第23話 たどり着いた温泉は、どうやら様子がおかしいです!
フィニスの目が瞠られる。
「――なぜ」
彼が囁く。
まずい。
やってしまった。
この時点で、私がフィニスの戴冠を知っているのは、まずい!!
帝国の皇帝を選ぶのは、六人の選帝侯。
次の会議は冬にある。
初夏のこの段階では、おそらくフィニス本人も自分が皇帝になるのは知らない。
どうしよう。
なんて言い抜けよう。
たらり、冷や汗を感じた次の瞬間。
「きゅ? きゃんっっ!!」
シロが悲鳴をあげて地面に転がる。
「シロ!? どうしたの、シロ!!」
私は慌てて大岩から飛び降りた。
が、シロは見えない何かに引っ張られるように転がっていく。
きゅんきゅんいう声が、森の奥へと消えていく。
心臓がにぎりつぶされるような気持ち。
「私――!」
追います、と叫びそうになったとき、野営地のほうからザクトとジークが顔を出した。
「フィニスさま! セレーナ! こっちにムギが来ませんでしたか?」
「ムギが? いないのか」
フィニスが聞き返す。
ムギはジークの狼だ。
ムギも、いなくなったの?
一体、なぜ。
気にはなったが、これ以上シロを放ってはおけない。
私はとにかく叫んで、駆けだした。
「すみません、私、シロを追います! すぐに戻りますから!!」
「セレーナ、待て! 道に迷うぞ!!」
「大丈夫です、道ははっきり見えてます!!」
フィニスに答え、私はできるかぎり速さを上げた。
足下の道は白く、細く、まるで発光しているかのようだった。
こんなに明るければ、絶対に迷わない。
明るく、白い、一本道。
……いや、待って。ちょっと待って。
それっておかしくない?
ここって山だよ? 今までの登山道だって、こんなにはっきりした道じゃなかった。
ここから先は普段訓練にも来ない場所だから、大した道なんかないはずだ。
じゃあ、この道は、何。
――魔法だよ。
頭の中で誰かが囁いた。
私はぎょっとして足を止める。
「誰!?」
――声を出さないで。この声が聞こえたなら、声を出さずに会話出来るはず。
――……こう? こういうこと? これで、聞こえるの?
――聞こえる。気をつけて。この先に……
頭の中の声が小さくなり、ふっつりと消える。
ほとんど同時に、森が途切れた。
辺りは一気に殺風景になる。
岩場だ。辺り一帯、黄色っぽい岩肌が露出していており、大小の岩がごろごろしている。
気味の悪い煙がいくつも上がり、いやーな腐臭がした。
そんな地獄めいた場所に、ひとがひとり。
私に背を向けて立っている。
「……ルビンさまですね」
「やあ、かわいいかわいい子狼ではないか。これを追って来たのだな?」
歌うように言って、ルビンはゆっくり振り返った。
その手にぐったりとしたシロがつかまれているのを見て、私の目の前はぱっと赤くなる。
シロ。シロ。私がフィニスから任された、かわいい毛玉。
私が守ってあげなくちゃいけない、私の狼。
「来たのがあなたの愛しのフィニスさまでなくてごめんなさい――と言おうと思ったけど、違いますね。あなたがシロを使っておびき寄せたかったのは、私」
思ったより冷静な声が出た。
ルビンはにたにたと笑っている。
「そうとも、そうとも。案外冷静だな、セレーナ? いや、十五歳の小娘にしては、異常なほど冷静と言ってもいいだろう。んー、おかしいな~?」
どきり、とした。
何か、気づかれてる?
……まさか。
いくらルビンが大物魔法使いだからって、まさか、私が『二回目』だってことはわからない、はずだ。今まで、誰にも気づかれなかったんだから。
「ここは一体なんです? あなたはなんのために、フィニスさまをこの山におびき寄せたんですか?」
淡々と言うと、ルビンは大きく両手を広げた。
「おーおーおー、またも鋭い。鋭すぎる。だが、まあ、俺は鋭い人間のほうが好きだぞ。教えてやろう。ここは、神話の生まれるところ」
ひらり、と揺れた彼の袖の向こうに、夜目にも真っ青な泉が見える。
湯気の立った美しい泉を見ると、なんだか背筋がびりっとした。
「――おん、せん?」
「おや、思い出したのだな、その言葉。一生忘れたまま生きていくのかと思ったが」
けらけらと笑うルビン。
私は笑うどころじゃない。
温泉。
そうだ、今回の山登りはルビンが誘った温泉バカンス。
でも、違う。何かが、決定的に違う。
――そうだよ。あなたは正しい。ここは魔法の力が強すぎる。わたしが、あなたと会話できるくらいに、強い。
頭の中に響く静かな声。
私はゆっくり口を開いた。
「……違う。ここは、ただの温泉じゃない。シロの毛が逆立ってる。そして、あなたも。瞳の中で魔法の力が火花みたいに散っているのが見える。その泉は――聖水? 聖水が、湧いているの?」
聖水。それは原初の世界の水のことだ。
原初の世界と呼ばれるはるか昔、この世界はむせかえるような魔法の力で満ちていた。特に聖水からは、あらゆる魔法生物が生まれた。
水を飲み、太陽の光を浴びるだけでほぼ不死に近かったという魔法生物たち。争いらしき争いもなかったそのころを、私たちは『楽園』時代という。
現在ではめったに掘り当てることもできない楽園時代の水が、今目の前に湧いている。
魔法を使うときの力の源として、万能の治療薬として、その貴重さは計り知れない。
そんなものを背後に、ルビンはシロをぶらつかせながら瞳をぎらつかせた。
「すばらしい! お前はすてきな子狼だよ。異様なまでの鋭さ! 年齢不相応な落ち着き。ずば抜けた計画性。そして、魔法の気配に敏感とくれば、お人好しのフィニスが夢中になるのも仕方あるまい。俺だって惚れそうだ……とでも言うと思ったか?」
「全然。あなたはフィニスさましか見てませんから」
私の答えに、ルビンは三日月みたいな笑みで告げる。
「そのとおりだ。――貴様、不正に誕生の門をくぐり直した、『二回目』だな?」




