最後に微笑んで【束縛】
私からエンリーコ王太子殿下を略奪し、妃となったリティージョ様は亡くなりました。
王太子妃として王都の貧民街を改善した後で。
改善の途中で壊滅させた犯罪組織の女性頭領の夫の凶刃に斃れて。
「……なんのご用でしょうか?」
そう尋ねた私の声は、不敬と言われても仕方がないほどに不機嫌なものでした。
当然でしょう。
この王国の貴族子女が通う学園の卒業パーティ会場で私との婚約を破棄し、厄介払いとばかりに今の夫──辺境伯へ押し付けた元婚約者のエンリーコ王太子殿下に先触れもなく訪ねて来られて、機嫌の良いわけがありません。
辺境伯である夫は素晴らしい方です。
年齢こそ離れていますが、彼がずっと独身だったのは辺境伯領を守るのに必死だったためですし、私のことも大切にしてくださっています。
だからこそ彼が、王太子に捨てられた公爵令嬢と社交界で笑い者にされている私のような人間を娶らされたことが申し訳ないのです。
「リティージョについて聞きたくて。君は学園時代、彼女を調べていただろう? 改善政策を実施したことで、貧民街とその周辺の下町に住んでいた人間は移動してしまった。愛人だった母親の死後、父親の家へ引き取られるまでのリティージョについて調べようとしても出来なかったんだ」
「調べる必要など無いのではありませんか? 妃殿下は犯罪者の逆恨みから夫である殿下を庇ってお亡くなりになった貞女でございましょう? 彼女を虐めていた悪女の調査書など信用していただけないと思いますわ」
見つめると、殿下は唇を噛んで俯きました。私は尋ねました。
「なにかあったのですか?」
「……近衛騎士隊長が教えてくれたんだ。貧民街の犯罪組織を摘発したとき、あのジョヴァンニという男を逃がしたのは、リティージョに頼まれていたからだと。母親と下町に住んでいたころ、彼に恩を受けたことがあるのだと言っていたらしい」
「ではそれで良いのではないですか? 妃殿下が恩を返したのに、彼のほうは逆恨みして助けられた恩を仇で返した、それでお終いになさればよろしいのです」
殿下がお顔を上げました。
「リティージョは、最後に微笑んだんだ」
「殿下をお守り出来たことを喜んでいらしたのでしょう」
「違うんだ。彼女の瞳には私が映っていなかった。男から私を庇ったんじゃない。男の目当ては最初からリティージョだった。そして、リティージョもそれをわかっていながら避けようとしなかったんだッ!」
私は溜息を漏らします。不敬と言われてもかまうものですか。
「驚愕と恐怖で身動き出来なかっただけでしょう。婚約者のいる男性に擦り寄って奪い取った不貞女を意地悪な公爵令嬢に虐められていた哀れな令嬢に仕立て上げたように、今回の事件も美談にするのでしょう? 貴方には真実などどうでも良いものなのですから」
「……あの男、ジョヴァンニを瞳に映した瞬間、リティージョは恋する女性の顔になった。私に見せていた表情はすべて演技で、彼女が本当に愛していたのはあの男だったんだ!」
「私は彼女ではないので、彼女の真実などわかりませんし、おおよその予想を語ったところでそれが公表されることはないのでしょう? 悪女として貶められて蔑まれている私が、なぜ殿下のお願いを聞き届けなくてはならないのでしょうか?」
「君の名誉回復に努める。すべて私の浮気心が悪かったんだと宣言する。……だから!」
そんな言葉信じられたものではありません。でも──
「ジョヴァンニは妃殿下の恋人でした」
「ああ、やっぱり! 犯罪組織の女性頭領との縁談が来たから、貴族の父親を持っていても愛人の娘に過ぎない彼女は捨てられてしまったんだな!」
「いいえ」
「ッ?」
「女性頭領……当時は先代頭領の娘だった未来の妻と付き合い始める前に、ジョヴァンニは妃殿下と別れています。調査書はもう焼き捨ててしまいましたが、ジョヴァンニの部下だった男の発言を覚えています。ジョヴァンニは妃殿下の束縛が怖くなって別れたのだそうです」
「束縛……」
私は自嘲の笑みを浮かべました。
「婚約していたとき、私は束縛が激しいと、よく殿下に怒られましたね。自分の婚約者がほかの女性とばかり親しくしていることを責めるのは、そんなに悪いことだったでしょうか?」
「それは……すまない」
なんの価値もない薄っぺらい謝罪を聞き流して、私は話を続けます。
「ジョヴァンニに捨てられても、妃殿下は彼と犯罪組織の跡取り娘の縁談が結ばれるまでは付き纏い続けました。そして……殿下、ここからは私の想像が多くなります。なにを語っても許していただけるでしょうか?」
「ああ、許そう」
「ありがとうございます。彼の縁談が決まった直後に、妃殿下は貧民街の怪しげな薬屋で毒薬を購入しました。怪しげな店でも薬屋を名乗っている以上、毒薬の購入には署名が必要になります。妃殿下は偽名で購入なさいましたが、筆跡を見ればおわかりになると思いますので、貧民街の改善に伴って押収した薬屋の契約書をご確認ください」
殿下は目を丸くしました。
「リティージョは恋敵を殺そうとしていたのか?」
「だったら、まだ良かったと思いますわ。妃殿下がその毒で殺めたのは、ご自身の異母姉です。父親にはほかに子どもがいなかったので、異母姉が亡くなれば跡取りとして彼女を引き取るしかありませんでしたから。妃殿下が購入なさった毒と異母姉を殺めた毒が同じものだということは、神殿に確認していただけばわかります」
学園時代、私は実家公爵家の権力を使って神殿に墓を暴くよう要求したのです。
証拠は十分だったと今でも思っています。
ですがリティージョ様を愛する殿下の一声で、私の調査結果はすべて彼女を貶めるための偽造と決めつけられたのです。……調べたことを偽造扱いされて、神殿は殿下への信頼を失いました。権力で強要したのは事実ですけれど、神殿内にリティージョ様の異母姉の死因を疑う人間がいなければ墓暴きはなされませんでした。
「どうして、そんなことを」
殿下の疑問を無視して、
「異母姉の代わりとして引き取られたのですから、妃殿下はそのまま異母姉の婚約者と婚約していました。……覚えていらっしゃるでしょう」
「あ、ああ。私がリティージョと一緒にいると、いつも睨みつけてきた子息だな。面と向かって不貞の関係に苦言を呈されたこともある。彼は確か……」
「亡くなりました。彼の死因も本来の婚約者と同じです。こちらも神殿にご確認ください。以前に一度報告済みですが」
「……」
「ジョヴァンニの所属していた犯罪組織は王都の闇を支配する巨大な存在でした。それを壊滅させるには亡くなった婚約者の力では足りない、そうお思いになったのでしょう。それに彼は亡くなった異母姉を愛していて、妃殿下のことを疑っていましたから」
神殿に墓暴きを強要出来たのは、リティージョ様の異母姉の婚約者やその家が口添えしてくれたからでもあったのです。
「捨てられたことへの復讐のため、か?」
「……ジョヴァンニの部下が言っていました。妃殿下の束縛は、ただ付き纏うだけではなかったのだと。恋人の大切なものをすべて踏み潰して、どこへも行けないよう、なにも出来ないようにしたがっているとしか思えなかったと。実際ジョヴァンニを兄貴と慕っていたその部下……彼も摘発後に処刑されたのでしょうね……は妃殿下に殺されかけたことがあったといいます。彼はジョヴァンニの母親の死についても妃殿下の関与を疑っていました」
殿下が怯えた顔で息を吸い込みます。ひゅっ、と喉が鳴る音が聞こえました。
「所属する大切な犯罪組織を壊滅させられて、愛しい妻を処刑されて、憎悪に燃えるジョヴァンニの心が自分のことだけでいっぱいになるのが、妃殿下の望みだったのではないでしょうか。……婚約者が亡くなり、卒業パーティで私が婚約破棄されて、妃殿下は巨大な組織を潰すための力……王太子殿下を入手なさいました」
「私は……利用されていただけだったのか?」
「ただの想像ですわ。どうせ殿下は私の言葉など信じたりなさらないのでしょう? これまで通り、自分も婚約者がいるにもかかわらず婚約者のいる男性に擦り寄ってきた妃殿下は純真無垢な清い存在で、殿下を庇ってお亡くなりになった貞女だと信じて生きていかれれば良いではありませんか」
「……王都へ戻ったら、押収した契約書と神殿からの報告書を確認する。先ほど約束した君の名誉回復も必ずやり遂げよう」
「ありがとうございます」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「殿下には名誉回復なんて無理だろう」
お忍びで辺境伯領まで来ていた殿下が王都へ向かって旅立った後で、隣に立つ夫が言いました。殿下と応接室で会話していたときも、夫は長椅子の私の隣に腰かけていたのです。
「君が悪女だなんて、みんなが本当に信じていたわけではない。王太子殿下の機嫌を取って、公爵家の力を削ぐために噂に乗っかっただけなんだから」
「はい。辺境伯家の名を貶める足手纏いの妻で申し訳ありません」
「ん? いや、そんなつもりで言ったわけではない。俺は噂など嘘だとわかっているし、宮廷雀の人脈も必要としていない。欲しかったのは貴族家当主夫人としての誇りを持った、俺が愛せる女性だ。……君で良かったと思っている」
「私も貴方で良かったですわ」
実際のところ、辺境伯領をほとんど出ない私達にとって、王都の社交界での悪い噂など大した傷にはなりません。
それでも愛する夫のことを考えると、こんな形ではなく自分から殿下との婚約を解消して、辺境伯家へ嫁いでいたら良かったと思わずにはいられないのです。
とはいえ、これからの殿下は私の名誉回復どころではありません。リティージョ様の真実は隠し通すとしても、貧民街改善の後始末が待っているのですから。
善きことでも、いいえ善きことならばこそ、実現には時間がかかります。
リティージョ様がジョヴァンニの犯罪組織を壊滅させるための大義名分として利用した貧民街の改善は、短期間でおこなわれた形だけのものに過ぎません。
貧民街とその周辺の下町の住人達が移動させられただけなのです。
移動させられた先の住人達との軋轢や自分達の町より先に貧民街の改善が取り組まれたことに不満を持つ一般の平民達の怒りが、殿下を待っています。平民達に強い影響力を持つ神殿が殿下を助けることはないでしょう。
空になった貧民街には、また行き場のない犯罪者達が集まってくるでしょう。
組織という鎖無しの犯罪者達がなにを仕出かすかなんて、だれにも予想は出来ません。
殿下は後始末をやり遂げることが出来るでしょうか。
私の父である公爵や夫である辺境伯に見限られている王家は、この王国を治め続けていくことが出来るでしょうか。
旅立つ殿下を見送った私の微笑みは、きっとリティージョ様の最後の微笑みと同じように、彼に対するひとかけらの愛も含んでいなかったに違いありません。
<終>




