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第29話 推しの湯上がり姿に、正直瀕死です……。

「正直ひどいめにあった」


 私はか細い声で言う。


 ここはなんと、まだ温泉……もとい、聖水の泉のある山の中だ。

 聖水温泉をすっかり気に入った騎士たちは、予定通りもう一泊して帰るらしい。

 わたしは野営地の天幕に横たわり、死相を浮かべていた。


 そこへ、軽率にフィニスが顔を出す。


「こっちはなかなかいい湯だったぞ」


「ほどけた濡れ髪、はだけた胸元、上気した美貌、見るからに湯上がりの推し。これぞまさに死体蹴り」


「……大丈夫か? セレーナ。めちゃくちゃ声が低いし表情が死んでいるが」


「気にしないでください、あっ、顔、ちか……げっほごほ……」

 

 私はフィニスのどアップを避ける気力もない。

 代わりに、枕元の白い毛玉が心の声で叫んだ。


 ――大丈夫じゃないわーい!! セレーナちゃんの前に出るなら、もーーー少し服装整えてからこんかい。最近の人間は毛繕いすら上手くできんのか?


 シロはぷんすかして跳び回る。

 彼は騒動が終わるとぽむっと毛玉に戻った。今後もいざというとき以外は省エネで生きていくらしい。

 前と違うのは、シロがこっそりとっておいた聖水を小瓶に入れて、私が持っていること。

 これで私は、今後もシロやムギなど一部の魔法生物と喋れるらしい。

 私はのろのろと手を伸ばしてシロを撫でつつ、息も絶え絶えに言う。


「いや、いいんです。正直、お色気増量は嬉しいんで……ただ、体力的に萌えつきてて、派手に喜べないだけなんです……」


「そうか。色々無理をさせたな」


 フィニスは言い、横たわる私のすぐ横に座りこんだ。

 ほわ、と彼の体温が伝わってきて、それだけでちょっとほっとした。

 フィニスは、生きてる。


「勝手にしたことです」


 私がつぶやくと、フィニスは唇だけで笑った。

 彼の手が、今日は手袋のない生身の手が、そっと私の頭に触れた。


「無事でよかった」


 触れられた瞬間に、全身がふわっと熱くなってしまう。

 なんて、やわらかに、やさしく、触れるんだろう。

 シロみたいな毛玉に触れるときみたい。

 私、そんなに弱くないけどなあ。

 私、あなたを守りに、ここに来たんだけどなあ。


「フィニスさまも」


 私は自分の頬が熱くなっているのを感じながら、フィニスを見上げた。

 あなたが無事で本当によかった。

 あの調子なら、ルビンはフィニスの暗殺を諦めるだろう。

 ザクトの女嫌いも、軽くなってきていると思う。

 フィニスが結婚するとなっても、無茶な行動には出ないと思いたい。

 結婚。

 そう、結婚だ。

 このひと、別のひとと結婚するんだなあ。

 あらためて思うと、じわ、と目の奥が熱くなった。


「フィニスさま」


「なんだ?」


「元気で長生き、してくださいね。できれば子ども産んで、子育てもしてください。子ども世代とか萌えるので。あ、いや、フィニスさまは産まないな。とにかく、元気で長生き。それが一番です」


 新しい婚約者が誰であろうと、そのひとはきっとフィニスを好きになるだろう。

 フィニスもきっと、婚約者のことを愛せるだろう。

 なーんにもにない小娘だった前世の私のことも、あれだけ大事にしてくれたんだから。

 だから、それでいい。そういうことにしようと、思った。


 ふと、フィニスが手を止める。

 なんだろ、と思っていると、いきなり顔が近づいてきた。

 かなり。どんどん。ものすごく。


「……はい!?」


 なんで?

 どうしてこんなに近づいてきた!?

 腕立て伏せ?

 私の上で腕立て伏せでもするのか!?

 体力あるんですねフィニスさま、とか笑って流すべき?

 いや、無理だよね? さすがにバカだよね?

 冷静に残酷な現実を見つめると、これは腕立て伏せではなくて床ドンですね!?


「何を考えている?」


 こんなに追い詰めてきてるのに、なんで小首をかしげる?

 なんでマジ質問トーンで喋る?

 そういうことやぞ?

 がっついてないのにたまに押しが強いところ!

 それでもどこか可愛いところが!! 宇宙規模の萌えを産むんやぞ!?


「萌え世界の平和と帝国の未来についてですが!?」


 萌えの大波にどうにか逆らい、私は歯を食いしばり気味に答える。

 ぱらりと濡れた黒髪が頬に触れてくる。

 推しはそっと目を伏せた。


「崇高だな。……崇高か? まあいい。わたしは、今、帝国のことなど忘れていた」


 そうなの?

 じゃあ、何を考えてたの?


 そんな質問が喉元までせり上がる。

 ……訊いちゃいたいな。

 訊いたら多分、すっごい嬉しい答えが返ってきそう。

 嬉しくて、満たされて、しあわせになってしまいそう。


 でも、だめだ。

 私、しあわせになるためにここにいるんじゃない。


「忘れちゃだめですよ。あなたは東部辺境の要」


 私が囁くと、フィニスは薄い瞼を閉じた。


「……ああ」


「黒狼騎士団の騎士団長。気高く凜々しく、そして雄々しく。そんなあなたに仕えるために、私は人生をまるごと使ったんですから」


「そうか。……そうだな」


 フィニスは静かに言うと、敷物の上に座りこんだ。


 はー……助かった。

 あとちょっとでがむしゃらに顔を掴んで、あらゆる角度とあらゆる目隠れ具合で濡れ髪フィニスを堪能するところだった。危ない危ない。そんなことしたら変態だもんね。


 ――……違うじゃろ。そこは接吻じゃないんかーーーーーーい!! 温泉上がりに魔が差して、ピュアピュア同士の戦場のラブが芽を吹くんじゃないんかい!?


 ――だーーーーーーーーッ!! 黙って!! 聞こえない聞こえない聞こえない、接吻ってなんですかぁ!? 今必死に脳内から追い出してたんだから、心の声で蒸し返さないで!! こっちは二度目だよ!? もう一回目の恥じらいとかかなり薄れてるんだから、自分のタガが外れるのが怖いんだよ!!


 ――ひょっ、こわっ!! セレーナちゃん、怖いんじゃ……。


 おののくシロを横目に、私ものろのろと起き上がった。

 そこへ、天幕の外から声がかかる。


 ――セレーナ。いるかい?


「ムギ? いるよ。どうかした? ……あれ、ジークと、ザクトも?」


 天幕の端をめくると、青黒い小柄な黒狼、ムギがきちんとおすわりしている。

 背後には、ムギの相方のジークと、ジークの盟約者のザクトが立っていた。


「セレーナ、ごめん。なんだか、ムギがどうしてもここに来たがって」


「なんなんだろーなー。ムギがこんなに強引なことってめったにねーんだけど」


 ジークとザクトがそれぞれ言う。

 私は改めてムギを見た。


「ムギ、私に用があるの?」


 ――あなたと、フィニスに用がある。というか、謝らなくてはならないことがあるんだ。わたしの首輪を見て。


「首輪に何かあるの? あれ、何かからまって……」


 ムギの首のもふもふに手を突っこんで探ると、確かに首輪に何かからんでいる。

 丁寧にほどいて引っ張り出すと、私は叫んだ。


「あ……あああああああああ!! これって!!」


「どうした、セレーナ。……!! それは」


 続いて天幕から出てきたフィニスも目を丸くする。

 私は、ムギの首輪から引っ張り出した紐を、高く掲げた。


「これ、フィニスさまからいただいた、盟約者の証の紐です!!」

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