第86話 イブキの代行
大江イブキが不在の探偵事務所で、碓氷雅樹と永野梓美は夏休みを過ごしている。穏やかな月曜の朝だ。
キラキラと差し込む朝日が、応接用のテーブルに注がれている。雅樹はそろそろ仕事をしようと、掃除機を手にしようとした。
だが朝一番から来客があり、雅樹は対応する事になる。やって来たのは妖異対策課の京都支部室長、東坂香澄であった。
「お邪魔致します」
やや釣り目気味の、女性にしては高めの身長を持つ美女。肩まである黒髪は今日も艶やかな光を放っている。
イブキと似たクールな女性であり、大人の落ち着いた魅力がある。イブキ程ではないが、十分グラマラスな姿態。
雅樹が最初、妖異なのではないかと疑ったぐらいに完成された美の持ち主である。だが彼女は普通の人間だ。
香澄はただ美しいだけでなく、まだ20代後半でありながら、室長という重要なポストを任されているエリートでもある。
「えっと、どうされました? 今日イブキさんは居ませんよ」
雅樹はイブキに用があるのだと思い、不在である事を香澄に告げる。だが彼女が来たのは、不在を知っての上であった。
「分かっています。イブキ様には既に電話で連絡済みですから」
「え? じゃあ何故ここに?」
だったら何をしに来たのだろうと、雅樹は首を傾げている。肝心のイブキが居らず、電話で話したのであればここに用事は無い筈だと。
そんな雅樹の疑問は、すぐに解消される。香澄は少し待ってと言いながら、応接用のソファに寝転んでいた、梓美の側へと向かったから。
「梓美様、イブキ様から代行をするようにと伝言を預かりました」
「ウチが? 何をしたらエエん?」
寝転んでいた梓美は起き上がり、香澄から書類の入ったA4サイズの茶封筒を受け取った。
梓美は資料を取り出して、中身を読み込んで行く。一応聞いておくかと、雅樹も話し合いに参加を決める。
イブキの代行を梓美が行うのであれば、助手である自分も無関係ではないからと。そもそも書類を作るのは、雅樹の仕事だ。
また事件に関わろうとする雅樹を見て、香澄は渋い表情をしている。彼女は未だに雅樹を心配しているから。
16歳という若さで、普通の高校生が妖異と関わるのを良く思っていない。玉藻前である那須草子に、幾ら鍛えられたと言ってもだ。
香澄はその事実を知った時、思わず眩暈を覚えたぐらいだ。酒吞童子のイブキに保護され、玉藻前に鍛えられた少年。
妖刀があったとは言え、蛇女アカギの討伐にも貢献したとの報告を見て頭を抱えた。一体なんて少年なんだこの子はと。
プロである妖異対策課に所属する者でも、こんな経歴の持ち主は居ない。雅樹のこれからが、香澄にはあまりにも不安だった。
「碓氷君、また何かする気?」
「え? いや、話だけ聞いておこうかなって」
だって助手だしと、雅樹は当然のように捉えている。だからそういう所だと、香澄はツッコミを入れたかった。
普通なら雅樹のような人生を歩めば、妖異なんかと関わりたくない筈だから。死にそうな目に何度か遭っているのに。
イブキが居るから死なずに済んだ場面も、沢山あると香澄は判断している。だが雅樹は、ケロッとしているのだ。
この精神力を妖異対策課のメンバーに、少しで良いから分けて欲しいと香澄は思った。
「君の精神力だけは、妖異並みなんじゃないかと最近思っているわ」
「精神力? そうですかねぇ?」
言われている意味が、雅樹には分からなかった。既に雅樹は、踏み越えた側の人間だ。妖異を相手に反抗したのだから。
妖刀を使って、妖異を斬っている。殺される寸前まで、貧血状態で戦った。その経験がまた、雅樹を強くしていた。
普通の人間でしかない香澄には、雅樹が異質に見えて仕方ない。同じ人間なのに、違うのではないかと思わされる。
「……まあ良いわ。それでは梓美様、詳細な話を」
香澄は依頼の話を進めようとした。しかし梓美は、その前に確認しないといけない事が出来た。妙にフレンドリーな、香澄と雅樹の関係性についてだ。
「ちょう待ってや香澄ちゃん。まさかと思うけど、雅樹君を狙ってないやんな?」
「…………は? 一体、何の話でしょう?」
梓美が何を言っているのか、香澄は全く分からなかった。狙うも何もただ雅樹が、異様な精神力と実績を持っている事を危惧しただけだ。
この少年が将来どうなってしまうのだろうかと。ただそれだけであり、妖異対策課へスカウトするつもりなど無い。
そもそもイブキが囲っている人間を、どうこうしようなんて考えない。あまりにも大それた越権行為だから。だが梓美が気にしているのはそこではない。
「雅樹君はウチの旦那にするから、取ったらアカンで」
梓美の回答は、香澄の思っていた事と全然違っていた。狙うというのは、そっちの意味であったのかと。
「……取りませんよ。そういう目で見ていません」
何だコイツは、という目でなら見ているが。今も新たに知った情報が、あまりにも酷かったので香澄は雅樹を見ている。
お前は正気なのかと、今すぐにでも問いたい。雪女と結婚しようと考えるなんて、死ぬ気なのかと聞きたい。
下手をすれば子供だけ作って、男性は喰われてしまう事だってある。本来雪女とは、そういう妖異なのだから。
異種族の男性を喰らいながら、生きて行く雪女達。彼女達の犠牲になった男性は昔から多く居る。
梓美は穏便なタイプではあるが、狙った男性へは執拗に迫る面を持っている。旦那として生きるのは大変なのだ。
「いや、まだ決まったわけでは――」
「真っ直ぐ好きになってくれるって、言うてくれたやん」
急にラブコメ時空へ叩き込まれた香澄は、結構この少年は大物かも知れないと認識を改めた。
だが今はそれよりも、仕事の話をせねばならない。香澄は話の方向性を修正する為、話を中断しに掛かる。
「あのっ! 梓美様、仕事の話に戻って良いですか?」
いつまでも思春期男子の恋愛について、話し合っている場合ではない。後で好きなだけしてくれと、香澄は恋バナを終了させる。
「ああゴメンゴメン。で、何やっけ?」
軌道修正が出来たので、香澄は今回の依頼内容について話ていく。半年前程から起きている、とある高校での事件。
イジメを理由に自殺した少女を発端にして、呪いと思われる様々な怪奇現象が発生。現在は休校状態となっていた。
授業は全てオンラインで行われ、生徒の登校は一切無し。教職員も一部の者だけが学校に行っている。
妖異対策課が中心となって、原因の究明に向かったが成果は出ず。支配者に相談しても、放っておけの一点張り。
どうにもならない詰み状態となったので、京都支部へとこの案件が回された。要するにイブキへのヘルプを求めている。
「ふぅん……何や珍しいなぁ。学校全体で呪いなんて。人間が1人死んだぐらいで、そう簡単にこうなるかぁ?」
梓美は資料に目を通しながら、香澄の詳細な報告を聞く。現状分かっている範囲では、発端と起きている状況が乖離している。
死の多い場所でもないのに、1人の人間が飛び降り自殺をしたぐらいで幽霊は発生しない。呪いなんて全体に行き渡らない。
インターネットへ誹謗中傷を書き込んで、自ら呪いを受けに行った者達は兎も角。今では何もしていない生徒にまで、呪いの影響が出ている。
「だから不思議なのですよ。どうしてこうなっているのかが分からず……」
「幽霊……じゃあないですよね。状況的に考えて」
雅樹は知っている知識から、何が起きているのか予想してみる。だがこれと言って、正解らしい答えは見つからず。
香澄と同様に、分からないというのが分かっただけで終わる。こればかりは、雪女である梓美にも予測が出来ない。
「まあエエわ。ほんなら行って来るわ」
「よろしくお願いします」
梓美は依頼を承諾、雅樹を連れて現地へと向かう事が決まる。イブキが不在の状態で、2つめの依頼をこなす事になった。




