖然と、普段は眠っているかのようなその目を大きく見開いた。
馬に乗り、四千に及ぶ戦士を引き連れ、森を抜けて踏み入れたアルベランの領域。
そこに築かれていたのは巨大な壁であった。
簡素な丸太を並べて壁を築くことはそれほど珍しくはない。
しかし彼の目の前にある壁には白い岩が規則正しく、二十尺も積み上げられており、その上の高みには弓を持った狩人――弓兵が静かにこちらを見下ろしている。
百年に及ぶ時間を生き、多くの知識と経験を得た。
もはやこの先は有望な若者に長の座を委ね、それを支えて己の学んだ教えを授け、土に還るのを待つばかり。
そう考えていたエイデナールの耳に飛び込んだ、不敬なる小娘の言葉。
怒りを覚えたのは彼だけではなく、この戦いこそ己の生まれた意義であろうと数多の部族に呼びかけ束ねた。
その役目は己の他にあるまい、と。
彼は偉大なる長であり、そして長きを生きた者。
戦士達は老境に到った戦士には特に強い敬意を払う。
たった一つの命で数多の戦いを潜り抜けた証であり、敵から逃げ出したなどと不名誉な汚点がなければ尚のこと。
勇壮な戦士でありながら、豊富な知識と経験を蓄えた賢者エイデナール。
普段反目し合う部族達であっても、彼の呼びかけであればと肩を並べるを良しとし、共通の敵となるバザリーシェを打ち倒すべくそれに従う。
大族アルドス、そしてガーカ。
武勇で知られる彼らがバザリーシェに従っている以上、厳しい戦いになると誰もが覚悟していたが、これほど大きな戦いは生涯に一度あるかないか。
仮に死んだとて、戦士としてはこれ以上に良い死に場所もない。
そう笑い戦意を高める勇壮な戦士達の姿に当てられ、未熟な若者も含めて士気旺盛。
だが、目の前に現れた巨大な石壁を見れば、誰もが言葉を失った。
丸太を加工し、集落を守るための簡素な壁を築く。
それでさえ相当な重労働であった。
ゆとりのある一部の部族が行うことがあるという程度。
多少の壁があろうと容易に乗り越えられる戦士もいる以上、どちらかと言えば実用性と言うよりも権威を示す意味合いが強い。
そして丸太で壁を築く労力を知ればこそ、石材で壁を築いているという事実が信じられなかった。
石を切り出し、加工する労力は木材の比ではない。
ましてこの近辺に、そのような良質な石切場があると聞いたこともなかった。
そこに使われている莫大な石材の量を見れば無から有を作り出したかのようにさえ思えてくる。
積み上げられる石材の加工も、まるで誂えたかのように均質。
百人の職人が数十年費やしたとて、果たしてこれほどのものが築けるだろうか。
豊富な知識と経験、それを活かす知啓を持つエイデナールほどの賢者であればこそ、その光景には体の芯から生じる震えを抑えきれなかった。
彼らの正面には大きな門。
巨人でも迎え入れるのかというほどに巨大で、鉄で補強された重厚なもの。
手に持つ斧の如きで容易く壊せるとは思えなかった。
全周をぐるりと壁に囲われていることは見れば分かる。
しかし四千の兵士の内、この壁を越えられるような戦士は百名にも満たない。
ほとんどの戦士は、二十尺に及ぶこの石壁を前には無力であった。
当然、はしごを掛けることを思いつきはするが、それを運び、登る間中、矢が降り注ぐことは目に見えていた。
一部の壁からはそれを見越してか、木組みのステージが前にせり出し、はしごを真横から狙えるような位置にある。
当然こちらも狩人を連れて来ていた。
だが、同数であろうと、下から矢を放つこちらと、上から打ち下ろすあちら――どちらが優位かなど一目瞭然。
体を隠す胸壁を見れば、射撃戦を含めて想定されていることは見れば分かる。
彼は優れた賢人であった。
唖然としながらも、この壁を攻略するには何が必要かと、その頭の中からは無数の案が湧いてくる。
だが、考えるほどに理解出来るのは、『それを想定した上で築かれている』という事実であった。
大門は少し奥まった位置――石のアーチの下にあり、上や左右には隙間。
門を破壊しようとすれば、そこから矢が、あるいは別の何かが飛んでくる。
壁の手前にある溝を考えれば、はしごは相当な長さが必要。
強固なものとなれば簡単に作ることも難しい。
しかし大量のはしごを用意するには時間が必要だが、それだけの糧食をこちらは持っていない。
仮にどうにかしようと、多くの戦士達の戦意は保たない。
矢を受けながらはしごを登って壁を制圧しろなどと、そんな自殺行為を命じられると知りながら、喜んではしご作りを手伝う人間などいない。
糧食どころか、明日の朝になれば半数が消えている可能性もあった。
さりとて、一度引き返せば、この集団は瓦解するだろう。
バザリーシェへの恭順を示す部族は必ず出て来る。
今を失えば、アルドスとガーカ相手に対抗するために必要な戦力は完全に失われてしまう。
そう考えても、どうすることも出来はしない。
次々に後続が森から現れ、目の前に見える巨大な壁に言葉を失った。
動揺はざわめきに。
只人の出来ることではない、という言葉が耳にも届く。
同時に、本物のアルベランなのではないかと、そういう声。
勝ち目がないと知り、死を恐れての言葉もあるだろう。
だが、目の前にある光景がどれほどのものかを理解出来ればこそ、エイデナールは安易に否定する言葉を発することが出来なかった。
バザリーシェは正真正銘のアルベランなのではないか。
心の内で踊っている言葉は、彼らと同じであったからだ。
「っ……」
空高く響いたのは幾重にも重なる角笛の音。
天に剣の切っ先を突き立てる、傲慢不遜な紅き旗が無数に翻り、門の上――エイデナール達の正面に姿を現わすのは少女であった。
逆光にはっきりとした姿は見えず、太陽に煌めく美しき銀の髪。
絹の衣を纏い、白き優美なドレスを身につけ、ただ、何も言わずに睥睨する。
何を求めているかを理解し、エイデナールは前へと進む。
馬を降りなかったのは、長としての最後の矜持であった。
それに続くように数名、エイデナールに続く。
各部族を引き連れる長達であった。
異様な緊張感に、誰もが声を発することなく前へと進む。
どうあれ、部族を纏める立場。
目の前にあるものが、一体どれほどの光景であるかというのは理解が出来ているのだろう。
神の子としての力で、ここに壁を築いた。
そう口にされても納得してしまうような光景であった。
この一帯がバザリーシェの傘下に加わったのは、高々二年前の話。
その期間にこれだけの壁を築いたと言われるくらいであれば、遙か太古――神々の時代から存在する遺跡であったと言われた方が、まだ納得のしようがある。
門へと続く石橋の前まで来れば、その見事な造りに目を奪われた。
滑らかに整えられ、継ぎ目さえもが分からない。
橋の形をした岩が突如、天から降ってきたとでも言うのか。
門の上に目を向けると、優美な金の髪の銀甲冑――恐らくは輝ける者、アルドス大族長、ベルナイクから剣を差し出され、すらりと引き抜く。
「……ロデット大族長、エイデナール」
鈴が響き渡るような、それでいて甘い声音。
剣の軌跡は滑らかに、エイデナールの顔に向けて切っ先を。
剣の先が僅かに揺れて、大地を示した。
冷ややかな紫の瞳が、銀に縁取られた影絵の中、無機質な光を奏でてエイデナールの瞳で輝く。
もはやその少女を、アルベランを騙る不遜な愚か者などとは思えなかった。
「っ、エイデナール殿……」
エイデナールは馬から下りると兜を脱ぎ、片膝を突いて頭を垂れた。
「……ご無礼をお許しください、アルベラン。このエイデナール、ロデットが大族長として、あなた様への恭順を剣と名、そして祖先と神々に誓います」
背後にある戦士達からは動揺の声が響いていた。
しかし、エイデナールの取った態度に対し、罵声を浴びせる人間はない。
誰もがこの状況に気圧されていた。
他の族長も顔を見合わせ、吠えるは一人。
「っ……見下げ果てたぞエイデナール! よもや小娘に臆したか!」
エイデナールと同じく、真白い髭を長く伸ばした大男。
「ボーラル……」
「魂までもが老いたようだ。壁の一つで怯え、膝を突くとは……何と情けない」
エイデナールとは何度も剣を向け合った、大族セルバスが大族長。
エイデナール最大の敵であり、そして同時に最大の友でもあった。
正気を疑うようにエイデナールは彼を睨み、すぐに察した。
この状況に勝ちの目がないことも、これほどの壁を築いたこの少女が並の人間であるなどとは思っていない。
その真価を確かめ、そしてそれを背後の戦士達へと伝えるために、吠える役を買って出ただけであった。
族長達が小娘に怯えて戦うことなく頭を垂れた。
そう感じる戦士が出ないように。
ボーラルは腰の長剣を引き抜き、その切っ先を少女へ向ける。
「セルバスが大族長、ボーラルをこの腰抜け共と一緒にしてくれるなよ小娘。お前が本当にアルベランだと言うのであれば、ここに降り立ち証明してみせよ!」
ボーラルは笑い、その隣――黄金の髪の男へ告げる。
「まぁしかし、思い上がった愚か者とはいえ、女子供に剣を向けるは本意ではない。……俺としてはお前でも構わんがな、ベルナイクよ」
ベルナイクは目を細め、バザリーシェへと何かを語る。
バザリーシェは微笑み何かを答え、そのままスカートの裾を掴み、軽やかに橋の上へと舞い降りた。
それ以外の表現がないような、音も無い着地であった。
それに続くベルナイク、そしてもう一人の大男の見事な着地でさえ、それに比べればあまりに重い。
その着地の鮮やかさに目を奪われながらも、ボーラルは馬を降りて、長剣を肩に担いだ。
「セルバス大族長、ボーラル。……アルベランとして、その決闘を受けましょう」
バザリーシェは微笑を浮かべ、長剣をぶら下げたまま前に。
近くで見れば何とも美しい少女であった。
滑らかな銀糸のような、長い髪。
すっと通った鼻筋と、柔らかく笑みを作る桜色の唇。
大きな紫の瞳は宝石のように、髪と同じく銀糸で縁取られて輝く。
小柄ではあるが、すらりとした手足と小さな頭がそれを感じさせず、柔らかな女としての流線も含め、神が象りし彫刻の如く。
そこにあるだけで目を奪い、神々の世を体現する。
アルベラン――バザリーシェはただ、そこにあるだけで伝承に謡われる幻想へ、周囲の全てを引きずり込む。
「いつでも、どこからでもどうぞ」
そうしてボーラルの間合い、その一歩内側で立ち止まる。
不思議とボーラルも、そして見ていた誰もが、それを愚弄とは思わなかった。
「ッ……!」
ボーラルは老いを感じさせぬその肉体を沈め、勢いよく推進させる。
三頭の魔獣を手ずから狩り、百年近くを武に捧げた彼は、周辺世界有数の戦士であった。
その踏み込みは並の人間では捉えることも出来ず、胴が両断されて尚、理解も出来ずに地に伏せるだろう。
荒々しくも美しい、最速の剣。
その一閃は胴割りボーラルの異名を体現せしめる見事な一閃であった。
しかし少女はすり抜けるように脇を潜る。
何ら怯えた様子も見せず、滑らかな動きはもはや歩くよう。
首を跳ねようとした返しの剣閃は彼女の頭上を裂いた。
彼女がその剣閃を峰で滑らせ、逸らす様が見えたのは一握り。
多くの者には剣が怯え、彼女を斬ることを自ら避けているように見えた。
神に剣の刃は届かない。
それは、ごく自然なことに思われた。
遠目にも分かるボーラルの剛剣。
奏でられる風切り音とも呼べぬ、大気の悲鳴。
その凄まじい動きが理解出来るだけに、目にする者達には少女の姿が人のものには思えない。
舞うようにゆらゆらと揺れる彼女の体は、目にも見えない神の力に守られているのだと、そう確信していく。
一歩、ふわりと浮かぶように距離を取ると、少女は後ろ手に、首を傾げて微笑む。
「証明になったかしら、ボーラル。……あなたの剣は、わたしの下で振るうに相応しい剣ですわ」
肩で息をし、荒く息づくボーラルは、そんな少女に笑う。
「……まさしく、正真正銘のアルベラン。このボーラル……老いて生き長らえたのは今日この日のためと知りました」
目を細め、口元を柔らかく。
「ありがたきお言葉。なればこそ、ここで戦士としての誉れを。未だ若き我が剣達が、神の子の下へと集いましょう」
周囲にのみ聞こえる、そうした声。
耳にしたエイデナールは一瞬目を閉じ、彼の名を呼ぶ。
「そう。……残念ですわね」
笑って踏み込んだボーラルをすり抜け、背後へ。
「っ……」
逆手に持った剣の切っ先で、易々と。
鎧の上から心臓を突き刺し、引き抜く。
ボーラルは笑みを浮かべ、膝を突き、倒れ込み。
そして転がるように空を見上げた。
その側に膝を突いたバザリーシェは、彼が取り落とした剣をその手に持たせ、微笑んだ。
「雄々しき戦士として、旅立ちを」
「……ありがたく」
嬉しそうにボーラルは微笑み、目を閉じて、それを見た後バザリーシェは静かに立ち上がる。
一瞥すれば、エイデナールは再び膝を突いて頭を垂れ、他の族長達も同じく。
遠目にそれを見ていた戦士達もまた、偉大なる戦士へ施しを与える少女の姿に、膝を突いては頭を垂れた。
それを視界の端で捉えると、膝を突くエイデナール達の間を通り過ぎる。
「気高き勇者としての埋葬を。……挨拶はそれからで構いませんわ」
「……は」
そうして大男と長身の男、ミツクロニアとベルナイクの前へ。
「ミツクロニア、問題なければ後で外の戦士にもてなしを」
「は。お見事でした、バザリーシェ様」
ミツクロニアの言葉に微笑み、そして門を潜りながら、憮然とした様子のベルナイクを見て囁くように言った。
「どうかしら? あなたがお望み通りのアルベランらしいアルベランだったでしょう。お見事でしたバザリーシェ様、とたまにはあなたも褒めてくれてよろしいですわよ」
「部屋まで保てば考えなくもなかったが……そういうところが阿呆だと言ってる」
「……ミツクロニア、決闘相手を取られたからってベルナイクが拗ねてますわ。どうにかしてくださいまし」
「それは俺のセリフだ。さっさと剣を返せ」
ミツクロニアは二人の会話に、困りましたな、と苦笑する。
そして周囲にあった、緊張した様子の兵士達へと吠えるように伝えた。
「新たな戦士達がアルベランの下へと馳せ参じた! 今宵はそれを祝して宴を開く! 刃を掲げよ、我等を掲げる持ち手は誰かを天に聞かせよ! その声は必ずや神に届き、神子へ更なる祝福を与えるであろうッ!!」
その言葉にようやく安堵を見せた男達は、割れんばかりの喊声を響かせた。





