貴女にあげる。【純愛】
王都侯爵邸の庭師小屋で、私の夫クリストフォーロ様はメイドのフェリータと睦み合っていました。
実は珍しいことではありません。
見目麗しいクリストフォーロ様は、この王国の貴族子女が通う学園にいたころから愛人を切らしたことはありませんでした。
ええ、当時は婚約者、現在は妻の私カルロッタがいるのに、です。
私の実家は伯爵家です。
でもクリストフォーロ様が私を侮っていらっしゃるのは、単に伯爵家よりも侯爵家のほうが身分が高いからではありません。
私がクリストフォーロ様を愛しているからです。
初めてお会いしたときからずっと、狂おしくひたむきに愛し続けていたからです。
今も夫は目の前で、不敵な笑みを浮かべて私を見ています。
私が離縁など言い出さないと信じているからです。
たとえ一時の感情に任せて離縁したとしても、これまでの援助の返済を求めたり、二度と資金を融資しなくなったりすることはないと思っているからです。
嫁ぎ先の侯爵家は、私の持参金と実家からの援助で回っています。
メイドのフェリータも同じことを考えているのでしょう。
彼女は当事者の夫とは違い、離れたところから私達夫婦を見ていました。
だからこそ私が夫を愛していると知っているのでしょう。知っているのに夫を寝取ったのです。彼女は勝ち誇った笑みを浮かべています。
私は幼馴染に貰ったお守りの腕輪に手を当てました。
石の腕輪は冷たくて、嫉妬に乱れた心が落ち着いていきます。
本当に、この腕輪が妖精に作られたものならば──
「……わかりました、旦那様。貴方はそちらのメイド、フェリータを愛していらっしゃるのですね」
「ああ、そうだ。文句があるなら離縁するかい?」
「はい」
「ははは、そんなことを言って私の関心を買おうとしても無駄だよ」
「いいえ、私は本当にクリストフォーロ様と離縁いたします」
私はフェリータに微笑みかけました。
「貴女もクリストフォーロ様のことを愛していらっしゃるのでしょう?」
「え、ええ、もちろんです」
「でしたら差し上げます。私の持つ彼に関するものをすべて。……それではクリストフォーロ様、弁護士を呼んで離縁の手続きをいたしましょう?」
「き、君がそういうのなら離縁してあげるけれど、後で後悔しても遅いんだよ?」
「はい、わかっております」
腕輪のおかげでしょうか。私の持つクリストフォーロ様に関するものすべてが消えていくような気がしました。
★ ★ ★ ★ ★
「フェリータ。お前最近おかしいぞ」
王都侯爵邸の庭師小屋で、フェリータは情夫のヴェレーノに言われた。
下位貴族令嬢だったフェリータとゴロツキの彼との仲は長い。
学園在学中にお忍びで街へ遊びに行って、顔の良い彼に声をかけられて夢中になったのだ。
当時の婚約者には婚約を破棄されて、親にも縁を切られてしまったが、親が最後の情けで紹介してくれた貴族家のメイドという仕事のおかげで上手くやっている。
フェリータが雇用先の主人と関係を持ったのは今回が初めてではない。
これまでは甘えたり、奥方に暴露すると脅したりして金を搾り上げた後、べつの家への紹介状を書かせて別れてきたのだ。
今回も妻のカルロッタを追い出してまでクリストフォーロを得ようとは思っていなかった。
そもそもカルロッタがクリストフォーロと離縁したことが予想外だ。
家と家の政略的な結婚だというのもあるものの、彼女は彼を愛していた。
「煩いわね」
フェリータはヴェレーノを睨みつけた。
最近の自分がおかしいことは、自分が一番よく知っている。
瞳が常にクリストフォーロの姿を追って、耳がいつもクリストフォーロの声を探して、クリストフォーロと一緒にいると心臓の動悸が激しくなるのだ。
完全に恋愛の症状だが、フェリータは激しい違和感を覚えていた。
自分を支配するその情熱が、明らかに自分のものではないと感じるのだ。
喉に引っかかった魚の骨よりも疎ましい。
(あの女が持つクリストフォーロに関するものすべてって……)
侯爵夫人の座や財産のことだと思っていた。
しかし今ごろになって、そうではなかったのではないかと感じて背筋が冷たくなる。
夫人の座を得られるかどうかは侯爵家当主のクリストフォーロ次第だし、カルロッタの財産は彼女個人のもので夫に関係するものではない。
カルロッタが、彼女自身が持っていたクリストフォーロに関するものすべてというのは、結局は感情的なものだったのではないか。
彼を想う心、愛する心、浮気されて嫉妬する心──
想像して、莫迦莫迦しいとフェリータは思う。そんなことが可能なはずがない。妖精達がイタズラに明け暮れていたおとぎ話の時代ではないのだ。
「そんなことよりヴェレーノ、久しぶりなんだから……」
肉欲に溺れてしまえば、自分の中のわけのわからないもののことなど忘れられるはずだ。
フェリータが情夫にしなだれかかったとき、庭師小屋の扉が開いた。
クリストフォーロだった。
「浮気していたんだな、フェリータ。いや、最初からその男に貢ぐために私を誘惑したのか。……とっとと出て行け、この淫売」
顔の良いヴェレーノはフェリータ以外にも女性がいる。
相手には結婚している女性もいたので、彼はこういう状況に慣れていた。
クリストフォーロが言い終わる前に、ヴェレーノは庭師小屋の奥の窓から逃げ出していた。フェリータは半裸の状態で庭師小屋から引きずり出され、自室に置いてあった荷物を投げつけられた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「すまなかった、カルロッタ! 私はあの淫売に騙されていたんだ!」
「貴方の浮気は彼女が初めてではなかったじゃありませんの」
クリストフォーロは伯爵家の門前で、門内のカルロッタに呼びかけていた。
ふたりは閉まったままの鉄の門に隔たれて、数人の門番に見つめられている状態だ。
カルロッタの周囲には侍女や侍従もいる。
フェリータは物陰に隠れて、それを見ていた。
今のところ生活には困っていない。これまでの家で巻き上げた宝石や装身具を売って暮らしている。
女癖こそ悪かったものの、侯爵家の当主としてはそれなりの人間だったクリストフォーロは、フェリータの私物をちょろまかしたりはしていなかったのだ。そんな人間だったからこそカルロッタが見限れずにいたともいえる。
紹介状なしで追い出されたから、もう貴族家のメイドにはなれない。
それでもフェリータは見た目が良いし、下位貴族令嬢として学園で読み書き計算も学んでいる。
羽振りの良い商家でもやっていけることだろう。どこにでも色ボケた男はいる。
ヴェレーノに会いに行って、彼の乱れた女性関係を利用して雇用先を見つけてもらえば良かった。
そのとき、あの日自分を置いて逃げ出したことへの愚痴を伝えてやれば気も晴れただろう。
フェリータはわかっていた。それが最善だと知っていた。なのに彼女はそうしなかった。
今のところ金があるのを良いことに、フェリータはクリストフォーロを追いかけている。
付き纏いだ。
情熱に支配されて逃げられないのだ。
(愛してないのに! アタクシはあんな男愛してなんかいないのにッ!)
瞳が追う、耳が探す、体が求める。
明らかに自分のものではない感情がフェリータを突き動かすのだ。混じりけのない純粋な愛情だ。
何度かクリストフォーロに見つかって、これ以上付き纏うようなら衛兵に引き渡すと言われている。
「貴方は我が家からの援助が欲しいだけなのでしょう?」
「違うッ! いや……確かにそれも少しある。でも君への愛に気づいたのも本当なんだ。私が浮気をしていたのは、君に嫉妬して欲しかったからだったんだ」
風が運んだふたりの会話に、フェリータの胸が嫉妬で締め付けられる。
クリストフォーロのことなど愛してはいないのに。
とはいえ、実際のところフェリータはヴェレーノのことも愛してはいない。ヴェレーノもフェリータを愛していない。ふたりは互いに都合の良い相手というだけだった。
フェリータがヴェレーノに夢中になったのも、顔の良い彼を恋人だと言えば周囲に自慢が出来るからだ。
フェリータが愛しているのは、周囲に羨まれる自分だけだ。
クリストフォーロと浮気していたときも、哀れな侯爵夫人を見下すことで優越感に浸っていた。
ふと、カルロッタがフェリータに気づいた。
元妻を見つめて愛を叫び続けているクリストフォーロは気づいていない。
物陰に隠れているフェリータに、カルロッタが嘲笑を見せる。それは、二階の執務室の窓から夫とじゃれ合うメイドの姿を見つけた侯爵夫人に、そのメイドであるフェリータが見せていたのと同じ優越感に満ちた笑みだった。少なくともフェリータにはそう見えた。
「ッ?」
不意に激しい衝撃を感じてフェリータは地面に膝をついた。
背中にナイフが刺さっている。
力を振り絞って振り向くと、駆けてゆくヴェレーノの背中が見えた。
彼はクリストフォーロを追う自分に嫉妬して凶行に及んだのではないと、フェリータにはわかっていた。
ただの怒りだ。身勝手な感情の発露だ。
都合の良い道具が思うように動かなくなったことで機嫌を損ねたのだ。
(死んだら、この想いから解放されるの……?)
フェリータは地面を這って、また伯爵家の方角に目をやった。
クリストフォーロがいる。
瞳が追う、耳が探す、体が求める。……愛してなどいないのに。
★ ★ ★ ★ ★
幼馴染が異国の祭りで購入したという石の腕輪の効能を、私は信用していませんでした。
自分でもどうにもならない感情を他人に譲渡出来る腕輪だなんて。
そんな都合の良いものがあるわけがないじゃありませんか。
そんな都合の良いものがあるのなら、私のこれまでの苦しみはなんだったのですか。
婚約者で夫となったクリストフォーロ様の浮気に悩み、それでも彼を愛する気持ちから逃れられなかった愚かな日々は。
そうは思いましたが、私を案じてくれた幼馴染の気持ちが嬉しかったので、嫉妬に狂ってこれ以上の愚行をなさないようにと、お守りのつもりで身に着けていました。
まさか本物だったなんて!
確かになんの継ぎ目もない、ひとつの石から彫り出したような不思議な腕輪でした。
幼いころならば、妖精が作ったと言われたら信じて大喜びしていたでしょう。
……なんてね、本当は繰り返されるクリストフォーロ様の裏切りに擦り減った私の心が、もう彼への愛を抱え続けていられないほど疲弊していただけだったのでしょう。
『でしたら差し上げます。私の持つ彼に関するものをすべて』
そう言った瞬間に、私のクリストフォーロ様への愛情は消え失せました。
代わりにやって来たのは安堵です。
もう愛さなくて良い。瞳で彼の姿を追わなくて良い、耳で彼の声を探さなくて良い、体が彼を求める熱を感じなくて良い。なんて素敵なことでしょう。
「クリストフォーロ様、私には新しい縁談がありますの。今日お会いしたのは、何度面会を断っても貴方が諦めてくださらないからです。これ以上しつこくなさるなら、衛兵を呼んで引き渡しますわ」
「カルロッタッ!……わかった、帰るよ」
女癖の悪い彼ですが、侯爵家の評判を大切に思う気持ちはあるのです。
私は元夫を見送った後で、侍女達に飾り立ててもらいました。
これから幼馴染が迎えに来てくれて、観劇に連れて行ってくれるのです。
クリストフォーロ様に夢中だったときの私は、彼をただの友達だとしか思っていませんでした。
でも彼は私を好きだと言ってくれたのです。
あの腕輪をくれたのも、それで私が元夫を見限れば良いと思ってたからなんですって。
そう言えば物陰からクリストフォーロ様を見つめていた元メイド、なんだったのかしら。
元夫に追い出されたことは知っているけれど、もしかして彼女は本当に彼のことを愛していたのかしらね。
あの腕輪の力で押しつけられたクリストフォーロ様への愛に支配されていただなんて、そんな莫迦なことがあるわけないですものね。
<終>




