第43話 私はもう、着飾る気はないんです!
思えば、前世で私たちは口づけひとつ、したことがなくて。
あなたがしてくれたことといえば、いかにも騎士らしくひざまずくこと。
ひざまずいて、手袋の上から口づけて、愛を誓うことだけ。
あなたは、とても礼儀正しい人だった。
こんなふうに、いきなり抱きしめてきたりする人じゃなかった。
……それとも、本気じゃなかったから、なのかな。
前世の私には、本気じゃなかったから?
じゃあ、今は?
今は――本気になられちゃ、困るんだ。
「フィニスさま? どうされました?」
私は、声をしぼり出した。
ちょっとびっくりしたような声を。
フィニスの腕がゆるむ。
あと、ちょっと。
「あのー、トラバントにつれてきてもらったんです。お話したいことがあって」
「――そうか」
トラバントの名前で、魔法みたいに緊張が消えた。
繋がった、と思った気持ちが、するっとほどける。
かなしい。さみしい。
いかないでよ。
心のどこかが叫んでいるのを聞きながら、私は一歩後ろへ下がる。
これが、私たちに必要な距離。
フィニスも下がって、静かに言った。
「すまない。はちゃめちゃに疲れていたので、安らぎを補給してしまった」
「あー、狼は馬小屋ですしね。寝てらしたんですか?」
「いや、疲れが極限に達すると、暗闇で蝋燭の炎を見る癖があって」
「末期だそれ。少しお話しましょ」
喋れば喋るほど、私たちは「いつも通り」になってくる。
フィニスが壁の穴に設置されたオイルランプをつけると、辺りは少しだけ明るくなった。
「話というのは?」
「えと。……フローリンデ嬢のことについて、です」
私は円卓の前に座って言った。
フィニスは急いで振り向く。
「悪いお嬢さんではないんだ」
「そこですかさず相手をかばっちゃうフィニスさま、好きッ!! ……ただ、彼女、ちょっと……様子がおかしいですよね? 昔はああじゃなかったような気がして」
「そうだな。前評判では、賢く品のいいお嬢さまという話だった。実際会ってみたら、いつも何を考えているのかさっぱりわからない。子犬を二十匹も飼って、ちゃんと飼い切れるのだろうか?」
フィニスは物憂げに言い、私の横に座る。
蝋燭の明かりに照らされる推しの憂い顔、尊いなあ。この頭の中が二十匹のわんこでいっぱいだと思うと、えっっっっ、何それ、ほんとに尊いな? 美しい、かわいい、美しい、かわいい、甘辛、甘辛、甘辛、その反復運動で永久機関になれるな、私???
――最初に心配するのが子犬の将来か。気に入ったぞ、犬飼いの鑑!!
――シロ、あなた犬じゃないでしょ。狼ですらないし。
……シロへのツッコミでちょっとだけ冷静になれた。
今はフローリンデの話だ、フローリンデ。
私は、うーん、と考えこむ。
「金目の物を欲しがりすぎるのも気になりますよね。ご実家に何かあるのかなあ。……そういえば、例の首飾りは?」
「トラバントが持っている。ここでいきなり渡すより、予定通り諸々の書状を添えてご実家に送るほうが格好がつくだろう。そもそも対面で渡していきなりけなされたら、わたしの心がバッキバキに折れてしまうかもしれない」
「確かに。なんなら体の骨折より、心の骨折のほうが治りにくいですからね」
私は深くうなずいた。
と、フィニスが顔を上げる。
「セレーナは、何か欲しいものはないのか」
「えっ、何、どうしたんですか、いきなり。欲しいものって、フィニスさまの髪の毛ひとすじとか?」
「えっ、こわい。呪いか?」
「いえいえいえ、祭壇を作って祀るだけですが」
「そうか、祀るだけ……だめだな。完全に邪悪っぽい異教だからやめてほしい。いや、そうでなくて、首飾りなり、髪飾りなり」
「首飾りに、髪飾り? 私に?」
私の頭の上には、「?」が死ぬほど浮いている。
なんで、いきなりそんな話になったんだろう?
私はそんなもの欲しがったこと、一度もない。
フィニスの私物ならいつでもどこでもほしいし、ファングッズなら勝手に作ってるけど。
私の疑問は顔に出ていたんだろう。
フィニスはせっせと説明を始めた。
「無理に、という話ではない。ただ、今までわたしは、君は女性の装飾品には興味がないのだと思っていた。宝石とドレスに未練がないから、騎士団に飛びこんできたのだ、と。だが、昼間の店での感じからして、そうではないんだとわかった」
「ああ~~! な、なるほど。いやいやいや、知識はありますけど、今は着飾っても駄目ですよ! ほんと、やばいくらい筋肉ありますしね! この頭じゃ、髪飾りもつかないです」
あははと笑って、短いくるくるの銀髪を引っ張って見せる。
明るく受け流せたかな、と思って見ると、フィニスはあからさまに落ちこんでいた。
どよんとした気を背負い、まぼろしのけも耳がぺったんと伏せている。
「そうか」
「ままままま、待ってください、ほんとです、本気です、私にはフィニスさましか要らないので! フィニスさまのためならドレスだって着るし宝石も身につけますけど、そんなものより剣ですよ、筋肉ですよ! 姫君にはできないことをしに、私はここへ来たんです!! って、フィニスさま?」
必死に叫んでいるうちに、フィニスは顔を上げた。
円卓にあった花瓶から花を取り、茎を折る。
「少し、じっとしていてくれ」
「……はい」
固まった私の髪に、フィニスは花をさした。
ふうわりと、水と花のにおいがする。
一瞬だけ、少女時代を思い出した。
前世、本物の少女だったときは、姉妹でこんな遊びをしたっけ。
編み込んだ髪に色とりどりの花をさして、まるでお姫さまよって笑って。
フィニスはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「――やばい」
「ど、どうしました? フィニスさま。語彙が私ですよ、完全に」
ぎょっとして私が言う。
フィニスはものすごい真顔で立ち上がった。
「すまない。鏡を持ってくる」
「えっ、いや、その」
「持って来た。どうだ、鏡の中に女神がいないか?」
壁掛け鏡を持って来て、私の前に置きながらフィニスが言う。
鏡の中かあ。
うーん……。
「星座の擬人化みたいな美男子と、ただの人間……つまり私しかいませんね」
ド正直に喋ってしまった。
まあ、生まれ変わってからこっち、ずーっと正直なんだけど。
フィニスさまめげるかな、と様子をうかがう。
彼は鏡の中の私しか見ていなかった。
しばらくそのままでいてから、つぶやく。
「いつか君のドレス姿を見てみたい。結婚するときには呼んでくれ」
――結婚するとき、かあ。
私の、結婚。
どうでもいいなあ。
果てしなくどーでもいい。
誰かのために着飾るような気持ち、前世で使い果たしてしまった。
でも、そう言うとフィニスが悲しい思いをする。
だから、笑おう。
「あはは……呼びます、呼びます。そりゃもう、フィニスさまを呼ばないで、誰を呼ぶんだっていうか! あ、フィニスさまの結婚も、騎士団のみんなで応援してますからね! 正装でずらっと並んでお祝いします! 子犬の件は心配ですけど、なんなら騎士団で何匹か引き取りますからね! きっと、いつか心は通じますよ」
私は力を振り絞って言う。
フィニスは少し目を細めた。
そして――へっ。
な、なんで?
なんでか彼は席を立ち、私の足下にひざまずいた。
「そうだな。楽しみだ。――うるわしき公爵令嬢、セレーナ」
フィニスはまるで騎士みたいに言って、私の手を取り、指先に口づけたのだった。
完璧に、前世みたいに。
「う……」
ぶわっと涙が湧きそうになった、そのときだった。
オンオン、ぐるる、と、遠くで黒狼のうなりが響く。
「狼」
「ですね」
私たちは顔を上げる。
直後、ガシャン!! とガラスの割れる音。
「き、きゃああああああ!!」
少し遅れて、女性の悲鳴が響き渡る。
あれは――フローリンデだ!!




