第15話 認めたくない事
碓氷雅樹は対峙する。妖異と呼ばれる存在と。長い黒髪を垂らした女性の幽霊は、興味を惹かれた様に雅樹を見ている。
先程まで身に着けていた、御守りを外した事で雅樹を守る効果は消えた。
幽霊と化した女性は、まだ妖異としての経験が浅い。どうして雅樹が気になるのか、自分では分からない。
強い憎しみは残っているが、それとは別に雅樹が気になる。つい目で追ってしまう。
もし彼女が妖異として、十分な経験を積んでいればこうはならない。
ついさっきまで、濃密な妖力を纏っていた人間を相手だ。普通はどうにかしようと思わない。
本来から雅樹の行動は、無意味に終わる。しかしお互いが未熟だからこそ、成立してしまった囮役。
「そうだ、そんな奴放っておけ! 俺が喰いたいんだろ!」
やけになっている雅樹は、自分を囮にする事で妖異の邪魔をする。本来の目的を達成させない。
弱者である雅樹に出来る、精一杯の妨害行為。思い通りにはさせない。ただそれだけの思いで突き動かされた結果。
激しい感情が雅樹の中に生まれ、妖異から見れば堪らない存在へと変化していく。
殺したい相手すらも上回る、謎の魅力を彼女は感じている。触れてみたい、味わってみたい。
幽霊になって初めての欲望が、彼女の足を向けさせる。それと同時に、花山一正への拘束が解けた。
鈍い音と共に花山は落下し、今度は足首を痛めて呻いている。しかし彼女はもう、そんな事はどうでも良かった。
気になって、気になって、気になって仕方ない。見知らぬ少年から、目が離せない。
自分が何をしたいのか、低下した知能では考えが至らない。本能に従うまま、雅樹の方へと歩いていく。
「来いよ! 俺はここだ!」
雅樹は精一杯強がっているが、本当は恐怖を抱えている。怖くない筈がないのだ。
両親を喰らった餓鬼の姿が、目の前に居る妖異と重なる。近付いて来る不気味な姿が、どうしても被る。
だがしかし、以前とは違う事がある。それは大江イブキの存在だ。
イブキは雅樹を守ると約束している。そして今、病院内を探し回っているだろう。
ならここでこうして、大袈裟に騒いでいれば気付くかも知れない。
怒りと不満が爆発した状態でも、雅樹の冷静な部分がちゃんと働いている。
「どうした! 相手がオッサンじゃないと何も出来ないのか!」
幽霊の彼女は雅樹の発言を理解していない。ただ何となく、馬鹿にされたのは伝わった。
一気に距離を詰めた彼女は、念力の様な力で雅樹を拘束する。地面に無理矢理座らせる様な形で、雅樹は廊下の壁に追いやられた。
大の字で座らせた様な格好のまま、雅樹は体を固定されている。床に広げた足の間へ、女性の幽霊が入って行く。
雅樹を見下ろす様に、充血した目で観察している。何故惹かれるのか、何がそうさせるのか。
真っ白な死人の冷たい指が、雅樹の頬に触れる。何かを確かめる様に、ゆっくりと指を這わせる。
「うっ……」
悍ましい感覚に、雅樹は体を震わせる。頬を流れる冷や汗が、女性の指に当たった。
理由は分からないが、女性は雅樹の汗が気になった。何となく指についた汗を舐め取る。
その瞬間に彼女は、痺れる様な刺激を感じた。今までに食べた何よりも、美味しいと感じた。
熱に似た何かが、体中を駆け巡る。自分にはこれが必要だと、直感が訴えている。
今度は直接顔を近付け、雅樹の頬をベロリと舐めた。先程よりも更に強い熱を感じ、歓喜の声を上げて嗤う。
「ヒッ…………イヒヒヒヒヒヒ」
その姿を見て、雅樹はあの日を思い出す。餓鬼がニタニタと嗤っていたのと同じ反応だ。
嬉しくて仕方がないのだろう。雅樹が恐れを抱いている事が。恐怖という感情が、美味しくて堪らないのだ。
雅樹は同時にこうも思う、イブキはこんな下品な笑いを浮かべない。いつも妖艶な笑みを見せるだけ。
同じ妖異の反応なのに、どうしてこんなにも違うのだろうと。
「オ イ シ イ」
とても良い物を見つけたと、彼女は雅樹の頬を撫でる。自分のモノとして、持ち帰ろうと考えた。
もはや復讐よりも、雅樹の方に意識が行っている。そういう意味では、雅樹の反抗は成功したと言える。
そして何よりも、雅樹が狙った最高の結果に繋がった。雅樹には聴こえていた。とある鬼の規則正しい足音が。
「それは私の物なんだ、返して貰おうか」
「っ!?」
幽霊の女性が振り返ると、そこにはパンツスーツ姿の美女が居た。
腰まである黒髪のポニーテールと、神に選ばれし完璧な美を誇る鬼。
病院内にも関わらず、キセルから煙が上がっている。助けて貰ったのだから、今回は見なかった事にする雅樹。
「赤木涼子、1つ教えてやろう。私は自分の所有物を盗まれるのが大嫌いなんだ」
その言葉と共に、イブキは赤木涼子と呼ばれた幽霊に近付く。
「ギッ!?」
一瞬で振り抜かれたイブキの右足が、赤木の腰辺りに突き刺さり吹き飛ばす。
鬼の膂力は凄まじく、トラックに跳ね飛ばされたかの様に飛んで行く。
雅樹が吹き飛ばされた時とは比べ物にならず、砲弾の様に真っ直ぐ空中を突き進む。
最終的には院長室の扉へ激突し、張られた護符の効果で紫電が弾けた。
「それで、随分面白い事になっているね。君は自虐が好きなのかな?」
状況を見て大体察したイブキは、そのしなやかな指を解放された雅樹の顎に添えて問いかけた。
また興味深い展開になったなと、イブキは楽しそうに雅樹を見ている。自分からピンチを招き、強い感情を抱く彼を。
確かにイブキは命を守る約束はしたが、心まで守るとは言っていない。この様な状況は、それはそれで美味しい。
雅樹には色んな経験をしてもらい、様々な感情を持って欲しい。そうしてより味を深めていく事が望みだ。
「ち、違いますよ」
勢いでやってしまったとは言え、雅樹としても2度はやりたくない。
怖かったのは確かであり、不快感も半端ではない。冷たい指の感触は、暫く夢に見そうだ。
「さて赤木涼子、君の処遇を決めねばならないが……」
ツカツカと床に倒れた幽霊、赤木の元へと歩みよりながらイブキは説明を続ける。
「1人殺した程度で、とやかく言うつもりはないよ。ここは私の支配圏じゃないしね。良かったね、ここが京都だったら重罪だ」
赤木涼子は最近まで人間だった。妖異の掟など知らない。だから仕方ない、とはならないのが妖異達の世界。
知ろうが知るまいが、掟は掟。暗黙の了解は暗黙の了解なのだ。知りませんでしたは通らない。
そうでないと、好き勝手暴れる様な連中揃いだ。条件が緩いわりに、ペナルティを与えるのは早い。
「…………」
赤木涼子という人間だった頃の名を呼ばれ、赤木は過去を思い出した。自分の事はまだある程度覚えている。
そして自分がもう、人間ではない事も。死んで幽霊に変わった自分が、とても受け入れられない。
「ああ……ああっ……」
怒りに任せて1人の人間を殺した。見知らぬ少年を美味しいと思った。
化け物になった自分が、理解出来ない。化け物としての思考が、自分の中にあった事実。
そこを乗り越えられれば、妖異として第2の生を生きられる。しかし無理だと言うなら、心が壊れてしまうだけ。
「君は暗黙の了解を破った。ここの支配者から処分を受けるだろう。ここで私が見逃しても、その未来は変わらない。罰を受けて化け物として生きるか、今ここで心は人間のまま終わるか。君はどっちが良い? 赤木涼子」
イブキはへたり込んだ赤木の前に立ち、彼女の未来について選択を迫った。
妖異となった自分を受け入れて生きるのか、今人間として死ぬのかと。
元人間の妖異が、支配者に許可なく人間を殺した。それを許していては示しがつかない。
罰則は確実に受けるだろう。支配者のメンツを潰されたまま許しては、トップに立つ者として相応しくない。
人間同士が勝手に殺し合う事とはまた別の話だ。妖異のメンツとは関係ない。
妖異となった以上は、妖異のルールで生きなければならない。
どこの支配圏でやらかしたとしても、大半の地域でそう判断される。
だがそんなルール云々以前に、赤木は心が人間だった。化け物になど、なりたくは無かった。
「終わらせて、下さい……」
呆然とした表情で、赤木は今ここで死ぬ事を選んだ。今の自分を、少しでも早く終わらせたかった。
「分かったよ」
イブキが右手の人差し指を赤木に向けると、小さな青い炎が指先に灯った。
そのままゆっくりと赤木の方に向かい、一気に燃え上がった。イブキの鬼火が一瞬で赤木を燃やし尽くす。
熱いと思う時間すら与えぬままに、1人の魂は天に召されて行った。
「さて花山院長、これで依頼は完了だ。相応しいと思った報酬を、指定の口座に振り込むと良い。まあ君の未来は……それで変わる事は無いけどね」
痛みに苦しみながらも、一体何を見せられたのかと花山は思考していた。
しかしそんな彼を放置して、イブキは雅樹を助け起こして歩き始める。
「全て終わった。帰ろうかマサキ」
花山総合病院から、イブキの運転するSUVが出て行ったのはそのすぐ後だった。




