夫の花嫁【錯誤】
私という妻がありながら夫は花嫁を迎えたのです。
花嫁の名前はマジーア様。
夫ジャコッペの幼馴染です。
彼女は夫の親友ロレンツォ様の奥方でした。
ロレンツォ様は自宅を襲った強盗に殺されて、お亡くなりになったのです。
彼もまた夫の幼馴染でした。
おそらく夫は昔からマジーア様を好きだったのです。
だけど恋の勝負でロレンツォ様に負けて、それで仕方なく私と結婚したのでしょう。
私の兄エウジェニオは王都の衛兵隊長で夫とロレンツォ様の上司です。上司に妹を頼まれて、どうしても断れなかったのかもしれません。
私は夫ジャコッペを愛していました。
夫はいつも優しくて、正義感に富んだ素晴らしい殿方でした。
部下として兄を訪ねてくるときの彼は、マジーア様を同行したりはしていませんでしたもの。ロレンツォ様だって、結婚の報告のときに一度連れてきただけです。
ロレンツォ様を喪った傷心のマジーア様を我が家に迎えると言われた時点で、私は反対いたしました。
マジーア様の実家は王都にあるのですよ? そちらに帰れば良いではありませんか。
いくら夫が優しくても、いくらふたりが幼馴染でも、亡きロレンツォ様の大切な思い出を語れるのがお互いだけしかいないとしても、そこまですることはないでしょう?
夫は私の言葉など聞いてくれませんでした。
結婚して一年ほど過ぎたころでした。そろそろ子どものことも考えようかと話し合っていました。
そんなときに夫は、マジーア様を我が家へ連れ込んで離れに住まわせたのです。
夫は毎日離れに通いました。
どんなにお誘いしてもマジーア様が本館へ来ることはありませんでした。
ロレンツォ様を喪った心の傷が深いから、同じ想いを持ったジャコッペ以外の人とは顔を合わせたくないと言うのです。
日に日に私の心がすり減っていって、ついには町で偶然会った兄に案じられて、別居したほうが良いのではないかという話が出て、初めて夫はマジーア様との関係を見直しました。
そして彼女に実家へ戻ることを勧めたのです。
マジーア様もそれを受け入れ、悲しみに沈んでいたとはいえ少し図々しかったと私に謝罪して実家へお帰りになったのです。……少し?
彼女がいなくなって、私はどんなに喜んだことでしょう!
だけど……ああ、だけど!
マジーア様は花嫁衣装を纏って、我が家へ戻ってきたのです!
毎日離れへ通っていた夫が、今日はいません。
数年前から噂になっていた画家の捕縛計画があるからです。
その画家は肖像画を描くために入った貴族家の見取り図を作って、犯罪組織に売っていたのです。多くの貴族家が被害を受けていました。捕縛計画の陣頭指揮を執るのは私の兄であり衛兵隊長でもあるエウジェニオです。
だから、私は磨いた短剣を手にして離れへ忍び込みました。
夫がいるときは入れてもらえなかったのです。
花嫁衣装を纏ったマジーア様は暖炉の上で微笑んでいました。夫は私に隠していたつもりでしょうが、彼が彼女を離れへ運び込むときに目撃していたのです。
私は短剣を振りかぶり、マジーア様を切り裂きました。
切り裂くだけでは溜飲が下がらなくて、暖炉に火を入れて彼女の残骸を放り込みました。
上がった煙が私を包みます。妙な臭いがします。絵の具の焼ける臭いでしょうか。
なんだか頭がくらくらします。
真夜中に寝床を抜け出して離れへ向かう夫に起こされて、毎晩寝不足だったからでしょうか。起こされた後は朝まで眠れなくて、枕を涙で濡らし続けていたからでしょうか。
彼が寝床を抜け出していることに気づかない振りを続けるのが苦しかったからでしょうか。
煙の中で笑うマジーア様の姿が見えたような気がしました。
こんなことまでしたのに私は彼女に勝てなかったのでしょうか。
ええ、そうです。夫が彼女を選んだのですから、私は最初から負けていたのです。嫌な臭いのする煙に巻かれて、私は意識を手放しました。
★ ★ ★ ★ ★
「エレナに会わせてください。彼女は俺の妻です」
部下のジャコッペに言われて、衛兵隊長のエウジェニオは首を横に振った。
ここはエウジェニオの家だ。
いつもなら訪ねてきた部下は約束が無くても家に入れて歓待している。しかし今日のエウジェニオは、前庭でジャコッペを留めていた。
「もう離縁は成立している。妹の体調は回復したが、君の妻には戻れない」
捕縛するために画家の家に踏み込んだ衛兵隊は、内縁の妻よろしく彼の世話を焼いていたマジーアと出くわした。
彼女の本命は、ずっと昔からその画家だったのだ。
裕福な商家の出だったロレンツォは金蔓に過ぎなかった。結婚して、金遣いが荒いと注意されて思うように財布を握れなくなったので、強盗の仕業に見せかけて彼を殺したのだ。この犯行は犯罪組織に見取り図を売ったのではなく、マジーアが手引きして画家が実行した。
画家が、逞しい衛兵ロレンツォを殺せたのは絵の具を使ったからだ。
もとより絵の具には毒性の強いものがある。
その上画家は絵の具に幻覚剤や睡眠薬を混ぜていた。そうすることで禁制の薬を密輸して暴利を貪っていたのだ。それに見取り図を売るときにその貴族家の肖像画で使った絵の具に含まれる薬剤を教え、なにかあったら利用するよう犯罪組織に指示していた。
ロレンツォは実直な男だった。
結婚前は実家の金を使うこともあったが、結婚後は衛兵としての自分の給料で生活を賄っていた。
そのせいでロレンツォを殺してもマジーアが期待していたほどの遺産は手に入らなかった。
──マジーアはお人好しの幼馴染ジャコッペに目をつけた。
彼らを尋問中にその計画を知り、エウジェニオ達がジャコッペの家へ駆けつけたとき、エレナはマジーアの肖像画を燃やし、絵の具に含まれていた幻覚剤で朦朧としていた。
自分を嘲笑うマジーアの幻影を見て泣いていた。
絵の具に混ぜて密輸しなくては手に入らないほどの禁制の薬だったのだから、体に良いもののわけがない。応急処置をしてもエレナの意識は戻らず、彼女は兄によって実家へ戻された。そして、先日彼女が意識を取り戻した後、兄と実家の両親が代理人となって夫ジャコッペとの離縁が成立されたのだ。
「俺はエレナを愛しているんです。マジーアはただの幼馴染です。俺は騙されていたんです! 最初に迎え入れたのはロレンツォの思い出話をしたいと言われたからで、花嫁衣裳のマジーアの肖像画に魅入られていたのは幻覚剤のせいです」
マジーアは自分の肖像画を暖炉の上に飾って欲しいと告げていた。
いつか彼女とその情夫である画家がジャコッペの家を襲撃したときに、暖炉の熱で溶け出した幻覚剤を吸い続けた彼が筋力を失って弱っていることを期待したからだ。
肖像画の絵の具に含まれていた幻覚剤は中毒性もある、いわゆる麻薬の一種だった。
花嫁衣装だったのはエレナへの嫌がらせである。
マジーア自身が離れに居座っていたほうが襲撃が簡単だったのに、エレナの言葉で追い出されることになったのを恨んでのことだ。
もちろん逆恨みである。犯罪者とはそういうものだ。
エウジェニオは溜息をついて、冷たく部下を見つめた。
「あの女の実家は王都内にある。実家へ戻して、ロレンツォの話をしに通えば良かったじゃないか」
マジーアが実家へ戻らなかったのは、家族が画家の存在に気づいていたからである。
妙な相手との付き合いはやめろと、うるさく言われるのが嫌だったのだろう。
その点ジャコッペの相手は彼女にとって楽なものだった。画家の存在に気づいていないし、ロレンツォを喪って悲しいと泣き真似さえすれば、愛しているはずの妻よりもマジーアを優先してくれるのだから。
「……」
「ジャコッペ。君は優しい。優しいが、その優しさは間違っていた。相手の言うなりになることが優しさではないし、だれに優しくするべきかも間違えていた。……エレナは君を愛していたよ。愛していたから耐えられなかったんだ。あの子は幻覚剤の副作用で君のことを忘れている。いや、死んだと思い込んでいる。だから私と両親が代理で離縁の手続きをしたんだ」
「……エレナが、俺を忘れて……? だ、だったらもう一度出会えばいい! もう一度会えばエレナは俺を愛してくれます! 俺だって、もう二度とエレナを苦しめたりしませんっ! だれよりも彼女を愛しているんだっ!」
「妹が君が死んだと思い込んだのは、君を想うと苦しくなるからだ。無意識に自衛しているんだよ。……一度摂取しただけでも生涯幻覚剤の副作用に苦しめられることがある。本当にエレナのことを愛しているというのなら、君もあの子を忘れてやってくれ」
「……っ」
地面に膝をつき、ジャコッペは咽び泣いた。
彼は嘘を言っていない。
彼が本当に愛しているのはエレナだった。
けれどエウジェニオも嘘は言っていない。
ジャコッペの優しさは間違っていた。
だから、すべてを失ってしまったのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「お兄様、あの方どうしたの? 衛兵隊の制服を着ていたから部下の方ではないの?」
ジャコッペを帰らせたエウジェニオが家に入ると、エレナに尋ねられた。
窓からふたりの様子を見ていたらしい。
妹の状態を案じながら、エウジェニオは少し踏み込んでみた。
「彼はジャコッペだ。奥方を亡くして悲しんでいたんだよ」
「まあ! 私の夫と同じお名前なのですね」
エレナは自分の夫がジャコッペという名前だったことは覚えている。
彼と結婚したことも。
ただもう夫は死んでいて、それで自分は実家に戻ってきたのだと思い込んでいるだけだ。ジャコッペについての詳細を聞き出そうとすると、瞳が虚ろになって痙攣し始めるので、家族はもう記憶を取り戻すことは諦めている。
「……でも」
「でも?」
「あの方はきっとすぐに奥様のことを忘れて幸せになられますわ。私、あの方の隣に花嫁衣装を着て微笑む女性の姿が見えたような気がするんですの」
「そうか……」
「私も早く夫のことを忘れて、だれか良い方を見つけなくてはいけませんね」
「……そうだな」
エウジェニオはそこで、この話を切り上げた。
エレナはもうすぐ母方の実家がある田舎へ引っ越すことが決まっている。
そこで妹が新しい幸せを見つけられるように、二度と苦しい記憶を蘇らせることがないように、彼は願った。
<終>




