それまでは【願望】
「……死なないで……」
絞り出すような声が、高熱で苦しむフレッドの耳朶を打った。
コンスタンスの声だ。
フレッドの高熱が愛人のスウィンドラにうつされた性病に由来するものだとも知らぬまま、ほぼ昏睡状態の夫を徹夜で看病してくれているだろう正妻の声だ。
「死なないで、旦那様。……までは、それまでは」
熱による耳鳴りの隙間で、途切れ途切れにコンスタンスの言葉が聞こえてくる。
彼女はいつまで死なないでくれと願っているのだろうか。
同じ伯爵位の父親同士が友人だったふたりは幼馴染だ。領地が隣り合っていたことが一番大きな要因の政略結婚ではあった。それでも幼いころから一緒だったふたりには確かな愛情が芽生えていた。
(結婚後すぐに領地で問題が起こって父上と母上がお亡くなりになって……)
新婚蜜月の甘い夢のような時間が強制的に終わらされて、領主夫婦としての仕事に追われる現実に飛び込まされたのだ。
フレッドは気晴らしに出かけた王都の下町で出会ったスウィンドラと不貞をすることで、自分ひとりが重責から逃げ出した。
しかし若き伯爵夫人コンスタンスは、身勝手な夫に代わって婚家の危機と向かい合い続けてくれていた。
(私とスウィンドラが出会って一年、直にコンスタンスと結婚してから三年になるが、白い結婚ではないから離縁は出来ない。もしかして、私との間に子どもが出来ているのだろうか。それを伝えるまでは死なないで欲しいと願って?)
熱で朦朧とした意識の中、フレッドは最後にコンスタンスと体を重ねた日を思い返す。
あれはいつのことだったか。
スウィンドラは犯罪に片足を突っ込んで稼いでいた老いた豪商の後妻だ。豪商自身はフレッドがスウィンドラと出会う前から年齢に追いつかれて寝たきり状態だったけれど、彼女の性病は豪商からうつされたものだとフレッドは考えている。
(つまり最初からスウィンドラはこの病を持っていた。コンスタンスにもうつしてしまっているのかもしれない。だとしたら子どもにも悪影響があるんじゃないのか?)
全身が凍りつくように感じたのは、高熱のせいなのか我が子の苦しみを思ったからなのか、フレッドにはわからなかった。
とにかく早く回復したいと、フレッドは願った。
夫に死なないで欲しいというコンスタンスと同じ方向の願いである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(……離縁するまで死なないで欲しいと願っていたのか……)
白い結婚による離縁は出来なくなっていたが、貴族家の結婚では跡取りの存在が重要になる。
伯爵家当主夫婦であるフレッドとコンスタンスの婚姻において、三年間子どもが出来なかったことは十分な離縁の理由になった。
自分の傷にもなってしまうその理由で、コンスタンスは回復したフレッドに離縁を申し入れた。子どものことだけでなくスウィンドラとの不貞の証拠まで出されたフレッドは、離縁を拒めなかった。
(父上と母上がお元気で、あんなに仕事に追われていなければ……いや、私がスウィンドラのところへ通う時間でコンスタンスと過ごしていたら、今ごろ……)
どんなに悔やんでも過去は戻らない。
子どものころから一緒で、実家が隣領だったこともあって婚家の内情に詳しかったコンスタンスと離縁したことで、フレッドの仕事は倍増した。
愛人のスウィンドラを新たな伯爵夫人として迎えることなど出来ない。スウィンドラが平民だからではない。彼女を後妻に迎えた豪商は、寝たきりとはいえまだ生きているのだ。
──コンスタンスと離縁して三ヶ月ほど経ったころ。
フレッドはスウィンドラの夫だった豪商の死を伝えられた。
そして、それを伝えに来た王都の騎士団にそのまま任意同行を願われた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
豪商の死因は毒で、フレッドは犯人として疑われていた。
この王国の王都では平民の事件は衛兵隊、貴族の事件は騎士団が取り扱う。
後妻のスウィンドラと同じ平民の豪商の死で騎士団が動いたのは、容疑者のフレッドが貴族家当主だったからである。
「この署名に覚えはありませんか?」
「……ある」
騎士団が見せてきたのは、薬屋で商品を購入したときに記入した署名書だった。
嘘をついても始まらない。
フレッドの筆跡はもう確認されているのだろう。
「豪商を寝たきりにして、最終的に死に至らしめるためにこの毒をご購入なさったのですね」
「違う! スウィンドラに頼まれたんだ。確かに毒だが使いようによっては薬にもなる。スウィンドラの持病に効くのだと言われた」
「どうして貴方が購入することになったのですか。彼女の持病に効く薬なのだとしたら、それまでは自分で買っていたのでは?」
「薬になっても毒は毒だ。平民のスウィンドラでは信用が足りなくて買えなかった。私が買いに行く前は、元気だったころの豪商が買いに行ってくれていたのだと聞いている。彼は叙爵の話も出るくらいの大商人だったから信用があったんだ」
「……後妻に対して、随分と優しい夫だったようですね。なのに、彼女は貴方と愛人関係になって夫を裏切ったわけですか」
「それはッ! それは悪かったと思うが、私達の関係は豪商が寝たきりになってからだ。スウィンドラは不安で、だれかの助けが必要だったんだッ!」
「それが貴方……」
少し間を置いて、騎士団の捜査員が言い直す。
「突然のご両親の死で傾いた領地を新婚の奥方と立て直していた伯爵様だったのですね」
「……」
騎士団の団員は貴族子息、もしくは実力で騎士爵を得た人間だ。
伯爵家の当主であるフレッドに礼儀を欠くような真似はしないが、遠慮もしない。
捜査員が今度は封筒を出してきた。色でわかる。フレッドがスウィンドラへと送った恋文だ。
「この手紙に書いてある、もうすぐ『邪魔者』がいなくなる、という文言は?」
「豪商は寝たきりだったし、年齢的にも寿命が近いと思っていたんだ。あ、悪意があって書いた文章ではないッ!」
言いながらフレッドは、なんの言い訳にもならない言葉だと感じていた。
愛人の夫を邪魔者扱いしておいて悪意がないなんて、どの口が言っているのか。
それに豪商に寿命が来たとしても、自分の妻であるコンスタンスのことはどうするつもりだったのか。離縁してスウィンドラと再婚するつもりだったのか、コンスタンスに伯爵夫人としての仕事を押しつけたまま、スウィンドラを迎え入れるつもりだったのか、今のフレッドには思い出せない。わかるのは自分が愚かな不貞関係に溺れていたということだけだ。
捜査員の尋問は続いた──
★ ★ ★ ★ ★
「あら?」
コンスタンスは新聞の見出しを目にして首を傾げた。
しばらく考えて、自分の覚えた既視感の理由に思い当る。
「フレッド様、無実が証明されたのね」
そこに書かれていたのは、数年前に離縁した夫の名前だった。
今の彼はもう伯爵家の当主ではない。
殺人の容疑者になってしばらくしてから、遠縁の人間に家を譲ったのだ。彼が容疑を受けたのが離縁の後で良かったと、コンスタンスは心から思った。離縁していなければ、コンスタンスの努力で少しは上向きかけていたとはいえ、傾いている伯爵家の運営を押しつけられていたかもしれない。
(下手したらフレッド様がそんな人間になったのは、妻である私のせいだと言われていたかもしれないわ。それに……)
離縁した最初のうちは、気になってフレッドの事件を追っていた。
彼が手紙に書いていた『邪魔者』は自分のことだったのではないかと思って、当時のコンスタンスは怯えていたものだ。
豪商殺害がフレッドの仕業でなかったのなら、むしろ手紙の『邪魔者』は本当にコンスタンスのことだったのかもしれない。
(離縁して良かったわ)
スウィンドラにはフレッド以外の情夫がいた。
豪商の後妻となる前からの仲だ。
夫に毒を飲ませて寝たきりにしたのも、すべての罪をフレッドに着せようとしたのも、すべてそちらの男の入れ知恵だったらしい。もちろんフレッドを操りやすい生け贄として選んだのもその男だ。
コンスタンスはその男を知っていた。
スウィンドラの存在を知って、こっそり覗き見しに行ったときにふたりが睦み合っているのを目撃してしまったのだ。
あのとき、高熱に浮かされるフレッドを看病していたときのコンスタンスの願いは、彼自身がもうひとりの男の存在を知って嫉妬と裏切られていたことへの怒りで地獄へ落ちることだった。
(彼を殺しかけた性病だって、寝込んでいた豪商からでなく本当の情夫のほうからうつったものに違いないわ。でも……)
「コンスタンス、そんなに夢中で読むほど面白い記事があったのかい?」
「あ」
背後から現れてコンスタンスの手の中の新聞を覗き込んだ新しい夫が、大きな見出しを読んで不機嫌そうな顔になる。
「彼……無実だったんだね」
「ええ。でもね、ジョージ」
コンスタンスは振り返って、愛しい夫に微笑んだ。
「私、最初に見たとき、だれのことかわからなかったの。知っている名前のような気がするけれど……って、しばらく考えてやっと思い出したのよ。だって今の私はとっても幸せなんですもの。過去のことなんか忘れてしまっていたわ」
「だったら良いけど……彼と復縁したりはしないよね?」
「ジョージ、私を捨ててしまうの?」
「そんなわけない!」
離縁後、実家を継いでいた兄の紹介で再婚した夫に抱き締められて、コンスタンスは幸せに包まれた。
兄の友人だったジョージは侯爵家の三男坊で騎士爵を得て独立している。
王都の騎士団に所属しているが、フレッドの事件の担当ではなかった。
(無実を証明されて解放されたのなら、きっとあの女の本当の情夫のことも聞いているわね。そもそも愛人に罪を着せられそうになったことだけで地獄を見たでしょうし……)
コンスタンスは少しすっきりした。フレッドのこと自体は忘れていても、前の夫に不貞をされたという屈辱と悲しみは心の片隅にこびり付いていたのだ。
「愛してるよ、コンスタンス」
ふたりの兄に甘やかされて育ったジョージは弟気質だ。
年齢は下でも、伯爵夫人として貴族家の運営をしていたコンスタンスのほうがしっかりしている。
甘えてくるけれど、守るところでは守ってくれて、支えるときは支えてくれるヤキモチ妬きの愛しい夫の背中に、コンスタンスは自分の腕を回して抱き締め返した。これからもコンスタンスは彼と生きていく。いつまで、なんて区切りはない。
<終>




