第83話 困った先輩
碓氷雅樹は夕食を食べた後、何となくSNSを見ていた。色んな事件が起きている中、どれが妖異の被害なのだろうとぼんやり考える。
異界の事件から数日経つが、大江イブキは未だに帰って来ない。まだまだ時間が掛かると連絡が来ていた。つまり今も、永野梓美と生活している。
どうにかして雅樹を篭絡しようと、あの手この手を使って誘惑をする。お陰で思春期男子としては大変だ。
学校が夏休みだから、梓美は殆ど毎日一緒に居る。可愛らしい見た目と、女性の魅力を惜しげなく晒している。
元からそうなのか、雅樹が居るからなのか。妙に薄着で肌の露出が多い格好を見せ付ける。
「雅樹君、先にお風呂入ってもうてエエ?」
「あ、はい。分かりました」
このまま薄着の梓美を見ているよりも、精神的に優しいからと雅樹は快諾する。梓美を意識をしないようにするだけでも大変だ。
無駄にネットニュースを見ていたのもそれが理由だ。どうにかして、視界から梓美を外す為。
梓美はオフだからか、長い髪を後頭部で纏めている。それが原因で、うなじが露出している。後ろ姿を見るだけでも危険。
魅力溢れる可愛らしい先輩が、無防備な姿を見せている。その姿は男子高校生にとって猛毒でしかない。
ただでさえ雪女だと自白してからは、ボディタッチが多くなっているというのに。着実に梓美は、女性として意識させようとしている。
「はぁ……普通なら喜べるんだろうけどさ……」
雅樹は自室から着替えを持って洗面所へ向かう。いちいちドキッとさせて来る先輩に悩みながら。
確かに高校生になったら学校で恋愛をして、一緒に女子と下校する。そんな未来に期待した事はある。
出来たら那須草子と経験したかったが、同年代ではないのだから仕方ないと思っていた。彼女の正体が玉藻前だと知る前の話だ。
トラブルもあって高校生活が雅樹の想定とは変わったが、それでも最近は学生らしい生活を送っていた。
特に梓美のお陰で、楽しい時間が増えていた。だが彼女は、人間では無かった。少し惹かれていた面もあったのに。
「無理矢理好きにさせられるってのはなぁ……何か違う気がする」
梓美の誘惑は、その殆どが性欲を掻き立てる形である事が多い。雪女だからそうなのか、梓美の個性なのかは雅樹にも分からない。
ただ明らかに女性という属性を武器に使い、雅樹へアピールを続けている。あまりにも刺激が強い。
女性として見た場合、とても魅力的だとは雅樹も思っている。だけど今のままでは、性欲が爆発するだけになってしまう。
梓美が好きというよりも、女性だったから惹かれたという形になってしまう。まるで女性なら誰でも良いみたいに。
そんな関係を雅樹は結びたくない。梓美はそれでも良いと思っていたとしても、雅樹の心情がそれを拒絶している。
「好きになる……か」
雅樹が最近悩んでいる事の1つ。恋とは何かという悩み。初恋こそ経験はしたが、あれは幼い憧れでもある。
草子という大人の女性が、物凄く魅力的に見えたから。でもそんなのは、父親を相手に結婚すると主張する少女と変わらない。
事実として雅樹は、5歳の時に草子と結婚をすると宣言した。草子はその約束を覚えており、契約だと判断しているが。
高校生になってある程度大人に近付き、恋愛や結婚というものが少しだけ分かった。では今の自分はどうなのだろうかと彼は悩む。
イブキに草子、そして梓美。魅力的だと思っている女性が、現状それだけ居る。誰が好きで誰が違うのか、雅樹は良く分からない。
「やっぱり先生? でも何か違う気もするし……」
憧れから来る好意は、今も雅樹の中に強く残っている。ただ姉のような存在だったという意味も大きい。
異性への恋愛なのか、それとも家族への親愛なのか。師への敬愛というパターンも考えられる。雅樹はどれも当てはまる気がしている。
頭を洗いながら、雅樹は自分の心と向き合っている。彼は恋愛について考えると、いつもイブキが頭をよぎる。
あの日出会った時から、一目惚れをしてしまったのだろうかと雅樹は悩む。何故か強く惹かれていると、自覚はあるから。
イブキが側に居ると、物凄く安心出来るという事実もある。近くに居て欲しいと、思っている。でもそれは恋心と呼べるのか。
「あ~もう! 分かんねぇ!」
シャワーで頭を流した雅樹は、纏まらない思考に少し苛立っている。自分の心が分からないと、頭を振るが意味はない。
「何が分からへんの?」
「梓美先輩が変な事ばっかり言う……か……ら……」
つい普段通り返答した雅樹だったが、今聞こえたらおかしい声を聞いた。ここは風呂場で、自分は入浴中なのだから。
錆びたブリキの人形みたいに、雅樹はゆっくりと背後を振り返る。そこに居たのは、バスタオルを体に巻いただけの梓美だ。
上半身を見る限り、明らかに服や下着を着ているとは思えない。いつも以上に強調された肌色成分が、雅樹の平常心を失わせる。
「な、何しているんですか!?」
「え~? だって、言うたやん。異界へ行く対価やって」
だからって何故そうなるのかと、雅樹は言い返したいが混乱していて上手く返せない。梓美はゆっくりと雅樹へと近付く。
どうなっているのか仕組みは分からないが、急激に梓美から花のような香りが漂って来た。
梓美に喰われる時、いつも漂う甘い匂い。恐らくは梓美の香りなのだろうと雅樹は思っている。
男性を刺激する為の、雪女が使う妖術なのか生態なのか。理由は分からないが、この香りが異様なまでに性欲を駆り立てる。
「だ、駄目ですって! 付き合ってもいないのに!」
「ほな今から付き合う? そんならエエの?」
梓美が雅樹を背後から抱き締める。女性らしい柔らかな感触が、彼の背中から強引に感じさせられる。
異性であると強く意識させられ、雅樹の脳内を肌から感じる感触で埋め尽くされる。抗えない欲望が膨らんでいく。
雅樹は必死でイブキや草子の顔を思い浮かべるが、状況が変わる事はなかった。どうやら以前に受けた妖術とは違うらしい。
そうではなく、梓美が雪女として身に着けた純粋な技術だ。男性をその気にさせる為の、手練手管の1つ。
強烈な刺激と共に、雅樹は本気で恐怖を感じた。捕食者としての一面が、隠す事なく発揮されている。
今から雅樹をモノにしようと、強者として振る舞っているのだ。蛇に睨まれた蛙の気分を雅樹は味わっている。
しかし同時に、女性として梓美を強く意識させられている。心の中が滅茶苦茶で、全然落ち着く事が出来ない。
溢れて爆発しそうな性欲と、梓美を恐れる獲物としての気持ち。全てが入り混じって、わけが分からなくなる雅樹。
「そ、そうじゃないです! こういうの、もう止めて下さい!」
「何がそんなに嫌なん? 雅樹君だって、男性なんやし嬉しいやろ?」
意味が分からないと、梓美は首を傾げている。大体の男性だったら、大喜びする行為なのにと。
特に雅樹ぐらいの年齢だったら、何も考えずに飛びついて来るのが普通だ。拒否する理由が梓美には分からない。
「梓美先輩を好きになるとしても、こんなやり方ではなりたくないです。だってこういう事をさせてくれるのなら、誰でも良いみたいじゃないですか。惚れるならちゃんと、真っ直ぐ先輩を好きになりたい」
いたずらに性欲を刺激するような形から、梓美を好きになってしまいたくない。下心ありきで、梓美に好意を抱きたくない。
雅樹が思う本音の部分を、包み隠さず打ち明けた。どうしても分かって欲しかったから。このままは嫌なんだと。
男を喰らう雪女だから、好きになるのは嫌だった。好きになるならば、永野梓美という女性を好きになりたい。それが雅樹の意思だった。
「ふぅん……やっぱエエなぁ雅樹君。今まで喰らって来た男達とはちゃうなぁ。でも、対価は貰っていくで」
雅樹の答えを聞いて、梓美は満足そうに笑っている。妖艶な笑みを浮かべながら、梓美は雅樹の感情をゆっくりと喰らった。
それとは別に、梓美はただキスを雅樹へ送ってから浴室を出て行った。雅樹はどうにか危機を乗り越えたらしい。




