たぶん、これが最後の涙
広い王宮の敷地内には小さな森のような空間があって、その奥には沼がありました。
不思議なことに塩水の沼です。
おそらく地下で海に繋がっているのです。この国には海へと下る長い川が流れています。地下ではきっと流れの高低が入れ替わっているのでしょう。
私は空を見上げていました。
真っ暗な黒い空です。夜なので仕方がありません。
せめて昼間なら、あの人の瞳と同じ青い空が見られたのに。
沼に海から来ているのは塩水だけではありません。
昼間は石の下に隠れていて、夜にだけ群れて水中を泳ぐ虫もいるのです。
彼らは死体に集まり食らいます。骨にするまで半日かかるか、かからないかくらいの速度で食らうのです。
私の黒い髪が水面を漂います。
今さらどうしようもないのに、とめどなく涙が頬を伝わり落ちます。
仕方がありません。自分では止められないのです。隣国からこの国へ嫁いで、愛人親子と一緒のあの人に迎えられてから、何度涙を流したことでしょう。
政略結婚でした。親同士が決めた国のための婚姻でした。
でも私はあの人を愛していました。
川を下って運ばれてくる、あの人からの手紙と贈り物は私の宝物でした。
私は泣き続けました。
無理に泣き止まなくてもかまわないでしょう。
たぶん、これがあの人のために流す最後の涙なのですから──
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王女の成人を祝うパーティの翌日に、王宮の敷地内にある沼で王女の母親である正妃の髪とドレスの切れ端が見つかった。
白骨も見つかったが、それが正妃のものであるかどうかは確定出来なかった。
あまりにも変化が早過ぎるのだ。この沼には海から来た死体を食う虫が群生しているという噂があったものの、それが証明されたことはまだなかった。
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「国王である伯父様と引退なさったお爺様には、お母様は病気で寝込まれているとお伝えしておきますわ。おふたりとも多忙でいらっしゃいますから、お見舞いに来られることはないでしょう。適当なときにお母様の葬儀をしておいてくださいませ、お父様」
「……随分冷たいことを言うのだな」
「泣いてもなにも変わりませんもの。お父様が教えてくださったんですのよ? 私とお母様がどんなに泣いても、お父様は側妃達のところからやって来てくださいませんでしたじゃありませんの」
そう言って、隣国から嫁いできた正妃の産んだただひとりの王女は微笑んだ。
先日成人した彼女は、これから隣国へ留学するのである。
留学して、学校の卒業と同時に隣国の大公家へ嫁ぐ。それはずっと前から決まっていたことだった。
「……葬儀をするといっても遺体がない」
「沼で白骨が見つかったじゃありませんか」
「あれが正妃のものとは限らない!」
急に声を荒げた父王に、王女は溜息をついた。
今さらなにを案じているのだろう。
すでに隣国の印象は最悪だ。なにしろ彼は、王女の成人を祝うパーティに生母の正妃ではなく側妃と出席していたのである。隣国から嫁いで来た正妃を出迎えた王の愛人は、王女が産まれるよりも前に側妃となっていた。
「隣国……お母様と私の故郷は海に面しています。だから知っているのです。海で死体を喰らう虫が夜にだけ泳ぎ出すことは。以前昼間に実験したときは投げ入れた死体に変化がなかったと聞きましたが、今度は夜にお試しになられてはいかがでしょう。きっと朝が来る前に死体を白骨に変えてくれますわ」
「お前は……っ! 母親が亡くなったかもしれないのに悲しくないのか!」
「悲しくはありませんね、嬉しいくらいですわ。お母様がやっと貴方から解放されて。ずっと心配でしたのよ。私がいなくなった後のお母様が。国同士の政略結婚で離縁なんて難しいですもの。……婚姻前に婚約を解消なされば良かったのに」
父王は答えずに王女から視線を逸らした。
当時のこの国には、どうしても隣国の助けを必要とする理由があったのだ。
「せめて白い結婚にしてくださっていたら、多少名誉に傷はついてもお母様は隣国へ戻れていましたのに」
「……生まれて来たくなかったとでも言う気か」
「そうですわね。どうせなら隣国の大公家の娘として生まれて来たかったですわ。私の婚約者は大公家の遠縁から取られた養子ですので、大公家の令嬢として生まれて来ていても彼と結ばれることが出来ましたし」
隣国の大公に妻はいない。
隣国の国王の親友で宰相でもある彼は、ずっと親友の妹に恋をしていた。
もちろん秘めた恋である。姫君には親同士が決めた婚約者がいたのだ。
大公が恋心を露わにしたのは、愛人持ちの婚約者に嫁いだ姫君が神殿の認める白い結婚による離縁の期限を迎えた後だ。
外交のために姫君の嫁いだ国へ来た彼は、まだ離縁の手続きの途中でその国の正妃のままであった彼女に踊りを申し込んだ。
不貞ではない。招待主の妻が客人と踊ることは普通のことだ。
だが踊るふたりを見ただれもが、大公の彼女への恋心を感じ取った。
側妃に夢中で正妃を愛していない、白い結婚による離縁を受け入れていたはずの夫さえも──
離縁の手続きが終わる前に、姫君と夫は白い結婚ではなくなり婚姻は維持されることとなった。この国には王女が産まれ、隣国の大公は独身のまま遠縁から養子を取った。
「側妃をお選びになったのは貴方ですのに、ご自分のいないところでお母様が幸せになるのが許せなかっただなんて狭量ですこと」
「急にっ! 事故で父が亡くなってっ! 私は孤独だったんだっ! お前の母親は隣国にいて私を慰めてはくれなかったっ!」
「そのまま慰めてくれた側妃と幸せになれば良かったじゃありませんの。……お母様と私のいないところで」
この国は側妃の産んだ王女の異母兄が継ぐ。彼はすでに王太子となっていた。
側妃の父親はこの国の侯爵で、野心の強い男だと言われている。
野心の強い男は自分の娘を若く未熟な国王に宛がった上で、隣国の助力目当てで最初からの婚約者も娶らせた。
「それでは失礼いたしますわ、お父様。私には留学の支度がありますので」
隣国の大公は外交の仕事を引退して内政に専念していた。
王女の未来の夫も内政専門になる予定だ。
この国を去った王女が戻ってくる日はないだろう。
旅立つ王女のために隣国から派遣されてきたのか、見覚えのない侍従とともに王女が去った後で、父王は自分が泣いていることに気づいた。
ここは王の執務室だ。側妃一派に邪魔されずに、王女とふたりで会話出来るのはここしかなかった。
気心の知れた直属の部下達は会話の間は隣室に控えてくれていた。
国を統べる王は涙を見せてはいけない。涙を拭って、王は執務室の机の引き出しから色褪せた手紙を取り出した。
結婚前、王が即位した直後に婚約者だったころの正妃から届いた手紙だ。
涙を見せてはいけない王の代わりに、自分が涙を流すと書いてある。
泣いてはいけないとわかっているのに、王は涙を止められなかった。
何度拭っても、涙が溢れてくる。
正妃はもう彼のために泣いてくれない。
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「……まさか最後まで気づかれないとは思いませんでした」
「気づかれたら面倒だから、ちょうど良かったじゃありませんの」
内陸にある国から川を下って海に面した故郷へ向かう船の上で、私は娘と話をしていました。
ある国に嫁いで正妃と呼ばれていた私は切った髪を沼に投げ入れ、白骨を身代わりにしてその国を出たのです。国境を越えるまでは男装して、娘の侍従を演じていました。
卑怯な手段ですけれど、正攻法ではあの人と別れることは出来なかったのです。
白骨は娘の婚約者に海から流れ着いたものを送ってもらいました。
ちゃんと調べた上で、どうしても身元不明な白骨を送ってもらったのです。
一国の正妃として葬られる予定なので、受け入れてもらいたいものです。
「貴女の侍従として目の前に行くこともあったのですし、もしかしたら気づいていて見逃してくださったのかも……」
「あり得ませんわね。そんな機転の利く人間なら、とっくの昔に側妃達を王宮から追い出してますわよ」
娘は、側妃の産んだ子ども達はあの人の子どもではないと言うのです。
確かに彼らの瞳は同じ青でもあの人のものとはまるで違いますが、どんなに憎くてもそこまで悪く見るのは失礼でしょう。
空だって季節や天候で違う青になりますもの。
まだ空の青を見つめる気にはなれなくて、私は川面に視線を落としました。
川の水も青と言えば青ですけれど、空よりも薄い色で透き通っています。
隣に立つ娘が、水色と呼ぶのよ、と教えてくれました。
「お母様、大公の瞳の色を見つめているの?」
「貴女の婚約者の瞳の色ですよ」
「大公は今もお母様をお好きだと思うのだけれど」
「ふふふ、どうでしょうねえ」
船が川を下っていきます。
隣で川面を覗き込む娘の瞳は、あの人と同じ青色です。
ほんの少し泣きたくなりました。でも私は涙を堪えることが出来ました。たぶん最後の涙は流し終えていたからでしょう。
さようなら、愛していた人──
<終>




