彼女のいない夜に【願い石】
風も波も人間の願いは叶えてくれない。
エンリーケが南海の島での商談を終えて、家のある王都の港へ辿り着いたのは真夜中だった。
揺れる船室での眠りに飽き飽きしていたエンリーケは、乗船券を確認する船員に不審そうに見られながら下船した。
(船員は船での暮らしのほうが快適なんだろうが、な……)
妙に時間のかかった下船手続きを終えて港に降り立ち、溜息をつく。
潮の香り自体は嫌いではない。
南海の島での生活も楽しかった。商談は半分で、残りは旅行だったのだ。
乗合馬車も走っていない時間だったので、エンリーケは歩いて家へと向かった。
マルティン伯爵家の次男だったエンリーケが婿入りしたドロレス商会はこの十年の間に躍進を遂げていて、伯爵家の後ろ盾もあって王都の一等地に店と家を構えている。
港からも近かった。
(夜だからか? 南国特有の鮮やかな色彩に慣れたからだろうか)
久しぶりの王都は、エンリーケの目には色褪せて見えた。
王都が魅力的に見えないのは、ここに愛人の男爵令嬢がいないからかもしれない。
今回の旅は商談を兼ねた浮気旅行だったのだ。怪しまれないように、出発も帰宅も男爵令嬢とは違う船にした。
エンリーケが男爵令嬢と出会ったのは、この王国の貴族子女が通う学園でだった。
妻でありドロレス商会の会頭であるグロリアとは当時から婚約していたが、平民な上に多忙な彼女は学園には入学しなかった。
グロリアは亡き父から受け継いだ商会を大きくすることに夢中な仕事莫迦で、次男とはいえ貴族子息として育ったエンリーケから見ると、女性としての魅力に乏しかった。だからエンリーケは、実家が貧しく仕事で身を立てることもないだろうけれど、女性としての魅力に溢れた男爵令嬢に溺れたのである。
(僕が悪いんじゃない。魅力に乏しいグロリアが悪いんだ)
自分を正当化しながら自宅を兼ねたドロレス商会の王都支店へ辿り着いて、エンリーケは息を呑んだ。
なにもないのである。
家も店舗も倉庫も、馬車も厩舎もなにもない。更地だけがそこにあった。
「どういう、ことだ……?」
エンリーケの商談兼浮気旅行は半月ほどだった。
もし火災が起こったのだとしても、ここまで綺麗な更地になるには早過ぎる。
そもそもエンリーケになんの連絡もないはずがない。
(男爵令嬢のことを知ったグロリアが僕を捨てるためにドロレス商会を消した? いや、従業員や取引先に不義理をするような人間じゃない)
「あのお……」
呼びかけられて振り向くと、そこには王都を守る衛兵がふたりいた。
夜回りの途中なのだろう。
更地の前で呆然としている怪しい男が見過ごせるはずがない。いや、王都の衛兵ならドロレス商会の婿である自分を知っているはず、などと思いながらエンリーケは彼らに尋ねる。
「こんばんは。すみませんが教えてもらえませんか。ここにあったドロレス商会はどうなりました? 南海の島から戻ってきたところなので、王都のことがわからないのです」
すぐに答えが返ってくると思ったのに、衛兵ふたりは揃って首を傾げる。
「ドロレス商会……?」
「聞いたことがないですねえ」
新人なのだろうか。しかし、ひとりは明らかに中年で使い込まれた制服を着ている。
「それではマルティン伯爵家はどうですか? 僕はその家の縁者なのです」
「初めて聞く家名ですが、どこの国の方ですか?」
「マルティン伯爵家……? 十年前の疫病で滅びた家と同じ名前ですね」
「滅びた?」
「お前も聞いたことがないか? 悲しきグロリア嬢の話を」
「ああ!」
衛兵ふたりは頷き合っているが、エンリーケはさっぱりわからない。
「悲しきグロリア嬢の話とは?」
もしかして自分と男爵令嬢の件でグロリアは自殺でもしたのだろうか。
だが、実家のマルティン伯爵家が十年前に滅びたと言われたことが気になる、とエンリーケは不思議に思った。
確かに十年前、伯爵領で疫病が流行ったことはある。エンリーケはそのときに一度死にかけていた。
「マルティン伯爵家お抱え商会の跡取り娘だったグロリア嬢は……ああ、そういえば彼女の実家がドロレス商会だった気がします……疫病で死にかけた恋人、伯爵家の次男を救うために国境の森を駆けて、隣国まで特効薬の材料になる薬草を仕入れに行ったんです」
年かさのほうの衛兵が語り始め、若いほうが無言で相槌代わりにか頷いている。
「ところが帰り道、狼の巣食う夜の森で事故が起こり、グロリア嬢の父親は亡くなってしまった。グロリア嬢の父親は、商会の名前にもしているグロリア嬢の母親ドロレスさんの件で伯爵家に多大な恩を感じていたので、娘に命じたのです」
走れ、馬に乗って走れ、伯爵家へ薬草を届けろ──少し声音を変えて言い、衛兵は続ける。
「死にかけていたのは次男だけでしたが、ほかの方々も無事ではなかった。薬草が届かなければ、遅かれ早かれ全員が亡くなる。伯爵家の人間も領民もすべて。この国には疫病の特効薬はなかった。隣国から仕入れた薬草だけが頼りだった」
年かさに視線を送られて、若いほうが歌い出す。
「グロリアは走った。夜の森を馬で駆けた。大恩ある伯爵家のため、そして愛する恋人のため。薬草を手にひた走った。だが……勝利者は森の狼達だった……」
「……そんな話は知らない……」
「そうでしたか。……十年前の疫病では多くのものが喪われた。マルティン伯爵家は優れた薬師の家系だった。グロリア嬢が薬草を届けていれば、伯爵領もこの王国も疫病の魔の手から逃れられていたかもしれません。まあそんなわけで、この国のマルティン伯爵家は滅んでしまったんですよ。悲しきグロリア嬢があの世とやらで、愛しい伯爵家の次男坊と結ばれていると良いのですけどねえ」
衛兵達に震える声で礼を言い、エンリーケはマルティン伯爵邸があるはずの方向へ歩き始めた。
彼らが自分をからかっているようには見えなかった。
だからといって信じられるような話ではない。
(グロリアは死ななかった。伯爵家へ薬草を運んできてくれた。僕も両親も兄も、使用人も領民達も助かった。その後グロリアは父親の遺したドロレス商会を受け継いで、伯爵家が作った特効薬で王国中に蔓延っていた疫病を打ち倒したんだ!)
エンリーケが何度となく頭の中で自分の知っている過去を繰り返しても、マルティン伯爵邸は存在しなかった。
周囲にも空き家や更地が見える。
十年前の疫病で、衛兵の言う通り多くのものが喪われたのだろう。
エンリーケは港の近くに戻り、安宿を取った。
汚い寝台に腰かけて、荷物から小さなお守り袋を取り出す。
袋の中に入っているのは真円を真っ二つにした半球の石だった。ろうそくの明かりを浴びて虹色に光るその石は、マルティン伯爵領の特産品だった。素手で割れるほど脆くてなんの役にも立たないけれど、美しさから『願い石』と呼ばれて愛されている。
病から癒えたエンリーケが自分で掘り出し、正式な婚約者になったグロリアへと贈った石だ。
お守り袋は彼女が作ってくれた。同じものを彼女も持っている。
対となった半球を持つふたりが同じ願いをすると叶うという伝説があって、それで『願い石』と呼ばれているのだった。
南国の島で男爵令嬢と別れた後、エンリーケは王都へ向かう船上で願った。
──グロリアのいないところへ帰りたい、と。
ドロレス商会会頭の婿としての重責から解放された、南国の島での浮気旅行が楽し過ぎたのだ。男爵令嬢を妻にする気はないものの、遊び暮らす日々には最高の相棒だった。
ふっと恐怖がエンリーケを包む。
十年前にも感じた恐怖だ。
病床のエンリーケは、自分が死んでしまうのではないかということが怖かった。そしてそれ以上に、グロリアが危険な旅から帰ってこないかもしれないということが恐ろしかった。
「夢だ。これはきっと夢だ。命を助けてくれたグロリアを粗末にしていた僕に、願い石が悪夢を見せているだけなんだ……」
呟きながら、『願い石』をお守り袋へ入れてエンリーケは眠りに就いた。
朝が来てもグロリアはどこにもいなかった。
『願い石』を割って渡したときの笑顔はもう二度と見られない。
グロリアに支えられたエンリーケに寄生していた男爵令嬢とも再会することはなかった。
彼女は南国の島から戻らなかったのだ。
おそらく十年前に喪われたひとりだったのだろう。
★ ★ ★ ★ ★
商談と称して南国の島へ行ったきり、戻ってこなかった夫の葬儀が先日ありました。
彼の実家のマルティン伯爵家の皆様が、中身のない棺でおこなってくださったのです。
私はまだ若いのだから、エンリーケのことを忘れて幸せになりなさい、とおっしゃってくださいました。
乗船名簿で帰りの船に乗り込んだことはわかったのですが、下船した記録はありませんでした。
途中で海へ飛び込んだのかもしれませんし、一度乗った後で見送りの人間の振りをして下船したのかもしれません。
とりあえず彼と違う船で戻ってきた男爵令嬢はなにも知りませんでした。南国の島にもいないようです。
私が彼と結婚しなければ良かったのかもしれません。
学園に入学して変わってしまった彼に身分の違いを感じていました。
そこで諦めていれば良かったのでしょう。
でも男爵令嬢に貢ぐためのお金欲しさだったのかもしれませんけれど、私と結婚したいと言ってくださった彼を信じたいと思ってしまったのです。
自分の手でふたつに割った『願い石』を渡してくださったときの笑顔を忘れられなかったのです。
暗い夜の森を駆け抜けられたのは、彼が私を愛してくれていたからだと信じたかったのです。
なにかのときに、偶然街で男爵令嬢と逢引きしている彼を目撃しました。
浅ましいことに私はふたりの会話を盗み聞きしてしまったのです。
彼は彼女に言っていました。グロリアのいないところへ行きたい、と。
『願い石』は、対を持っているふたりが同じ願いをすると叶えてくれると言います。
私も願いました。
エンリーケ様が私のいないところへ行けますように、と。
私達の願いは叶ったのでしょうか。
いずれ私は再婚するかドロレス商会を継いでくれるだれかを養子に取るでしょう。
そうでなくても商会の会頭としての生き馬の目を抜くような日々の中で、エンリーケ様のことは忘れていくに違いありません。
それでも今は祈っています。
私のいないところへ行ってしまった貴方が、幸せでありますように、と。
もう貴方の側にいない私には、ほかに出来ることがないのです。
<終>




