大海の蛙
「おねえさま、今日はおねえさまの大好きなカボチャのパイにしてみましたのよ」
部屋に入ってきた少女は明るい声音だった。
赤に煌めく金の髪――美しい白のワンピースドレスを身に纏った少女は皿を手にしたままベッドに近づく。
入ってきたクレシェンタにアーネは会釈をして、静かに外へ。
クレシェンタは反応がないことを承知した上でベッドに腰掛け、カボチャパイの載った皿をベッドサイドのテーブルに置き、そして横になる姉の頬を撫でた。
眠っている訳ではなかった。
ただ、起きているとも言えない。
その眼差しはぼんやりと、クレシェンタを一瞥しただけ。
どこか虚空を眺め、単なる人形に成り果てたかのようにクリシェは動かずにいる。
そんな姉の体を抱き起こすと、幾分ほっそりとした感触。
右手でフォークを器用に使い。カボチャのパイを一口分取り、その口元に寄せる。
「おねえさま、食べてくださいまし。自信作ですの」
唇に押しつけるとゆっくりと口を開き、カボチャパイを咬み、すぐに飲み込む。
数日は食事どころか水すらも口にしなかった。
流石に体を悪くしたクリシェに不安を覚え、懸命に頼み込み、ようやく口にしてくれるようになったものの、自主的に彼女が動くことはない。
彼女は泣きもしなかったし、悲しみも怒りもしなかった。
ただ、帰ってきてからはずっと、こうしている。
「……クレシェンタ、お腹、空いてません」
「そんなことありえません。今日もちゃんと、全部食べて頂きますわ」
早く元気になって頂かなくてはなりませんもの、とクレシェンタは言い、クリシェは無感動にそれを聞いた。
クレシェンタは構わず次のパイを。
食事は単なる作業だった。
義務のように食べ終えると、クリシェはそのまま横になる。
クレシェンタは何かを口にしようとして、やめ、目を伏せて。
それから片付けをしてきますわ、と明るい声音で声を掛け、部屋を出て行く。
そして部屋の扉に背中を預け、静かにため息をつき。
目を閉じて尋ねた。
「……何ですの?」
黒髪を横に流すように結び。
アーネは心配そうにクレシェンタを見つめ、目を伏せる。
「……いえ」
苛立たしげにアーネを睨み、それから逸らした。
「今日はセレネ様が帰ってくるはずですもの。……それで少しは良い方向に変わるのではないかしら。あなたはおねえさまが変なことをなさらないか、わたくしがいない間は側から離れずお世話を」
はい、とアーネは頷き、それからまた口を動かし、やめ。
何ですの、と再びクレシェンタが尋ねれば、アーネは頭を下げた。
「……申し訳ありません。わたしはあろうことか女王陛下に対し、良からぬ想像をしています」
それから言って、顔を上げる。
アーネは真っ直ぐにクレシェンタを見つめた。
「けれどその想像の真実がどうであれ、わたしは女王陛下を仕えるべき主として敬愛しております。……ただ、それをお伝えしたいと」
クレシェンタはアーネを見返し、呆れたように言った。
「あいにく、わたくしは言葉というものを信じておりませんの」
「けれど、言葉なくては伝わらないものもあると思います。ですから、こうして一度お伝えしておきたく。……ご無礼をお許しください」
じっとそんな使用人を見つめ、目を逸らし。
「……出来の悪い使用人ばかりですわ。好きになされば」
クレシェンタは言って、去っていく。
その姿が廊下の角から消えるまで、アーネは頭を下げ続けた。
まさに青天の霹靂。
クリシェは文字通り、森を飛び回り、雷槍を振り下ろした。
多くの兵士にとって、あるいは本当の天災か何かに思えただろう。
いや、それ以上――クリシェの放つ雷槍は数十人どころか、千を超える兵士を呆気なく葬り去るのだ。
ジャレィア=ガシェアやバゥムジェ=イラですら、彼女に取っては随分と押さえたものでしかなかったのだと、改めてセレネは理解した。
その気になれば世界の法則さえねじ曲げ、時間さえも止めるクリシェの絶大な力。
あの竜を相手に戦えた理由もよく分かる。
『――魔法の原理自体は慣れれば結構簡単なものなので、クリシェ様にはなるべく秘密にして、控えて頂くようにと昔お願いしたことが。どのようにでもなり得るお力ですし』
ベリーを助けるため、時間を止めたクリシェについて話せば、困ったように彼女は言った。
いつだって彼女は、クリシェのことをなんでも知っている。
隠した理由も意図も分かって、けれど胸の内に何かがほんの少しあって、それを喜びで押し流して。
いつもそうだった。
セレネには反する二つの気持ちがいつもあった。
綺麗な感情と、どこか薄暗い、粘ついた感情。
些細なもので、小さなもの。
ベリーのことになるとなりふり構わず、ベリーのためなら何でもする。
セレネが知るクリシェはそうで、でもそれを受け入れた上でセレネは彼女を愛しているし、ベリーのことも愛している。
だからそれで良かった。
『セレネ様もちょっとは思ってるのではなくて? アルガン様がいなければ、だなんて――』
八つ当たりめいたクレシェンタの言葉。
それが心からの言葉であるはずがなく、それでも一瞬ムキになったのは、その言葉に刺激される粘ついた感情が一切無いとは言いきれなかったから。
『わたしは……わたしが、あの子の側にいる意味が欲しいの。だからせめて、わたしのやるべき最低限のことはこなさなきゃ、わたしはわたしが許せないもの』
証明したかったのだ。
自分が文字通り、二人のためになら命だって賭けられること。
自分に出来ることならば、何だってするつもりなこと。
自分の感情にどのようなものが混じっていようと、そのくらい真摯に、二人のことを愛していると自分に証明したかったのだ。
クリシェやクレシェンタ、ベリーのような何かは出来ずとも、その助けになるために。
彼女達に比べれば、どうしようもなくちっぽけで、微々たる力しか持たないセレネでも、自分の出来る限り、全身全霊の力を尽くせば、ほんの少しの力にはなれるのだ、と。
セレネはただ、彼女達にそう信じて欲しかったのだ。
――結果は。
『クリシェ様の言った通り、もはや掃討戦。手間もありません。……セレネ様も俺達に任せてお戻りになっても良いでしょう。レーミン将軍もしばらくすれば来る』
『わたしは――』
『酷いお顔だ。……無礼を承知で軍人として言わせてもらうなら、今のセレネ様は危うい。今は無理をなさるな』
コルキスは痛ましいものを見るように、心配するようにそう言った。
『これだけは言っておきたいですが、俺も他のものも、セレネ様の戦術に問題を覚えていなかった。能力不足と言いたい訳じゃない。クリシェ様がいらっしゃらずとも、此度のことは十分に切り抜けられたでしょう。ご自分を決して責めぬように。あなたは何一つ間違ったことをしていない』
『……、それは、恩人の娘に対する優しい慰めかしら』
『受け取り方は自由です。……ですが決して、口先だけの慰めだけで言っている訳ではないと信じてもらいたいとは思います』
子供のように癇癪を起こしてみたかった。
けれどセレネは、彼の言葉の意味を多少なりとも信じていたし、気遣いのありがたさも理解もしていた。
失望されたくはなかったから、言うとおりに従って。
戦場に出て、何かをやった訳ではない。
最低限の仕事もこなせぬまま、屋敷へと帰らされた。
『……元帥? 戦場は――』
『クリシェが敵の大将を討ち取って終わらせたわ。後は残党の掃討戦、カーナリウス将軍が指揮を。状況を伝えるわ。レーミン将軍はそのままその手伝いを』
行軍途中にすれ違い、不審な顔のテックレアに状況と軽い指示だけを告げ、そのまま馬を走らせて。
自分が情けなくて、死んでしまいたかった。
そうして屋敷へ帰れば――
――起きているのか、眠っているのか。
それさえ自分でも定かではなかった。
夜――目覚めて、疲れたように眠っている隣のクレシェンタを眺め、身を起こす。
心配を掛けている、ということは分かっていて、けれどどうしようもなかった。
何かを考えようとしても、何も考えられず、頭がぼんやりとして自分が自分で分からない。
何かを口にしても、砂を噛んでいるような味。
ちゃんと甘いだとか、辛いだとか、そういう味は分かるのに、何を食べても美味しいとは感じなかった。
喉が渇いて、空腹を感じているはずなのに、何かを口にしたいという気持ちも湧かず。
『――例えばご当主様やお嬢様、クリシェ様が不慮の事故にてそのお命をなくされるようなことがあれば、とても悲しく思います。辛くて、大好きな料理も手につかなくなってしまうでしょう。多くの人間は、身内を失えばそうなります』
そんな言葉を思い出して、左右を見渡す。
ベリーはどこにもいなかった。
だから、こんな風なのかも――考えようとして、すぐに消える。
死んだと聞いた。死んだのだろうか、と首を傾げる。
死ぬところをクリシェは見ていない。
もしかしたら、死んでいないのかも知れない。
もしかしたら、どこかにいるのかも。
部屋にいないとしたらどこだろうか。
ベッドを抜け出すと、静かに歩いてドアを開き。
屋敷を二階から順に、一つ一つ見て回る。
アーネやエルヴェナが眠っているのは見えて、けれどベリーはいない。
物置を見て、もしかしたらと浴場を見て。
けれどやっぱりベリーはいない。
一番可能性が高い場所は最後に。
けれど、そこに踏み入れるのには不思議と躊躇があった。
他の部屋を全て見て回り、いるとするならそこしかない。
思えばこのしばらく、キッチンに入っていないから、やっぱりここにいるのかも。
寝付けないからミルクを温めているのかも知れない。
「…………」
意を決して、扉を開けて。
整然としたキッチンが目に映る。
棚には各地から取りそろえた、ベリー自慢の香辛料。
塩一つでも種類は様々で、多数の調理器具がぶら下がり、無数の調理設備。
年々、その数は増えていく。
初めて彼女のキッチンを見たときは、すごい、すごいとひたすらに驚いた。
料理に掛ける情熱がクリシェとは比べものにならなかった。
料理を作るためだけに用意された部屋。
料理の中でも些細な作業のために用意された、一つ一つの高品質な道具。
出来れば食事をするなら、せめて美味しい料理を作りたい、程度に考えていたクリシェとは次元が違う。
ここは美味を追求するためのアトリエであり、ベリーはクリシェが初めて見た、料理における芸術家であった。
栄養が摂取できればそれで十分。
食事という、本来は些細な行為のために莫大な手間を掛け、無駄とも思える労力を注ぎ込んで、ただ美味しい、という一つの価値を追求する。
誰かを喜ばせるために、全身全霊を注ぎ込む。
その在り方はクリシェにとって、驚きの一言であった。
自分の優秀さを見せつけるためではなく、見返りを求めるでもなく、ただ与える。
与えられた分は返すべき、という程度に考えていたクリシェとは、根本的に考え方が違っていた。
初めて出会った他人で、居候のクリシェに、ベリーは惜しみなく自分の培ってきた全てを与えた。
それは知識であり、経験であり、多大な労力の末に手にしたもの。
技術や些細な道具の一つに到るまで、何一つ躊躇もせずに笑いながら。
彼女と過ごせば過ごすほど、それは料理に限ったことではなく、全てにおいてそうなのだと理解した。
『求められてからでは駄目なのです。ご当主様やお嬢さま、お客様達が、ここにあれがあれば、こういうのが欲しいのに、と思ったときにそれが既に用意されている。それを予想して、頭を捻って考えて、そういう環境を事前にこっそり作っておくのが良い使用人というものでしょうか』
求める前に相手の求める全てを与え、感謝されるかどうかも無関係に。
使用人をただの家事をする人、程度に考えていたクリシェには彼女の考え方にはいくつも驚かされた。
誰かの幸せのために全身全霊を尽くすのがベリー=アルガンと言う使用人であり、いつも自分よりも他人を優先するその生き方は、どこまでも魅力的で。
クリシェは、そんな彼女の使用人になってみたかった。
彼女の料理を手伝って、彼女の仕事を手伝って。
彼女がそうして幸せを作るお手伝いをしたかったのだ。
誰かの幸せだけで幸せになれる彼女は、クリシェに取って何より、社会的で理想的な生き方であったから。
「ベリー……?」
この屋敷に来て、二人で色々と考えながら調理器具や設備の配置を考えて、キッチンは二人で使うために最適化されていた。
けれど、今はどこか寒々しい。
月明かりが僅かに差し込む暗く青白いキッチンには、クリシェ以外の誰もいない。
呆然と周囲を眺めて、ぐるぐると歩き回り、力が抜けて座り込む。
ベリーはどこにもいなかった。
引き出しに手を伸ばして、中の包丁を一つ取った。
ベリーが一番気に入っていた、愛用の小ぶりな包丁だった。
刃物は刃物――けれど不思議と輝いて見えた。
刃こぼれもなく、けれど研ぎ減りするほど使い込まれ、単純な見た目で言えば決して素晴らしい品物とは言えない。
ここにある包丁の中でもそれほど高いものではなかったという。
『ねえさまが昔、わたしのためにって買って下さったんです』
けれど嬉しそうなその顔が思い出されて、だから、どこまでも綺麗に見えた。
それと同時に、その顔が二度と見ることも出来ない事に気がついて。
これから長い時間を、そうして過ごすしかないことに気がつく。
全てがふと、色褪せたように感じられた。
抱き締められることも、頭を撫でられることも、キスされることもない。
――それどころか、自分は。
何度も気付いて、理解していて――けれど思考から消えること。
ただ、今は刃物が手の中にあって、衝動的なものだった。
無意識にふとその切っ先を首筋に押し当てて――
「クリシェっ!」
声に止まり、押し倒された。
腕を掴まれ包丁を奪われる。
「……せれね?」
「……馬鹿な事、考えないで」
そのまま痛いくらいにクリシェは抱きしめられて、呆然と。
セレネはそんな彼女を抱きながら震えていた。
今帰ってきたばかり――何があったのか、聞かずとも分かった。
帰ってきたらあちこちの扉が開けっ放しで、普通ではないことに気付き、セレネはすぐさまここに。
そして包丁を自分の首筋に突きつけるクリシェが見えた。
「お願いだから……」
涙が零れて、顔が歪む。
情けなくてどうしようもなかった。
クリシェにもクレシェンタにも信頼されず、任せてもらうことすら出来ず、結果はどうあれ、ベリーはいない。
自分の責任であったのか、そうでなかったのかは分からない。
ただ、セレネには自分のせいとしか思えなかった。
もし向かったのがセレネではなく父であれば、あるいはノーザンであればクリシェはそのまま全てを任せたのかも知れない。
けれどセレネであったから、クリシェはベリーを置いて戦場に出たのだ。
自分は役にも立てないどころか、クリシェの荷物でしかなかった。
「……ごめん、なさい」
クリシェは呆けたように、それを聞き、告げる。
「……? セレネは何も、悪く。悪いのは、クリシェで……」
セレネに抱きしめられながら、
「……クリシェ、もう少しだから、って、我慢してもらってたんです」
抑揚のない声で言った。
「でも、クリシェ、結局間に合わなくて……なら、ベリーに我慢してもらった意味って、何なのでしょう?」
ゆっくりと、途切れ途切れに。
「クリシェ、ベリーを苦しめて、痛い思いをさせただけで、その挙げ句、ベリーは……クリシェ、は、ベリーを幸せにしてあげたいって、ずっと……」
あれ、とクリシェは首を傾げた。
考えが纏まりません、と。
「……セレネ、ベリーはどこに行ったのでしょう? 帰ってきてからずっと、どこにもいないんです。まだキャンディ、ベリーに返してないのに」
セレネはただただ抱く腕に力を込めた。
そうでもしないと彼女がそのまま消えてしまいそうだった。
鼻を啜って、告げる。
「……多分、ちょっとお出かけしてるだけ。今日は遅いから、もう休んで」
小さな子供に言い聞かせるような、そんな方便だった。
落ち着かせて、休ませて、気持ちの整理をさせて。
何もできない自分に、後やれることがあるとすれば、それだけだった。
「……お出かけ?」
「そう。……いいから、休んで」
「でも、ベリーはお出かけできるような体じゃ――」
「クリシェ。……大丈夫、平気だから。わたしの言うことじゃ、信じてもらえないかも知れないけれど」
信じてもらえなかったから、こうなったのだ。
セレネはそれを知っている。
自分が本当に、彼女を安心させることが出来るのかなんて自信がなかった。
『……クリシェ様の事、お願いしますね』
――仮に、自分とベリーが逆の立場だったなら、どうだっただろうか。
きっと彼女なら簡単に、クリシェのことを安心させて慰めることが出来ただろう。
ベリーは何でも出来るのだ。
何をしたって、セレネよりずっと上手に。
何もできないセレネ=クリシュタンドとは、大違いだった。
クリシェは、ああ、と頷く。
「クリシェ、分かりました。そういう意味ですね」
「……クリシェ?」
「人には魂があるのです。クリシェ、ちゃんと知ってます」
途端、声は晴れやかに。
セレネは疑念にクリシェを見た。
「肉体が死ぬと魂はふよふよと、天国だとか、あちこちに行くんだってみんな言ってますし、その感覚は知ってます。えへへ、ベリーもきっとそうですね。体がなくなって、魂だけがふよふよーってどこかに飛んで行っちゃったんです」
「っ、クリシェ!」
クリシェはセレネの腕から抜け出すと、月明かりを背後に受けて微笑んだ。
紫の瞳が、狂ったように輝いていた。
「危ない所でした。クリシェ、ベリーを迎えに行かないと」
「待って! クリシェっ!!」
クリシェはそのままセレネの声も聞こえないかのように、勝手口から表に出た。
セレネは手を伸ばしたまま、床にへたり込んだまま固まって、膝を抱き、見捨てられた子供のように嗚咽を漏らす。
「おねえさま!?」
セレネの大きな声に気付いたか、真っ先に降りてきたのはクレシェンタであった。
クレシェンタは床に座ったセレネを見て、眉を顰め、開かれたままの勝手口に目を向ける。
「セレネ様、おねえさまはどこに?」
「……わよ」
セレネの返答は小さく、聞こえず。
苛立たしげに尋ねた。
「……? 聞こえませんわ。泣いてないではっきり喋って――」
「――ぅるさいっ! わたしだって知らないわよ!!」
そして叫ぶように言って、
「あなた達……は、わたしに、っ……」
固まったクレシェンタに、弱々しく。
「一体、何を、どうしろって言うのよ……」
嗚咽混じりの声で、そう零した。





