とある使用人の平凡だった日々(3)
「私がこのお屋敷に来て何日経ちましたっけ?」
朝の挨拶を終えると同時に、ハルは私にそう尋ねてきた。
「ハルが来てから? 今日で六日目よ」
「六日目……あと一日か……」
何があと一日なのかは分からないけど、ぶつぶつと独り言を言うハルとアリサを連れて私は洗濯場に向かった。「さぁ、今日も洗濯から始めるわよ」と腕まくりをしながら。
そして洗濯が終わると、洗った衣服をハルとアリサに渡して干しておくよう頼んだ。
「これで服は終わったけど、まだシーツが残ってるから私はそれを取りに行ってくるわ。今日は天気が良いから一気にやっちゃいましょ」
「はい、分かりました」
ハルとアリサが頷いたのを確認すると、私は一人その場を離れ、屋敷を回ってシーツを回収していく。大きな洗濯かごはあっという間に山盛りになった。
「重い……」
ハルとアリサにも手伝ってもらうべきだったかと思いながら廊下を歩いていると、途中で使用人頭のクアナさんに捕まった。
「オリビア、おはよう。あなた一人? 新人の二人はどうしたの?」
「おはようございます、クアナさん。二人には今、洗濯物を干してもらっています」
「そう、二人はよくやってる?」
「ええ、今のところよくやってますよ。あ、ところでこの前言ってたテーブルクロス、新しいの買ってもらえましたか?」
「ああ、それなら……」
しばらく他愛のない会話を続けた後、私はクアナさんと別れて洗濯場に戻った。
しかしそこにいたのはアリサだけで、ハルの姿はない。
「あら? ハルはどこへ行ったの?」
「オリビアさんを探しに行ったんですけど、途中で会いませんでしたか? 洗濯物を干す紐が古くなって千切れそうなので、新しいものはないか聞きに行ってもらったんですけど」
「会わなかったわ。紐が千切れそうって、どこが?」
「ここです」
アリサが指差した場所は、確かに紐が少し擦れてほつれていた。だけど千切れそうというほどじゃない。
「これくらいなら大丈夫よ。まだまだ持つわ」
こういう紐でも掃除道具でも、ちゃんと使い古さず新しいものに取り替えようとすると、クアナさんが「まだ使えるでしょ」ってうるさいのだ。
「そうですか」
アリサはそう言ってまた洗濯物を干し始めた。私は周囲を見回して言う。
「ハルはまた迷子になってるのかしら。一人で戻ってこれないかもしれないし、ちょっと様子を見てくるわ」
全く世話の焼ける子だ。さっきクアナさんにハルたちの事を「よくやってる」と言ったばかりだというのに。
「あ、いた。……何やってるの、あの子」
ハルの事は屋敷の一階ですぐに見つけられたが、彼女がいた場所には少し問題があった。
ハルは地下へと続く鉄の扉の前に立っていたのだ。
そしてその扉をそっと押してみたり、調べるように南京錠に触れたりしている。
「ハル! 何してるのよ」
「オリビアさん」
私に見つかってもハルは慌てる事はなかった。いけない事をしている自覚がないのだろうか。
でもそういえば「地下へは行っちゃ駄目」だとは言ったけど、この扉が地下へ続く扉だとは教えていなかった。
「その扉の奥にある階段は、大奥様のいる地下室に繋がってるの。だからその扉には触れちゃ駄目」
「やっぱりそうなんですか」
ハルは重そうな鉄の扉をじっと見て続けた。
「私がここを通ると、いつも下から声が聞こえるんですよね」
「ちょっとやめてよ」
年老いた大奥様が獣かゾンビのように唸りながら地下室を徘徊している姿を想像して寒気がした。大奥様がもしもこの扉を開けて地上へ上がってきたらどうしよう。実体がある分、幽霊より怖いかもしれない。
「ほら、今も」
ハルに言われて耳を澄ませると、甲高い声が扉の奥から響いてくるのが分かった。私が前に聞いたのはもっと低くて弱々しい声だったと思うけど、どちらにしても人間の女性が出すような声ではないので、恐ろしい事にはかわりない。大奥様は人の心を失ってしまったのだ。
怖がる私を尻目に、ハルは冷静にこんな事を聞いてくる。
「ここの鍵を持ってるのはご領主様と、大奥様のお世話をしているベルさんだけですか? オリビアさんやクアナさんは持ってます?」
「私たちは持ってないわ。ご領主様とベルの二人だけじゃない? もしかしたらカルロ様も持っておられるかもしれないけど」
「カルロ様?」
「ご領主様のご子息で、リゼル様のお父上の事よ」
「ベルさんは今日もここに来ますよね? いつも何時頃来るんですか?」
「昼頃だと思うけど……」
「じゃあ、ご領主様とカルロ様は今日はお屋敷におられますか?」
「今日はおられないけど、お二人とも明日はおられるはず。……というか、そんな事聞いてどうするのよ。早くここを離れましょう。気味が悪いわ」
大奥様の甲高い声はずっと続いている。拘束されているのか分からないし、もしかしたら階段を上がってくるかもと思うと怖い。
「ほら早く」
大奥様は、私たちが扉の前に立っている事に気づいているのかもしれない。私たちがここを離れないといつまでも声は響いてくるので、私はハルの腕を引っ張って早足で洗濯場へと戻ったのだった。
その後、洗濯を終えて庭掃除をしている途中でお昼ごはんの時間になった。私はほうきを持ったままハルとアリサに声をかける。
「二人とも休憩にしましょ。続きは午後にやればいいわ」
「はーい。じゃあ、ここだけ綺麗にしてしまうので、オリビアさんは先に休憩していてください」
「熱心ね」
感心感心、とハルの事を心の中で褒めながら離れたところで、ハルがハッとして言う。
「……って違う! なんで真面目に庭掃除してるんだ、私」
なんでって使用人だからでしょ。むしろ真面目にやらなかったら問題よ。
と思ったものの、ちょっと距離があったので声を出して突っ込む事はせず、私はそのまま休憩に入った。
ハルはそれから三十分ほどして、アリサと共に使用人が食堂代わりに使っている部屋にやって来たが、なぜか少し落ち込んでいる様子だ。
「どうしたの?」
「ベルさんの事を探してたんですけど、今日は早めに来てすでに帰っちゃってたんです……」
「ベルの事を? まさかまたお茶に誘おうとしたわけ? どうしてそんなにベルに構おうとするのよ。まさか好きになったんじゃ……」
「そんなんじゃないですよ」
ハルは首を横に振って椅子に座る。アリサは二人分の昼食を運んできてハルの隣に腰を下ろした。
私はベルの闘犬のような顔を思い出しながら言う。
「ベルみたいな顔がタイプなの? ちょっと目つきが悪いと思うけど……でも、うーん……髪を綺麗に整えて無精髭も剃れば、格好よくなる気もしてきたわ。男らしい感じになりそう」
ベルが身なりを整えた姿を想像し、ちょっと胸をときめかせてしまった。何故だ。私は甘い顔立ちの美形がタイプのはずなのに。
私は慌ててハルに話を戻す。
「ハルとベルは年の差だってあるのに、年上が好きなのね」
「だからベルさんの事は別に好きとかではないんですって。……まぁ年上の人は嫌いじゃないですけど」
「あ、その顔! ハルにはすでに好きな人がいるのね? その人が年上なんでしょ」
顔を僅かに赤らめたハルを見て、私は前のめりになった。恋の話は好きだ。
「誰誰? 誰なの、ハルの好きな人って。私も知ってる人?」
「オリビアさんは知らない人ですよ……」
「えー、どんな人なの? いくつ? 格好良い? 職業は?」
ハルは最初のうちは「内緒」と言っていたけど、私がしつこく訊くともじもじしながら少しだけ答えてくれた。
その情報をまとめると、ハルの好きな人は騎士で見た目は二十代半ば、優しくて格好いいらしい。ハルの話を聞くに、かなり条件がよく優良な人物なのではないだろうか。ハル以外からもモテてそうだ。
「騎士かぁー。意外と理想が高いわね。でも全く可能性が無いわけじゃないと思うから頑張りなさいよ! 応援してるわ」
「ありがと……」
ハルは顔を赤くして言う。ずっともじもじしっぱなしだ。まぁハルくらいの年齢なら、まだ美形の騎士を追いかけていてもいいだろう。現実の恋愛は厳しいのだと気づくのはもう少し後でいい。それまでは片想いを楽しんでほしい。
私は今度はアリサに話を振った。
「アリサは? 好きな人はいるの?」
「わ、私ですか? 私はいませんよ……」
「はい、嘘! その顔は絶対に嘘。アリサも好きな人がいるのね? アリサくらいの歳だと恋人かしら? まだ結婚はしてなかったわよね?」
「け、結婚なんてまだ……っ! ヤマトさんとは付き合い始めたばかりで……!」
「ヤマトさんって言うのね。変わった名前」
アリサはちょっとつつけば自分からぼろぼろと情報を喋ってくれる。
「付き合い始めたばかりかぁ、楽しい時ね」
「う、はい……」
アリサは赤面して認めた。楽しいらしい。羨ましいな、この。
人の恋話を聞くのもいいけど、やっぱり私も恋がしたいなと思ったのだった。
翌日、昼前。ハルは掃除の途中でまた迷子になっていた。気づけばそばからいなくなっていたのだ。
「アリサまでいなくなってるし……」
私は顔をしかめて言った。そろそろクアナさんにもハルがすぐ迷子になる事を報告しないといけないかも。いい子だし仕事はできるから、これだけが欠点だ。
「どこに行ったのよ」と独り言を呟きながら屋敷の敷地内を見て回る。さっきまでは昨日に引き続き庭掃除をしていたので、迷ったのなら外のどこかにいるはず。
するとその予想通り、正面玄関の近くでハルを見つける事ができた。
だけどハルの前に立っているのはアリサではなく、ベルだった。ハルは今日も大奥様の世話をするために屋敷にやってきたベルを捕まえて、何か話しているらしい。
(またお茶にでも誘ってるのかしら)
ちょっと呆れつつ、さっさとハルを仕事に連れ戻そうとしたけど、そこで聞こえてきた会話に思わず足を止めた。
「地下室にいるのは本当に大奥様なんですか?」
は? と私は心の中で声を漏らした。
ハルは一体何を訊いているのだろう。
私は驚いて目を丸くしつつも、ベルがどう答えるのか気になってそっと屋敷の建物の影に隠れた。
「……何を言ってるんだ」
ベルはしかめっ面で返す。私は彼を見ながら、やっぱり髭を剃ったら若返って男前に見えるんじゃないかなぁと余計な事を考える。
「その荷車に乗っているお肉を食べるのは、大奥様じゃないですよね」
ハルは静かに詰め寄るけど、ベルは相手にせずに裏口へと向かおうとする。
ベルが何も答えないと見ると、ハルはさらに一歩相手に近寄ってこう言った。
「――地下室にいるのはドラゴンじゃないですか?」




