あの子を憎んでも良いかしら?【魅了】
公爵令嬢である私は、王宮の中庭でアレッサンドロ殿下を待っていました。
アレッサンドロ殿下はこの王国の第一王子で、私の婚約者です。
殿下と私は同い年ですが、事情があって殿下は、私達が卒業した王国の貴族子女が通う学園へ再び通っています。再入学からは一ヶ月ほど経ったでしょうか。
中庭に用意されたテーブルでお茶を飲み、侍女と会話しながら待っていると、近くの渡り廊下に殿下らしき影が現れました。
護衛騎士に囲まれた殿下の隣にだれかがいます。
風になびく薔薇色の髪を見て、私の背筋を冷たいものが流れ落ちました。
嫌な予感がします。
でもそんなはずはないのです。
彼女は、殿下の乳姉弟だったストレゴーネは死んでしまったのですもの。
殿下達が私の前まで辿り着きました。
周囲の護衛騎士達は沈痛な面持ちです。
薔薇色の髪の少女はストレゴーネではありませんでした。ですが、驚くほど彼女に似ていました。顔立ちも紫色の瞳も、どこかあどけない表情も。
「……ベアトリス。僕は君との婚約を破棄する。愛しているんだ。彼女を、ストレゴーネを」
そうおっしゃった殿下の隣で見せた、邪悪な微笑みも彼女のままでした。
だけどそんなはずはないのです。
ストレゴーネは死んだのです。私の愛するアレッサンドロ殿下を魅了した、あの憎い憎いストレゴーネは──
★ ★ ★ ★ ★
婚約破棄後、アレッサンドロの部屋へ招き入れられたマーゴは、大声で笑い出したい気分だった。
噂は本当だった。
第一王子アレッサンドロは乳母の娘ストレゴーネに魅了されて、公爵令嬢ベアトリスとの婚約を破棄したのだ。そのせいで王太子だったのを廃されてしまったものの、王子としての地位や身分、王位継承権は失っていない。学園の平民特待生のマーゴとしては、王子の妃になれるだけで十分だった。
(後は暗殺されないように気をつけなくちゃね。ストレゴーネとやらが死んだのは、たぶん公爵令嬢に排除されたからなんだから)
三年前、公爵令嬢との婚約破棄後にストレゴーネを喪ったアレッサンドロは心を病み、長い間療養した。
やがて精神が安定した彼は、ストレゴーネと過ごしていた間の記憶を失っていた。
アレッサンドロは公爵令嬢ベアトリスと再婚約し、学園へ入り直してマーゴと同級生になったのだ。
マーゴは勉強も出来るし向上心もある。
だから将来性を見込まれて、本来なら貴族子女だけが通う学園に入学出来たのだ。
学園へ通うからには、なんとしても玉の輿に乗るつもりだった。
アレッサンドロが自分の薔薇色の髪を気にしていることに気づいてから、マーゴは隠されていた過去について調べた。
そして知ったのだ、ストレゴーネのことを。
マーゴは髪型を変え口調を変え、アレッサンドロの乳姉弟だったというストレゴーネを真似て、年上の彼に対してお姉さんぶって見せた。陥落したアレッサンドロがマーゴの言うなりになるまで、かかった時間はたった一ヶ月だ。マーゴが本気を出してからは半月もなかったかもしれない。
(護衛騎士達も邪魔しなかったし)
きっと彼らは主君とストレゴーネの関係を応援していて、公爵令嬢ベアトリスと再婚約したアレッサンドロに同情していたのだとマーゴは思っている。
アレッサンドロはマーゴが望むまま、ベアトリスと再び婚約破棄してくれた。
しかしマーゴには、ひとつだけ不満があった。
「……ストレゴーネ……」
少し席を外していたアレッサンドロが自室へ戻って来て、マーゴに呼びかけてきた。
これがマーゴの不満だ。
自分からそう見せかけていたとはいえ、マーゴとしてではなくストレゴーネとして扱われるのが気に喰わない。
「ねえアレッサンドロ。もうそう呼ぶのはやめて。アタシはマーゴよ」
アレッサンドロの首に巻き付いて言うと、彼は怪訝そうな顔になる。
金の髪に青い瞳、マーゴお気に入りの王子様。
王太子ではないけれど、彼が任されている王領からの収入は下位貴族のそれを上回る。社交界でだって、どこの貴族家の夫人よりも王子妃のほうが偉い。
「君はストレゴーネではないのか?」
「そうよ。アタシはアナタの愛しいマーゴよ」
「マーゴ? ストレゴーネではない?……そうか、そうだな」
「そうよ、アレッサンドロ!」
「そうだった。ストレゴーネは私が殺したんだ」
「え?」
気がつくと、アレッサンドロの両手がマーゴの首にかかっていた。
「ちょっと待って、アレッサンドロ。なにをするつもりなの?」
「君を殺すんだ、ストレゴーネ。君が望んだことじゃないか」
「だから違うわ! アタシはストレゴーネじゃない! マーゴよ!」
「薔薇色の髪に紫色の瞳、君はストレゴーネだろ?」
「さっきアナタが言ったんじゃない。ストレゴーネは自分が殺したって!」
「でも君はここにいるじゃないか。私が殺し損ねていたんだね? ごめん、ストレゴーネ。君の言う通り、君を殺すよ」
「待って! やめて! アタシはなにも言ってないわ! 殺さないでッ!」
首にかかったアレッサンドロの指は、どんどんと込める力を増していく。
今ごろになってマーゴは気づいた。
自分を見る王子の瞳には、いつも光がなかったことを。
(まさかアレッサンドロは本当に魅了されていたの? 恋に落ちたことの比喩表現じゃなくて、人間の思考を奪い傀儡にしてしまうという、恐ろしい伝説の精神魔術をかけられていたというの?)
恐怖で動けないマーゴの首にかかっていたアレッサンドロの指から、急に力が抜けた。
彼の瞳に光が戻っている。
青い瞳には指につけられた指輪が映っていた。
公爵令嬢ベアトリスから贈られた指輪だと聞いている。
どんなにマーゴが頼んでも、ストレゴーネとして命令しても、彼はその指輪を外すことはなかった。
魅了のような恐ろしい精神魔術は今の時代は伝説で、その指輪にも守護の魔術などかかっていないと教えられていた。ただ公爵令嬢の瞳と同じ色の琥珀を見つめると、心が落ち着くのだとアレッサンドロは言っていた。彼が呟く。
「ああ、またベアトリスが救ってくれた。私は殺人犯にならなくて済んだようだ」
アレッサンドロの手が首から離れて、マーゴはその場に座り込んだ。
逃げ出したかったが、体が硬直して動けない。
全身の血液が凍りついたかのように感じる。肩に落ちた自分自身の薔薇色の髪が、なんだかとても悍ましかった。
★ ★ ★ ★ ★
平民の特待生だったマーゴ様が学園を退学して、神殿へ入られて三年が経ちます。
私は二度目の学園卒業を果たされたアレッサンドロ殿下と結婚しました。
殿下は結婚と同時に王籍から抜けられて、任されていた王領を領地にして伯爵位を授かりました。実家より爵位は落ちますが、私は殿下といられればそれで幸せです。
殿下の乳母の娘だったストレゴーネは魅了の力を持っていました。
今はもう伝説でしかないとされていた、恐ろしい精神魔術です。
彼女はその力でアレッサンドロ殿下を魅了し、一度は私から奪い取りました。
ですが皮肉なことに、彼女は自分が魅了の力を使っていることを自覚していなかったのです。
周囲の人間──恋仲のはずのアレッサンドロ殿下、家族、友人のすべてが人格のない、自分の思い通りに動くだけの人形になり果てて、彼女は狂いました。
どんなに支配欲の強い人間だったとしても瞳に光を失った、命令がなければ動かない傀儡に取り囲まれて暮らしたいとは思わないでしょう。
ストレゴーネは彼女なりに殿下を愛していたのでしょう。
殿下に、自分を殺して後を追えと命令したのです。
無理心中です。
でも殿下は彼女を殺しませんでした。
マーゴ様のときと同じように、私の贈った指輪を見て我に返ってくださったのです。
ストレゴーネは恐ろしい魅了の力を使った罪で密かに処刑されました。
とはいえ、魅了の力で思考力を奪われた殿下が回復するには時間がかかりました。
再婚約した私が尽力したことは言うまでもありません。
ストレゴーネと長い年月を過ごした家族や彼女に逆らって無意識の強い魅了の力を浴びた友人達は、今も瞳の光を失った人形です。怪しまれないように普通の生活をしなさい、という彼女の最後の命令を守り続けているだけです。仕事に行く途中で障害物にぶつかって動けなくなっても、命令通り職場へ向かって足を動かし続けることしか出来ない状態のままなのです。
「ベアトリス」
「殿下」
「もう殿下じゃないよ。王籍を抜けたのもあるけれど……私は君の夫だ」
「はい、アレッサンドロ様」
マーゴ様がストレゴーネを演じたせいで、せっかく回復していたアレッサンドロ様は魅了状態に逆戻りしてしまいました。
学園を再卒業するまで魅了状態と回復が何度も繰り返されたのです。
本当の学園時はストレゴーネの支配下にあったので、回復して再入学した殿下と学園生活を送るのを楽しみにしていたのに残念です。まあ私はもうとっくの昔に卒業しているのですけれどね。
私と殿下の楽しい学園生活を奪ったあの子……マーゴ様を憎んでも良いかしら?
と一瞬思いましたが、アレッサンドロ様にキスをされたので、くだらない考えは霧散しました。
ようやく幸せになれたのですから、過去の憎悪に囚われる必要はないでしょう。
それに、マーゴ様はちゃんと罰を受けました。
神殿に入ったあの子は四方を石壁に囲まれた部屋に閉じ籠っています。
明かりの無い部屋です。鏡や窓の硝子、水面などに映った自分を見ると、ストレゴーネだと叫んで怯えるからです。アレッサンドロ様を惑わした罪でどんな罰を受けて処刑されるよりも、辛い状況にいるのです。
護衛騎士達が報告は上げていたものの、積極的にアレッサンドロ様とマーゴ様が近づくのを邪魔しなかったのは、あの子がストレゴーネに似ていたからです。
彼女の再来ではないか、そうでなくても同じ魅了の力を持っているのではないかと怯えていたからです。
ストレゴーネの家族や友人の悍ましい現状があるので、護衛騎士達の恐怖は仕方がないものと認められました。再婚約破棄に陥るまでの時間が一ヶ月弱と短かったのもあります。水面下で対策自体は進められていたのですよ。
恐ろしいストレゴーネの振りをした愚かなマーゴ様は、彼女に憑りつかれてしまったのかもしれません。
私まで憎んでしまったら可哀相です。
あの子を哀れみながら、私は愛しい夫と寝室へ向かったのでした。
<終>




