第97話 宇治のお姫様
碓氷雅樹と永野梓美は、依頼者の荻野春子へ暫くすれば沈静化すると伝えた。不登校になった2人にも、もう二度とピアノは鳴らないと連絡した。
噂に関する問題は、妖異対策課へと報告して終了。あまり酷くなるようなら、妖異対策課大阪支部が介入するだろう。
人間に大きな被害が出る事もなく、妖異に対する大きな影響もない。後は支配者のカスミに、報告だけして終了した。
「せや、ちょっと寄り道してエエ?」
茶髪をポニーテールにした梓美は、雅樹に向かって尋ねる。紺色のキャミソールと赤いスカートから、真っ白い肌が露出している。
相変わらず目のやり場に困ると思いつつも、雅樹は梓美の提案を受け入れる。どうやら京都の宇治市に行きたいらしい。
「せっかく南の方へ来たんやから、抹茶パフェでも食べて帰ろうや」
「なるほど。そう言えば俺、宇治の抹茶は初めてです」
京都へ移り住んだ雅樹だったが、まだ京都市内すら行っていない所が多々ある。宇治市なんて行った事すらない。
宇治抹茶と言えば、外国人からも人気の有名な抹茶だ。それだけを目的に、他府県から訪れる人も大勢居る。
今ではインターネット通販もあるとは言え、やはり現地でと考える人はまだまだ多い。ここ数年は観光客が増加傾向にある。
観光客へ向けた新しいメニューも様々で、パフェやクッキー等の定番だけではない。海外の菓子メーカーとのコラボ等も行われている。
「そっか! ほんならオススメの所に連れてってあげるわ」
地下鉄を降りた梓美は雅樹の手を取って、大阪梅田の地下街を歩いて行く。雅樹が見た事もない程に、沢山の人々が歩いている。
正直土地勘が全くないのもあり、雅樹は手を引いて貰えて助かっている。だが梓美のような美少女と、手を繋ぐのは照れ臭い。
しかも自分の事を旦那にすると、公言している相手だ。好意をストレートにぶつけられて、今もまだ困惑している。
どこまで本気なのか、本当に自分と子供を作る気なのか。雅樹にはどうにも分からない。何より相手は、人間じゃない。
梓美は雪女であり、妖異として生きて来た女性だ。異種族である自分を、心から好きになってくれているのだろうか。
聞きたい気もするし、聞いてしまえば何かが終わりそうで。どうしても踏み込んだ事は聞けずに居た。中途半端な状態が続いている。
「ちょっと、雅樹君聞いてた? 宇治に着いたら気ぃつけてや?」
「え? あっ、はい」
悩んでいた雅樹は、あまり話を聞いていなかった。とりあえず返事だけはしたが、何をどう気をつけるのか分かっていない。
梓美に連れられるまま、雅樹は移動していく。電車を乗り継いで京都へ戻り、宇治市へと到着した。初めての光景が、目の前に広がっている。
宇治川がすぐそこを流れており、大勢の観光客が歩いている。観光名所である宇治橋の上を、観光バスが走っていた。
ほぼお上りさんと化した雅樹は、視界に入る物が全て新鮮に映る。田舎暮らしの彼には、壮大な光景に見えている。
梓美の気遣いで、少しの間だけ宇治川を眺めていた雅樹。だがずっとこうしているのは時間が勿体ない。先ずは梓美がオススメするカフェへ向かう。
宇治川からそう離れていない個人経営のカフェは、既にかなりの列が出来ている。暫く待つしか無さそうだ。
「ちょっとどれぐらい掛かるか、聞いて来るわ」
「分かりました」
雅樹は列に並んだまま、梓美の背中を見送った。すぐに戻って来るだろうと思い、スマートフォンを軽く確認する雅樹。
幼馴染達からSNSを通じてメッセージが来ており、返信しようと操作をする。そんな時だった、雅樹へと誰かが声を掛けて来たのは。
「そこの殿方、少しよろしいでしょうか?」
「……え、俺ですか?」
雅樹が頭を上げると、そこには美しい女性が居た。年齢は20代前半ぐらいだろうか。花柄の和服を着た小柄な体格。
丸みのある女性らしい輪郭と、肩ぐらいまである黒よりも紺色寄りの髪。真っ白い肌は、日焼けとは無縁だ。
ほっそりとした腕が、袖口からチラリと見えている。薄く化粧が施されており、物腰から清楚な印象を受ける。
先程まで雅樹の側に居た、梓美とは真逆を行くタイプの女性だった。微笑みを浮かべながら、彼女は雅樹を見つめている。
一体何の用があるのだろうと、雅樹は疑問を覚えた。全く知らない女性だし、観光客らしい雰囲気もない。
道を尋ねたいのだろうか。今日初めて宇治へ来たばかりの、自分に聞かれても困るなぁと雅樹は思っている。
「お名前を教えて頂けませんか?」
「? えっと……碓氷雅樹、ですけど……」
何故名前を聞かれたのだろうかと、雅樹は不思議に思った。正直に答えるか、少し迷ってから答えた。別に名前ぐらいは構わないかと。
最近闇バイトだとか、色々とあるので不味いかとも一瞬思いはした。だけどこの女性から、怪しい雰囲気は感じなかった。
仮に何か悪い事に使われたとしても、頼れる相手は何人も居る。こうしている間にも、梓美が戻って来るだろう。
「まあ! 雅樹様とおっしゃいますのね」
女性は何故か、年下の筈の雅樹を様付けで呼んでいる。しかもどういう事か、とても嬉しそうだ。雅樹には意味が分からない。
「あのう、何の用ですか?」
理解出来ないリアクションを取る女性に対して、雅樹は疑問を投げかけた。何がしたいのか知りたくて。
困惑している雅樹の下へ、梓美が帰って来る。彼女の表情には、どうしてか焦りがあった。かなり慌てているらしい。
「もう! だから気ぃ付けてって言うたやんか!」
「梓美先輩? あの、どういう事です?」
ちゃんと話を聞いていなかった雅樹は、何を言われているのか分からない。一体何がいけなかったというのか。
呆れ気味で雅樹を見ている梓美は、デコピンを一発お見舞いした。何故怒られているのだろうと、雅樹は疑問符を浮かべている。
状況を把握出来ていない雅樹へ説明もせず、梓美は謎の女性と対峙する。どうやら梓美は少し怒っている様子だ。
「愛宕、狙うんやったら他の男にするんやな」
「あら梓美、邪魔をしないで貰えるかしら?」
愛宕と呼ばれた女性は、どうやら梓美の知り合いらしい。少なくとも、遠慮なく話せる相手だという事だけは、困惑している雅樹にも分かった。
親しい間柄かはともかくとして、何やら少し争っている。その様子を見て、雅樹は1つの可能性に思い至る。
もしかしてこの女性は、何らかの妖異なのではないだろうかと。だがそれよりも、少し目立ち過ぎている。
同じく列に並んでいた人々から、奇異の視線を向けられ始めた。今行われているのは、喧嘩なのではないのかと。
複数の視線が突き刺さり、雅樹としては少し居ずらい雰囲気だ。一旦雅樹は梓美と女性を連れて、この場から離れる事にした。
睨み合う梓美と愛宕という女性は、黙って雅樹の後を着いて行く。公園へ移動して、雅樹は説明を求める事に。
「とりあえずあの、どういう状況ですか?」
「どうも何も、コイツは妖異や。面食いで嫉妬深い女やねん。コイツは今、雅樹君を狙ってんのや」
雅樹の予想は当たっていた。更に詳しい説明を求めると、梓美が色々と答えてくれた。彼女の名前は一条愛宕。
本当の名前は橋姫と言い、この宇治川を拠点としている鬼である。彼女もまた、良源と似た伝説を持つ鬼である。
彼女の場合は人間の身でありながら、神へ頼んで鬼になったという伝承が残っている。だが実際は、元から鬼として生きていた妖異だ。
京都の支配者である大江イブキの配下として、昔からここ宇治の地で暮らしている。ただ面食いで嫉妬深いという伝承は真実である。
「私、一目見ただけで雅樹様が気に入りました。この方を夫として迎え入れます」
「はぁ!? 何言うてんねん! アンタに譲るわけないやろ!」
とりあえず凄く面倒な事になったという事だけは、雅樹にも理解出来た。そしてどうしてこうなったのかと、綺麗な青空を仰いだ。




