彼女は彼の名前を呼ばない。【戦利品】
「モゼー様、モゼー様ぁ!」
私はこの王国の貴族子女が通う学園の裏庭で、婚約者のモゼー様を探していました。
学園の敷地内にあるものの、ここにはあまり足を踏み入れないようにと言われています。
ここは沼を埋め立てた土地なのです。
今は草木に覆われていますが、ムッとするような湿気を感じます。
埋め立てられて草地のように見えていても、地下のぬかるんだ泥が力を増して足を奪うことがあるのです。
ここへ入り込む人間は、禁断の関係に溺れる恋人達だと言われています。
私の婚約者モゼー様は、とても麗しい青年です。
地味な私にご不満なようですけれど、それでも婚約は解消せず、夜会やお茶会にも付き合ってくださいます。
学園に入ってから女性に取り囲まれていたのだって、最近は少なくなりました。
だけど、だからこそ心配なのです。
だれにも秘密にするくらい本気の恋をなさっているのではないかと。
いいえ、それならまだ良いのです。モゼー様の幸せのためなら身を引きます。でも、もし、もし彼が──
「モゼー様っ!」
「ヴィルジニア様」
「あ」
私の名前を呼んだのは友達のご令嬢でした。
「もう昼休みが終わってしまうわ。一緒に教室へ戻りましょう」
「迎えに来てくださってありがとうございます」
私は最後に裏庭を見回しました。
モゼー様の姿はありません。
足元で揺れる草が木々の陰で闇に包まれていて、なんだか沼の水面のように見えました。
★ ★ ★ ★ ★
「……行かなくて良かったの?」
隣にいる女性に言われて、モゼーは首肯した。
「いいよ。俺は結構優秀なんだ。午後の授業を何回かすっぽかしても成績にも卒業にも問題ない」
「悪い人ねえ。アタシがそんな話をしてるんじゃないってわかってるくせに」
学園に入学したモゼーの美貌目当てで近寄って来た女性の多くは、モゼーがヴィルジニアの家へ婿入りしなければ、なんの財産も持てない次男坊だと知って姿を消した。
モゼーは自分の美貌がわかっているし、ヴィルジニアの家に文句を言われないためのギリギリの境界線もわかっている。
ヴィルジニアの家からの支援で女性達に贈り物をしたりはしていない。
それでもモゼーの美貌に魅せられた数人が、今も彼と秘密の関係を続けている。
学園の裏庭は良い密会場所だった。
卒業すれば終わりの関係だと、モゼーも相手もわかっている。少なくともモゼーは相手も納得していると考えていた。
そもそもモゼーはヴィルジニアを嫌ってはいない。
本人に地味だと言うのは事実だからだ。
しかし、それを不満に思っているわけではない。ときどき猫のようにぼーっとして、なにもない空間を見つめているのはよろしくないと感じているが。
地味だけれどモゼーには好ましい慎ましさなのだ。
唯一不満なのはヴィルジニアの声が小さくて、あまりしゃべらないことだ。とても可愛い綺麗な声をしているのに。
だからモゼーは昔から、隠れることでヴィルジニアに名前を呼ばれるのを楽しんでいた。
「うふふ」
笑いながらキスを落としてきた女性に、ふと思う。
そう言えば、彼女に名前を呼ばれたことはないな、と。
だが深く考えるようなことでもない。どうせ卒業したら別れるのだ。妻となったヴィルジニアが自分にだけ聞かせてくれるであろう声を妄想しながら、モゼーは女性の背中に腕を回した。自分も彼女の名前を呼んだことがないことは、このときはまだ思い出さなかった。
★ ★ ★ ★ ★
モゼー様は、あのまま教室へは戻られませんでした。
教室にだけではありません。
あれっきりご自宅にもお帰りではないのです。
私の両親やモゼー様のご家族は、学園入学直後の乱行が彼の本質だったと考えています。
おとなしくしているように見えていた間も、裏ではだれかと秘密の関係を結んでいて、そのだれかと駆け落ちするか遊び暮らすために家出したのだろうと言うのです。
私との婚約も白紙撤回されました。
そのこと自体に不満はありません。
私はモゼー様を愛していましたが、モゼー様にほかの愛する女性がいらしたら、お互いに不幸な結婚生活を送ることになったでしょうから。
彼を愛しているからこそ、幸せになって欲しいのです。
学園の生徒の中に、モゼー様と一緒に行方不明になった方はいらっしゃいません。
もしかしたら卒業後に落ち合う約束なのかもしれません。
モゼー様は一足先に貴族社会から離れて、だれかのために生活基盤を築いてらっしゃるのでしょう。それほどお相手の方を愛していたのでしょう。
「ヴィルジニア嬢」
「パオロ様」
パオロ様は私の新しい婚約者です。
跡取り娘である以上、いなくなった元婚約者のことをいつまでも思い続けてはいられなかったのです。
彼はモゼー様が消えてから今日の卒業式までの間、ずっと私に寄り添って支え続けてくれました。私は彼を……好き、なのだと思います。
「ヴィルジニア、こんな日までここに……あら、パオロもいたの」
パオロ様は実は私の親友の弟なのです。
家の跡取りにはおふたりのお兄様がいらっしゃるので、パオロ様は学園で学んで文官を目指す予定でした。
彼が身に着けた学問は、貴族家当主の配偶者としても必要なものです。
「お邪魔だったー?」
「ニヤニヤしないでよ、姉さんっ!……ヴィルジニア嬢、その、すぐに彼を忘れて僕を好きになってくださいとは言いません。でもこの場所は危ないし、もう卒業式も終わったのだから帰りませんか? あの、送って行きます」
「お姉ちゃんは置いてきぼりなの?」
「もうっ! 姉さんはもうっ!」
仲の良いご姉弟です。私も思わず笑顔になってしまいました。
「おふたりとも我が家へいらっしゃいませんか? 今日は式だけで早く終わったので、夜のパーティまでは時間がありますもの。私とお茶をしてくださると嬉しいです」
「ねえパオロ、お姉ちゃん行っても良い?」
「ヴィルジニア嬢が誘ってくれたんだから良いに決まってるだろ! あー……子どもっぽいところ見せて、ごめんなさい」
「いいえ、お元気なのがパオロ様の良いところですわ」
彼が卒業するまでまだ一年あります。一緒に過ごせない時間があることが、少し残念に思うくらい、彼は素敵な男性でした。
私達三人は裏庭を出ました。
私は、ずっとここが怖かったのです。なにか嫌な気持ちになったのです。
だからこそ、モゼー様がここへ入ることを止めたかったのです。でもそれは結局、嫉妬だったのかもしれません。
──さようなら、モゼー様。
★ ★ ★ ★ ★
埋め立てられたはずの沼は、今も裏庭の地下にある。
沼の底には男達の骸があった。
彼女の宝物だ。
腐りかけた骸も骨と化した骸も等しく愛しい。
愛しいけれど、彼女は恋人として彼らを愛しているのではなかった。
彼らは宝物。彼女の魅力で勝ち取った戦利品なのだ。
だから彼女が彼らの名前を呼ぶことはない。
彼女は自分がなになのかを知らない。興味もない。
魅入られた男以外は、彼女の存在に気づくこともない。
彼女が男に弄ばれて沼に身を投げた女性の末路なのか、最初から沼に巣食っていたなにかなのか、だれも知らないわからない。
それでも彼女は今日も学園の裏庭で獲物を待つ。
大切な戦利品を眺めて微笑む。
彼女はモゼーの名前を呼ばない。
そして、新しい婚約者の出来たヴィルジニアもモゼーの名前を呼ばない。
彼の名前はもう二度とだれにも呼ばれることはないのだ。
<終>




