とある使用人の平凡だった日々(5)
ベルは周囲を気にしながら、地下室へ続く扉の鍵を開けた。
「早く入れ」
声をひそめるベルに、私は言う。
「そろそろご領主様たち家族の昼食の時間だから、使用人たちも食事の準備で忙しいはずよ。逆に手の空いている使用人は昼の休憩を取っているから、あまりこの廊下には来ないし」
「そうか。だが早く入れ」
私の言葉は何の時間稼ぎにもならなかった。ベルとアリサに促され、渋々階段を降りていく。先頭はハルで次がアリサ、私、そしてベルは内側から扉に鍵をしめてから最後について来た。ランプを持っているのはハルとベルだけだ。
階段を降り始めると同時に、ドラゴンのものと思われる鳴き声が響いてきた。扉一枚越えただけで随分鮮明に聞こえる。でも親を呼ぶような高い鳴き声は思ったより恐ろしくない。老婆が出していると思えば異常で怖いけど、ドラゴンの赤ちゃん――ベルの話から推測するとまだ赤ちゃんだろう――が出していると思えば普通だからだ。
「あれは檻?」
地下室は狭く、少し寒くて暗かった。そして暗闇の中でランプの灯りを反射して、鉄柵が赤く浮かび上がっている。
鉄柵は天井と床を繋いで地下を仕切っていて、檻は右に二つ、左に二つあり、真ん中は狭い通路になっている。
四つある檻の内、三つは空みたいで、ドラゴンは残る一つの檻にいた。
「きゃああ!」
ハルがランプを掲げると予想より大きなドラゴンの体が浮かび上がったので、私は思わず悲鳴を上げた。ドラゴンは眩しそうに目を細めながら、のっそりと柵の近くまでやって来る。目も口も大きい。あの口で噛みつかれたら私なんてひとたまりもない。ここにいるのはドラゴンの赤ちゃんじゃなかったの?
「落ち着け。こいつらはあんたを襲ったりしない」
「……あんたじゃなくてオリビアよ」
「まだ言い返す元気はあるようだな」
ベルは低く笑ったが、私はふと気づいて顔を青くした。
「待って。今、『こいつら』って言った? いるのは一頭だけじゃないの?」
慌てて他の檻を見回すが、暗さに慣れてきた目で改めて見ても、やはり他の檻には何もいない。
きょろきょろしている私に、ハルが言う。
「そっちじゃないよ。ほら、ここ」
「わッ! あ、え? ちっちゃい……」
ハルがランプを向けた先にいたドラゴンに一瞬驚いたものの、最初に見つけたドラゴンよりずっと小さかったので少し安堵した。この子がベルが盗んできた赤ちゃんなのだろう。大きさは小型犬と中型犬の間くらいしかなく、体は丸みを帯びていて全体的にムチッとしている。
その子は大きなドラゴンにくっつくようにして檻の中にいた。
「きゅうう! きゅう!」
声を聞くに、階段を降り始めた時から鳴いていたのもこの子のようだ。よく見れば結構可愛い顔をしているかも。それにとても人懐っこいし。
赤ちゃんドラゴンは小さな前足で柵を持ち、ベルとハルに向かって甘えた声を出している。なんでハルにまで甘えてるんだろう。
暗闇の中ではちゃんと色を見分けられないけど、赤ちゃんの方は黒、大きい方は黄色か薄い茶色っぽい体色だった。
「何だ、どうした? そんなに腹が減ってるのか?」
そういえば肉は外に置いたままだった、と続けながら、ベルはドラゴンたちを観察している。確かに赤ちゃんドラゴンはガジガジと柵をかじり始めているし、大きなドラゴンの方も四本の足で立って柵の間に鼻先を押し込んでいる。
だけど二頭とも視線はハルに向いていた。ごはんを急かしているというより、赤ちゃんドラゴンはハルに近づこうとしていて、大きいドラゴンはハルの匂いをかごうとしているみたいだ。
ベルが訝しげにハルを見て訊く。
「何か食べ物でも持っているのか?」
ハルはその質問に「持ってないよ」と返すと、柵の隙間から手を差し入れてドラゴンたちを撫でる。怖くないのかな。
そして今度はハルがベルに尋ねた。
「この赤ん坊のドラゴンは、半年前にベルがドラニアスから持ち帰った卵から孵ったドラゴンだね?」
「ああ、そうだ」
「じゃあこっちのドラゴンは? どうやって手に入れたの?」
ハルは大きい方のドラゴンを見て言う。
「そっちは俺が獲ってきたんじゃない。男爵が言うには、十年ほど前に人を雇ってドラニアスから子竜を盗んできたらしく、その子竜が十年でここまで成長したんだ」
「十年間、ずっとこの地下の檻にいたって事? ――暗くて狭い、こんなひどい場所に?」
ハルの声は静かだったけど、怒りがこもっている気がした。私は何故だか怯んでしまって、腕に鳥肌が立つ。
ベルも雰囲気の変わったハルに動揺しつつ答える。
「そういう事だ。ずっと閉じ込められていたせいか、こいつはとても大人しい性格をしている。たぶんもう、ここから出る事も人間に歯向かう事も諦めているんだ。最初の内に男爵に鞭で躾けられたらしく、ほとんど鳴くこともない」
ハルは何も言わなかったけど、怒りの感情がこの地下室に充満しているみたいな気がして、私は何だか息苦しくなった。隣でアリサも短く息を吐いている。
「男爵はドラゴンという珍しい生き物を集める事に執着している。もう何十年もドラニアスに人を送って密猟させてるらしい。だが、成功したのは二回だけ。それがこいつら……オニキスとシトリンだ」
「名前があるの?」
ハルは怒りを沈めて言う。ベルは頷いた。
「男爵はコレクションに名前をつけないらしく、俺が勝手にそう呼んでるっていうだけだが。赤ん坊の方がオニキスで、大きい方がシトリンだ。体の色が黒と明るい黄色だから、同じ色の宝石の名前にした」
「素敵な名前。本人たちもきっと気に入ってる」
ハルが褒めると、ベルは照れくさいのか数秒口をつぐんだ。けれどすぐにこう続ける。
「シトリンはオニキスの面倒をよく見てくれてる。オニキスがしっぽを噛んだりしても怒らないし、肉を譲ったりする事もある」
「へぇ!」
思わずそう声を出してしまったのは私だ。ドラゴンがそんなふうに年下の子の面倒をみるなんて知らなかった。人間みたいな情がちゃんとあるみたい。
「オニキスはシトリンがいるから俺がいない間も寂しい思いをしなくて済んでるし、シトリンはオニキスが来てから目に光が戻ったらしい。前はほとんどずっと寝てばかりいたと男爵が言っていた」
「十年もこんなところにいればそうなるわよね」
私はシトリンに同情して言った。
ハルはドラゴンたちを見つめたまま、ベルに尋ねる。
「男爵はドラゴンを他の場所に隠そうとは思わなかったのかな。ここは地下とはいえ屋敷の中だし、使用人とかに気づかれる可能性もあるのに、妻が密かに生きているなんて嘘までついて」
「もっと田舎に隠そうと考えた事もあったようだ。だが男爵はお気に入りのコレクションは自分の近くに置いておきたいらしい。毎日鑑賞できるようにな。実際、ほとんど毎夜ここへ来て、ワインを飲みながらドラゴンたちを眺めているようだ」
このドラゴンたちは生きているのに、絵画や彫刻といった他のコレクションと同じように男爵は扱っているらしい。私も流石にドラゴンたちが可哀想になってきた。
ハルはため息をつくと、ドラゴンたちに背を向け、斜め後ろにいたベルの方を見る。
「それで、ベルはドラゴンたちを逃したいと思ってるんだよね?」
「ああ、もちろん。俺だけでこっそりこいつらを逃がそうと考えた事もあったが、逃した後でドラニアスまで無事に連れて行ける自信がなかったし、そもそもシトリンの方は地下から出られないんだ。体がつっかえて狭い階段を上れない」
「あの階段は人間でも狭いもんね。天井も低いし横幅もない」
「十年前は子竜だったから地下に入れるのは簡単だったようだが、成長しちまったからな」
「でも、ここの天井を壊せば出られるね」
ハルはそう言って檻の上を見上げた。簡単に言うけど石の天井を壊すなんて大変よ、と私は心の中で突っ込む。
ベルも心配そうに言う。
「天井を壊せばすぐに男爵たちにバレるぞ。シトリンを連れ出す前に、俺たちが捕まって殺される。この屋敷には男爵の私兵も常駐しているんだ。知ってるだろ?」
「私兵がいるのは知ってる。確かにこっそり連れ出すのは無理みたいだね。できればシトリンとオニキスを安全な場所に逃した後で男爵に話をつけたかったんだけど……。でも天井を壊すしか方法がないから仕方がないよ。ところでベルはこの檻の鍵を持ってる? ちょっと開けてくれる?」
私は「ひぃ」と小さく叫んだ。檻を開けるなんて、ハルってば何て事を提案してくれるのよ! ドラゴンが隔離されているから、私はいくらか冷静でいられたのに。
慌てる私をよそに、ベルは檻の鍵を開けてしまう。
「ちょ、ちょっと……!」
「大丈夫ですよ」
隣でアリサが言った。いや、アリサは大丈夫かもしれないけど私は怖いの!
「きゅう!」
「わぁ、ラッチの小さい時を思い出すなぁ。出会った時はちょうどこれくらいの大きさだった」
鍵が開いた途端、檻から飛び出してハルの胸に飛び込んでいったオニキスに、ハルは懐かしそうに言った。
シトリンは檻から出る事を怖がっている様子だったけど、やがてゆっくり扉をくぐってハルに鼻先を寄せる。ハルってドラゴンを惹き付ける匂いでも出してるのかしら?
ハルは抱っこしていたオニキスをベルに渡すと、まずアリサに向かってこう言った。
「アリサは一旦地上に出て、竜笛を吹いてみんなに合図してからまた地下に戻ってきて」
そして次はベルに言う。
「ベルはオニキスとオリビアさんと一緒に外に出て、少しの間、どこかに隠れていてくれる? ここは少し騒がしくなると思うから。あと、屋敷から出たら竜騎士が近づいてくるかもしれないけど、私の仲間だから大丈夫だよ。三人が男爵に見つからないよう守るから」
「わ、分かった」
竜騎士という言葉を聞いて、ベルはちょっと緊張していた。私も怖い。
最後にハルは私を見た。
「オリビアさん、オリビアさんもベルと一緒に隠れててね」
「え、ええ……。でもご領主様を裏切るような事をして、私、大丈夫かしら……」
ハルたちがドラゴンを逃がすのに失敗して殺された場合、きっと私も口封じに殺される事になる。そう考えて怖くなったけど、
「大丈夫だよ。というか、男爵を裏切ってこちら側についてた方がいいと思うよ。――男爵はもうすぐただの罪人になるんだから」
暗い地下の中で、こちらを見ているハルの瞳が鋭く光った気がした。
私は何も言えずにぎこちなく頷く。
「行きましょう。外まで送ります」
アリサに促され、ハルとシトリンを地下に残して、私たちは一階に上がった。ベルは地下へ続く扉は閉めたが、ハルたちが閉じ込められるので鍵はかけない。
そして自分の上着を脱いでオニキスを包み、廊下の前後を警戒するように見た。
「裏口の方は使用人と出くわすかもしれないから、正面から出た方がいいわ」
私がそう提案すると、アリサもベルも従ってくれた。しかし正面玄関から外に出たところで、オニキスがバタバタと暴れ出す。陽の光や草木の匂いに反応しているのかもしれない。景色を見たいと、自分に被せられている上着を取ろうとしているようだ。
「こら、オニキス! じっとしてろ!」
しかしオニキスははしゃいでいるような、興奮しているような様子で暴れ続け、ついにベルの腕から逃れて飛び立ってしまった。
けれどずっと暗い地下にいたせいで陽の光に目がくらんだようで、「きゅう!」と鳴くと目をつぶったままふらふらと飛び始める。
「戻ってこい!」
ベルがオニキスを追いかける一方、アリサはポケットから小さな笛を取り出して思い切り吹いた。ドラゴンを呼び戻せる笛なのかと思いきや、息が抜けていくだけで音は鳴らない。こんな時に壊れてしまったのだろうか?
「きゃあー!」
そうこうしているうちにオニキスの姿を使用人に見られてしまった。悲鳴を聞いて他の使用人や男爵の私兵もぞろぞろと集まってくる。
(ああ、もう駄目だ。やっぱりハル側についたのは間違いだったのかも……)
ベルがやっとオニキスを捕まえた時には、昼食を食べている途中だったと思われるご領主様、その息子のカルロ様、そして孫のリゼル様までもが庭に出てきていた。
使用人や私兵たちはベルが抱いているドラゴンを見て驚愕し、ご領主様家族は眉をひそめている。ご領主様はもちろん、カルロ様もリゼル様も屋敷の地下にドラゴンがいる事は知っていたらしい。
「ベル……。何をしている」
ご領主様は眼鏡をかけ直すと、歳のせいで真っ白になってしまった顎髭を触りながら、ベルへ鋭い視線を向けた。
地下からドラゴンを出した事を責めるのかと思いきや、思いがけない言葉を続ける。
「その腕に抱いているのはドラゴンか? 本物なのか? 一体どこでドラゴンなんて手に入れてきた」
毎夜鑑賞している自分のコレクションが分からないはずないのに、ご領主様は知らないふりをしている。リゼル様はちらりと横目で祖父を見て、その意図を理解した様子で言う。
「恐ろしいドラゴンをうちの屋敷に入れて、一体何を企んでいるの!?」
「そんなっ……」
ベルの代わりに私が声を上げた。ご領主様たちはベル一人に罪をなすりつけるつもりだ。使用人や私兵たちが見ているから、自分のドラゴンである事は言わないつもりなのだ。
ベルが奥歯を噛み、黙ってご領主様を睨む中、私も口を開けずにいた。
だって、ご領主様が嘘をついているとこの場で暴露してもみんなが信じてくれるか分からないし、私の身が危うくなるだけだ。
ご領主様は今はベルしか見ておらず、私の事は騒ぎを聞きつけて出てきた使用人の一人としか思っていなさそうなので、真実を知っていると気づかれてはまずい。
(でも、このままベルを見殺しにするのは……)
ベルの事は助けたいけど、あと少しの勇気が出ない。
どっちつかずの臆病な私が、真実を暴露しようかどうしようかと口を開けたり閉めたりしていた時だ。
「ドラゴンを飼ってるのは男爵でしょう?」
少女の声が、ごく自然に輪の中に入ってきて事実を言い当てる。
ハッと後ろを振り返ると、ハルがこちらに歩いてきていた。アリサはすぐにハルの隣に移動して、少し緊張している様子で私兵たちの事を警戒している。
「ひっ……!」
ハルを見た途端、普段は偉そうな猫みたいなリゼル様がネズミのように身を縮めた。ハルに熊のマスクを被せて遊んだあの時以来、どうもハルの事を苦手に思っているようだ。
そして男爵は片眉を上げて言う。
「誰だ、お前は」
「も、申し訳ありません、旦那様。あの娘は最近雇った使用人です」
使用人頭のクアナさんが慌てて頭を下げる。ハルが適当な事を言っていると思っているのだ。
他のみんなも、まだハルの事は信用していない。
だけどハルはみんなからの視線に怖気づく事なく、笑って――でも目は笑ってない――言った。
「初めまして、ドルシェル男爵。私はハル。ここでは使用人として働いていたけど本当は使用人じゃありません。私はあなたを捕まえるためにドラニアスから来ました」




