初恋の女性
ダルファー侯爵家のひとり息子ハンスは、ある日当主である父に執務室へ呼び出された。
開口一番父は言った。
「ヴィレムス伯爵家のご令嬢に新しい縁談が決まったぞ」
ヴィレムス伯爵家の令嬢は、つい数ヶ月前までハンスの婚約者だった。
本当ならもう結婚式も挙げていた。
しかし、ハンスが彼女とのお茶会をすっぽかしたことが原因で婚約は解消されていた。
ダルファー侯爵家のほうが身分は高いものの、ヴィレムス伯爵家のほうが財力を持っている。だからこそ釣り合いの取れた良い縁談だった。
婚約を解消してからのダルファー侯爵家の経済状況は良いとは言い難い。
ハンスの眉間に皺が寄るのを見て、父は溜息を漏らして言葉を続けた。
「ズートメルク男爵家の令嬢が離縁されたという」
「……っ」
思わずハンスは息を呑んだ。
この王国の貴族子女が通う学園の卒業と同時に隣国の豪商のところへ嫁いだズートメルク男爵令嬢は、ハンスの初恋の女性だった。
ふたつ年下のヴィレムス伯爵令嬢が入学してくるまでの間、同級生の男爵令嬢を見つめて過ごした日々は今もハンスの胸の中で輝き続けている。
「借金の肩代わりの条件としての婚姻だったので、当然ズートメルク男爵家は豪商に返済を求められている。令嬢有責の離縁だったので、多額の慰謝料もだ」
そこで、ダルファー侯爵は真っ直ぐに息子を見つめた。
「……もう一度聞く。ヴィレムス伯爵家のご令嬢とのお茶会をすっぽかして、お前はなにをしていたんだ?」
「や、やましいことはしていません!……夫の仕事について帰国していたズートメルク男爵令嬢と、彼女達の泊まる旅館の喫茶室で思い出話に興じていただけです」
「ヴィレムス伯爵家のご令嬢との結婚式を一ヶ月後に控えた大切な時期に、半月近く毎日会って、最後には婚約者とのお茶会まですっぽかして会っていたのがやましくないと?」
ハンスはずっと黙秘していたのだが、父はすでに知っていたらしい。
婚約解消の際にヴィレムス伯爵家から調査結果を見せられていたのだろう。
それでもハンスを責めなかったのは父親の愛ゆえにだったのか。
「本当です。学園のころの話をしていただけです!」
叫ぶハンスを瞳に映して、ダルファー侯爵はもう一度溜息をついた。
「ヴィレムス伯爵家のご令嬢が学園に入学してしばらくしたころに、お前との婚約を解消したいという申し出があったな。学年が違うからずっと一緒にいられないのは仕方がない、だが一緒にいるときもお前はズートメルク男爵令嬢を目で追いかけているから辛い、と言われたんだ」
「……初恋だったのです。見つめていただけで、やましいことはありませんでした。結婚したらヴィレムス伯爵家令嬢に誠実な夫になるつもりでした」
「私はお前の言葉を信じ、貴女が美しく成長なさっていたから恥ずかしくて視線を逸らしているだけだと彼女に嘘をついて、婚約を継続してもらった。……今は後悔しているよ。人生に一度しかない彼女の輝かしい青春の季節を踏み躙ってしまった」
「ほ、本当にやましいことはなかったのですっ!」
ハンスの声が裏返る。
本当なのだ。
学園時代は見つめていただけだし、再会したときも話しかしていない。
ヴィレムス伯爵令嬢とのお茶会をすっぽかしてまで会いに行ったのは、あれが男爵令嬢と会える最後の日だったからだ。
元から隣国へ嫁いだ彼女と再会出来るとは思っていなかった。
これが本当に本当の最後の邂逅だと思ったから、これからの人生をともにする婚約者よりも優先させただけなのだ。
「お前は勘当だ。ダルファー侯爵家は遠縁から養子を取って継がせる。お前のせいでヴィレムス伯爵家からの支援を失った上に、隣国の豪商に離縁の賠償金でも求められてはたまらない」
「ですから! 本当にやましいことはないのですっ!」
「ではなぜヴィレムス伯爵家のご令嬢とのお茶会をすっぽかした理由を言わなかったのだ」
「ズートメルク男爵令嬢に迷惑をかけたくなかったのです」
ダルファー侯爵は肩をすくめた。
「話にならんな。知られたら男爵令嬢が責められるとわかっていたのではないか。……私が最初にヴィレムス伯爵家のご令嬢に新しい縁談が決まったと言ったとき、顔をしかめていたのはなぜだ?」
「えっ……」
「男とはそういうものだ。別れた相手でも自分のもののように考えて、勝手に嫉妬し怒りを覚えてしまう」
父は息子に、噛んで含めるように語る。
「自分が仕事をしている間に、妻や婚約者がほかの男とお茶をしていたらどう思う? 相手の祖国で一日だけなら、懐かしかったのだと考えて許せるかもしれない。でも毎日だ。自分が汗水たらして働いている間、毎日妻がほかの男と会っているのだ。やましいことはない、なにもなかったと言われて……お前は許せるのか?」
「……」
「ズートメルク男爵令嬢はこちらへ帰って来るという話だ。実家が迎え入れるかどうかはわからないがな。お前はダルファー侯爵家と関係のない自由な平民になる身だ。初恋を実らせたいのなら、好きにすれば良い」
ハンスは父に言葉を返せなかった。
そんなこと望んでいない。借金だらけのズートメルク男爵家の令嬢との結婚だなんて想像したこともない。
ハンスはヴィレムス伯爵令嬢を妻に娶ってダルファー侯爵家の当主の座を継ぎ、ときどき胸の中で煌めく初恋の想い出を楽しみながら人生を生きていくつもりだった。
旅館の前で男爵令嬢と再会したときだって、挨拶以上のことは考えていなかった。
友人と予定が合わなくて寂しいのだと言って、彼女のほうからお茶に誘ってきたのだ。
どちらにも深い意味などなかった。別れるときに、また明日、と言われたから、なんとなく続けていただけだ。ヴィレムス伯爵令嬢とのお茶会をすっぽかした日だけは、最後の日だと思っていたから特別だったが。
ズートメルク男爵令嬢の姿が頭に過ぎる。
ずっと輝き続けていた初恋の女性が、今はとてもくすんでいるように感じた。
やましいことはなにもない、だけどハンスはすべてを失った。そしておそらく初恋の女性も──
<終>




