76.闇の伯爵の帰還
クララ脱獄の一報は、王宮内を駆け巡るかと思われたが、それより先に、フォール地方の砦が騎士団により完全制圧されたとの知らせが入り、王宮は喜びに沸き立った。
王家としても、脱獄に人々の関心が集まるのは避けたいところだろうから、今回の叛乱制圧の知らせは、願ったり叶ったりだったのだろう。
情報統制のおかげなのか、王宮での噂はフォール砦に関するものばかりになっているらしい。
「良かったわねえ、マリア!」
リリアが私を抱きしめた。
「本当に、デズモンド伯の働きには、目を見張るものがありましたね」
抱き合う私達の後ろから、穏やかな声で話しかけられ、私は慌てて頭を下げた。
「王妃殿下」
「そのように堅苦しい挨拶はなしでいいわ。今日は非公式にあなたを招待させてもらったのだから」
王妃様はにこにこして言った。
たしかに、いま私がいる場所は、公的な謁見の間ではなく、王妃殿下の私室の、さらに奥にある小さな控室だ。
今日、お兄様が一時的に王宮に転移し、砦制圧に関して詳細な報告をするということで、婚約者である私もわざわざ招待していただいたのである。
本当は、脱獄に協力してくれたリリアと王妃殿下に、感謝の気持ちを伝えたかったが、こうも侍女達がそばにいては、脱獄を話題にすることすらためらわれる。
王妃殿下は私の気持ちを知ってか知らずか、たいそう上機嫌な様子だった。
「砦でのデズモンド伯は、それはもう凄まじい戦いぶりだったと聞きました」
王妃殿下がにこやかに言うと、王妃殿下の侍女の一人もそれを受け、勢い込んで言った。
「ええ、誠に! デズモンド伯は鬼神のごとき勢いで敵を屠り、その恐ろしい黒い長剣が振るわれた後には、草木の一本も残らぬ有様であった、と、そうわたしも伺いましたわ!」
……それ、褒めてんのかな、と一瞬思ったけれど、お兄様の戦いぶりについては、私も何度か耳にしている。
制圧まであと数日はかかると見られていたのだが、お兄様率いる騎士団は、一斉攻撃をかけて叛乱勢力を押しまくり、力技でねじ伏せたらしい。
お兄様にしては大雑把なやり方だなーとは思ったが、向こうが闇の禁術などで反撃する隙を与えたくなかったのかもしれない。
しばらくして、お兄様が王宮に転移したという知らせが届けられ、王妃殿下が部屋を出て行った。
報告を終えたお兄様がこの控室に来てくれるということなので、私はしばし、リリアを始め、王妃殿下の侍女達とお茶を飲んでのんびりすることにしたのだが、
「聖女様、デズモンド伯は今度の働きで陞爵されるとうかがいましたけど、本当ですの?」
「あらでも、デズモンド伯はノースフォア侯爵をお継ぎになるのでしょ?」
「それでは褒賞は領地かしら」
「ノースフォア侯爵家は広大な領地をお持ちですもの、それよりは宝石等のほうが」
「それこそノースフォア侯爵家では、宝飾品など掃いて捨てるほどおありでしょうに」
……まったく口を挟む余地がない。
弾丸のように繰り出される発言に、私はただ、作り笑いを浮かべてその場をやり過ごした。
「デズモンド伯爵様がお見えです」
侍女達の弾丸口撃に息も絶え絶えとなった頃、メイドがお兄様の到着を告げた。
「まあ、伯爵さまが?」
「それなら私達はご遠慮したほうがよろしいですわね」
「婚約者さまと、久しぶりにお会いできるのですもの、ほほ」
リリアと侍女達が席を立つと同時に、部屋の扉が開けられた。
「マリア!」
あ、お兄様。
お兄様は騎士団の制服に、いつものあの禍々しいオーラを放つ黒い長剣を腰に佩いていた。
見慣れた姿のはずなのに、そのサラサラの黒髪も切れ長の黒い瞳も、久しぶりに目にするせいか、なんだか胸がきゅっと締めつけられるような気がした。
お兄様は大股で部屋を横切ると、席を立ちかけた私を、すくい上げるようにして抱きしめた。
「マリア……」
熱い吐息が耳をかすめ、体が震える。
「まあ……」
「お邪魔して申し訳ありません、ほら、早く部屋を出ましょう」
「伯爵さま、よろしければ、そこの長椅子をお使いになって。ここには寝台がございませんの」
いらない情報を口にしながら、侍女達がそそくさと部屋を後にした。
「マリア、会いたかった」
お兄様は私を長椅子に横たえ、上から覆いかぶさるようにして口づけてきた。
扉のすぐ外には侍女達がいるし、お兄様に伸しかかられているこの状況は、冷静に考えればかなり恥ずかしいのだが、
「私も……お会いしたかったです」
思わずぽろりと言葉がこぼれた。
「マリア」
お兄様が驚いたように目を見開く。
自分でもびっくりだけど、どうやら私は寂しかったらしい。
ぎゅっと強く抱きしめてくるお兄様に逆らわず、私もお兄様の背に腕を回した。




