150 リゼ、ディオールにもう限界だと言う
限界だった。
「わたし、ディオール様とはもう仲良くできません……!」
涙が浮かんでくる。ペンを持つ手に力が入り、インクの染みをじわじわと広げていく。
この人、どうしてこんなに意地悪なんだろう?
ずっと無理やり作業をさせられていたわたしは、もうディオール様のことが信じられなくなっていた。
「こ、こんな、こんなの、もう、耐えられません……!」
学園の教室で、わたしはディディエールさんと机を並べて座っている。
すぐそばに教科書を持ったディオール様が立っていて、泣き言を言うわたしを冷たく見下ろしていた。
「私から逃げても、試験からは逃げられんぞ」
「ううっ……!」
あと少しで学園の試験が始まる。
わたしにとっては最初の関門だ。
「わ、わたしは好きな授業だけ受ければいいって聞いてたんですけど……?」
「テストがないとは言ってないな」
補習を買って出てくれたディオール様が、一年の試験範囲のページをパラパラとめくっていき、わたしに現実をつきつける。
一、二、三、四、五ページ………数えるのも怖くなる量だ。
うそ……
全然進んでない……!?
わたしの体感では、もう一生分の勉強をしたのに……!?
「たいした問題は出ない。まだ今からでも間に合う」
ディオール様がわたしの手元にちらりと目をやったので、わたしは恥ずかしくなった。
問題が解けなくて、ほとんど空欄だ。
「ディディは十分だな。よくできている」
満点はなまるの答案と一緒に、大好きなお兄様からお褒めの言葉をもらったディディエールさんは、うれしそう……かと思いきや、わたしをチラチラ気にしていた。
「おねーさまは、お仕事でお忙しかったのですわぁ」
「うううぅっ……!」
こんなちっちゃい子にまで気を遣わせて、わたしはそっちの方が泣けてきた。
ディオール様がわたしの肩に手を置く。
「分かったろう? 仕事にかまけて君がいくら手を抜こうと、自由ではあるが。君のように不真面目な態度の者がいると、優秀な生徒のパフォーマンスにも影響する。ディディが勉強の手を抜くようになったら、君にも多少の責任があるだろうな」
「お、おにいさま……わたくしを使っておねーさまをいじめないでくださいまし」
泣きそうになりながら、お兄様にささやかな反論をするディディエールさん。
本当にやさしい。天使かな?
「何を言う。能力から考えたらぬるすぎるぐらいだ」
ディオール様がわたしの顔を覗き込むようにして、ぐっと身を乗り出す。わたしの様子を優しくうかがうようなそぶりだったけど、さりげなく逃げられなくするような強い圧力を感じた。
「君には絶対に解けるはずなんだ。高機能の魔道具がこうして仕上がっているのに、分かっていないわけがない」
わたしとディディエールさんが並んで座る大きな机には、ふたつ魔道具が置いてある。
試験の内容と関連があるからと、ディオール様が選んで置いてくれた。
指輪型の防具、そしてたき火を起こす箱。
順繰りに眺めて、わたしは一番手前の白紙の答案を前に、がくりとうなだれる。
「でもご覧の有様なんですよねぇ……!」
「なぜだ……?」
珍しく、ディオール様は真剣に悩んでいるようだった。
わたしが空欄にしておいた練習問題を指で叩く。
「ごく初歩の数学だぞ。公式にさえ当てはめれば、いわばちょっとした等式の整理だが、そんなに難しいか?」
「かしこい人たちには一生分からないですね……わたしのこの、苦しみが……!」
「苦しむ要素があったか……?」
「×とか÷が入ってると絶望します」
「かけ算で絶望に至れるのは別の才がありそうだが……」
ディオール様、別に嫌味で言ってるわけじゃないんだよね。
わたしの実力を信じてくれているのだと思うとありがたい。
「君はもっと複雑な【魔術式】でも描きこなしていただろう? なぜ等式ごときが分からない?」
仕方がないので、わたしもディオール様を信じて打ち明けることにした。
「何でも解けますよ? カンニングしてもよければですが」
「当たり前だ馬鹿」
速攻で裏切られてしまった……
せっかく信じようとしてたのにひどい。
「ディオール様すぐ馬鹿って言う!」
「今のを褒めて伸ばす余地があるか馬鹿。書写の練習でもしてろ馬鹿」
そこでわたしは誤解に気がついた。
ディオール様は答案を丸写しするんだって思ったんだなぁ。
「こういうのは【生活魔法】にいろいろと便利なのがあるんです。数字を入れると自動的に数式の魔術式が働いて、答えを出してくれるやつです。いわば魔法のソロバンですね」
「それは知ってるが」
「わたしはこのソロバンを使うのが得意なんです! 日頃から魔道具づくりに使っているので、満点取れると思いますよぉ」
ディオール様はなぜかちっとも感心してくれなくて、すごく渋い顔をしていた。
たぶんだけど、そんなもの誰でも使えるって思ってるんだろうなぁ。
「わたしが使うソロバンは、そこらのものと性能が違うんですよ! 複雑な式でも、入れたらだいたい勝手に解いてくれます!」
ディオール様はすごく失望した顔になった。
「なるほどな……成果物と出来に差がありすぎるとは思っていたが……」
「解ければ何でもいいと思いませんか?」
「君は魔道具師だからそう思うんだろうが……」
ディオール様は短気を起こしてもしょうがないと思ったのか、抑え気味の調子で淡々と説明してくれる。
「魔術師がそれでは困る。敵の攻撃が三秒後に迫っているのに、ちょっと計算するから待っていてくれと頼めるのか?」
「魔道具だったら間に合います」
「持っていなかったら?」
「その場で作ります。三秒では無理ですけど、数分時間を稼げればなんとかなります」
ディオール様が首をひねる。
「……だから、その数分をどうやって稼ぐんだ?」
わたしにもそれは分からない。
なので、一緒になって同じ方向に首をかしげておいた。
ふざけているのが伝わってしまったのか、ディオール様に「遊んでる場合か」と怒られてしまい、わたしはまた勉強に戻されたのだった。
――試験まであと少し。
赤点回避を目指してがんばらなきゃなぁ。




