愛の始まりは【化生】
怯えて泣いている彼の姿を見たとき、胸がときめくのを感じました。
彼を守りたいと思いました。怯える彼を癒したいと思ったのです。
今にして思えば、それが私の愛の始まりだったのでしょう。
★ ★ ★ ★ ★
女中の掃除はもう終わっている。
王都伯爵邸の夫婦寝室に、これから入るのはジェラルディンヌただひとり。
夫のギョームは伯爵家が運営する商会で溜まった業務を片付けると告げていた。今夜は戻らないと伝えてある。
ギョームは自身が夫婦寝台の天蓋を支える柱にした仕掛けを確認し、満足して笑みを浮かべた。
ジェラルディンヌがひとりで寝台に横たわったら、その振動で切り目を入れた柱が折れて重い天蓋が落ちてくる。
仕掛けをした柱は天蓋に潰されてボロボロになって、切り目はわからなくなるはずだ。
実家の侯爵家に代々伝わる天蓋付き寝台を、わざわざ嫁入り道具として持ってきたジェラルディンヌである。
先祖の聖女が使っていたものに殺されるのなら本望だろう。
不貞を働いている夫特有の身勝手な考えに浸りながら、ギョームは伯爵邸を出た。商会へ行きはして、一晩中いたことにしろと夜警に命じてから、べつのところへ移動する。
ギョームは商会近くの平民街に女を囲っていた。
紫色の瞳に銀色の髪を持つ美しい女である。
高い身分と豊富な持参金、聖女の血筋だけが自慢の地味なジェラルディンヌとは比べものにならない派手で妖艶なモーヴェと出会ってから、ギョームは彼女に夢中だった。
平民街の家でモーヴェとしばし戯れて、気がつくと窓の外では月が輝き始めていた。
ギョームはモーヴェから離れて、時計の針を確認する。
伯爵家が運営する商会の業務は当主のギョームだけでなく、夫人のジェラルディンヌも携わってくれている。しかし今日は、ギョームが商会に泊りがけで片付けるから、ジェラルディンヌは早く寝るように、と言っていた。だから、妻はいつもより早く眠るはずだ。
かちり、と時計の針が動いた途端、ギョームはそれを感じた。モーヴェに会うとき、いつも感じていた重荷──ジェラルディンヌに対する罪悪感かもしれないなにかが、消え去るのを。
(ジェラルディンヌが死んだんだな。もしかしたら俺の罪悪感ではなくて、聖女の血を引くジェラルディンヌが俺にまじないをかけていたのかもしれないぞ)
幼いころに婚約したジェラルディンヌは、ギョームに対して過保護だった。
ギョームが繊細な子どもだったからもあるだろう。
なにかで大泣きして、一緒にいたジェラルディンヌに慰めてもらった記憶がある。けれど、それはあくまで子どもだったときのことだ。いつまでもジェラルディンヌの可愛いギョームではいられない。
(あれは……確か王都の貴族街で家が近く親も友人同士だった子ども達が、保護者と一緒に王都近くの森へ遊びに行ったときだったな)
ずっと忘れていた大泣きの原因を、ギョームはなぜかいきなり思い出した。
(子どものときの俺は足が遅かったから、森の中でほかの子ども達に置いていかれて、水辺へ迷い込んでしまったんだ。そこには……)
巨大な銀色の蛇がいた。成人男性を飲み込めるほど大きな蛇だ。
どうしてはっきりわかるかと言うと、ギョームがそれを見たからだ。
成人男性を飲み込む巨大な銀色の蛇を。最初は木々の向こうに銀の煌めきが見えて、銀髪をなびかせただれかがいるのかと思った。それで迷子は助けを求めて踏み込んだのだ。
(赤い、赤い、血のように赤い……)
その赤い目がギョームを映した。
恐怖で大泣きしながら森を駆けるギョームを助けに来てくれたのは、やはり子どもだったころのジェラルディンヌだった。
幼いころの女の子は、同じ年ごろの男の子よりも発育が良い。ギョームはジェラルディンヌに背負われて、保護者とほかの子ども達のところへ泣きながら戻ったのだ。
ギョームの話を聞いて、保護者は笑った。
そんなことがあるはずがない、成人男性を飲み込むほどに大きな蛇などいるわけがないと。
聖女の血を引くジェラルディンヌが、ギョームは嘘をついたりしない、と言ってくれたので、大人達は後日その森を調べてくれた。水辺は見つかったものの、蛇も人間の痕跡も見つからなかったと聞いている。もっともあのときの成人男性は飲み込まれるところだったのだから、彼の痕跡があるはずはない。
視線を感じて、ギョームは背筋に冷たいものを感じた。だが、すぐに気づく。
(モーヴェか。俺が突然彼女を放って時計を見つめ出したから、どうしたのかと怪訝に思っているんだろう)
「すまない、モーヴェ」
ギョームは時計から離した瞳に愛しいモーヴェを映した。
窓から差し込む月光を浴びて鱗のように煌めく長い銀髪が、彼女の白い裸体に絡みついていた。
紫色の瞳が、普段とは違って見える。赤みが強いのだ。いや、赤みの強い紫色と言うよりも赤そのものに見えた。
(赤い、赤い、血のように赤い……)
モーヴェが唇を開いた。
唇も口腔も先がふたつに分かれた長い舌も赤い。血のように赤い。
その口は成人男性をも飲み込めそうなほどに大きく見えた。
★ ★ ★ ★ ★
聖女の血筋に生まれたおかげでしょうか、そのときの私にはギョーム様が嘘を言っていないとわかったのです。
彼が本当に成人男性をも飲み込むほどの巨大な銀の蛇……化生のものと出会ったのだと確信していたのです。
いつもは姿を隠しているはずの化生のものと出会うのは導かれたということ、彼が魅入られたのだと感じていたのです。
幸い大人達は、私の言葉を信じて森を調べてくれました。
それまでだれも存在を知らなかった水辺こそ見つかったものの、そこにはなんの痕跡も残っていませんでした。
でもなにも終わってはいないのだと私は知っていました。
聖女の血筋に生まれたといっても、私は聖女ではありません。それでもご先祖様が残してくださった資料を漁り、出来るだけのことをしてギョーム様を守護してきたつもりです。
その代償が──私は切れ目を入れられた柱を見つめました。
寝台を覆う天蓋を支えるための柱です。
聖女だったご先祖様が使っていらした寝台の天蓋は重く、落ちてきたら下で寝ている私も細工をされた柱も押し潰されていたでしょう。
私が実家の侯爵家から無理を言ってこの天蓋付き寝台を持ってきたのは、寝台に残る聖女様のお力がギョーム様を守ってくださることを期待したからでした。
ほかの子ども達の前で大泣きしたことを恥ずかしく思う反動か、成長に従ってギョーム様は荒々しく振る舞うようになっていきました。
乱暴な口調になり、婚約者の私にも冷たくなさるようになったのです。
でも私は彼を愛していました。
むしろ荒々しく振る舞うことさえも彼の傷痕なのだと感じ、これまで以上に尽くして癒そうとしました。
とはいえ結婚して、聖女様の天蓋付き寝台で共寝するようになったことで油断してしまったのでしょう。彼は妾を囲うようになりました。
(それでも、私は……)
彼が愛しい、彼を守りたい、そう思っていた心は、明らかな殺意を帯びた柱への細工を見て消え去ってしまいました。
私がしてきたつもりの守護も、今この瞬間に消え去ってしまったことでしょう。
化生のものに捕まってしまえば良い、とまでは思いません。だけど、もう私がギョーム様を守ることはありません。
ギョーム様が帰ってきたら離縁を申し出ましょう、そう思いながら客室で眠った私ですが、翌朝になっても彼は戻って来ませんでした。
本人が言っていたように商会で泊りがけの業務をしていたのではなかったのです。
伯爵家が運営する商会近くの平民街で囲っていたはずの妾の存在も、彼女の家も見つかりませんでした。
彼は痕跡ひとつ残さずに消え失せてしまったのです。柱の細工を見た瞬間に消え失せた、私のギョーム様への愛と同じように──あの日彼が見た蛇に飲み込まれようとしていた成人男性のように。
<終>




