16
「階段を下りる時は慎重に」
「はい」
「ちゃんと『階段を下りる』という行動に集中する事です」
「はい」
ハルは今、レオルザークからお説教を受けている最中だ。
侍女たちから「今日は季節外れに暖かいですし、お庭にテーブルと椅子を出して、ジジリア風のお茶とお菓子でティータイムにしませんか?」と言われて「それ素敵!」と喜んだハルが、庭へ向かうためはしゃぎながら階段を下りたところで足を踏み外し、落ちかけたからだ。
「それができないのなら、陛下が移動される時は、クロナギたちに陛下を抱き上げて運ぶよう言いつけなければならなくなります」
「それはいやです」
ハルは私室でソファーに座り、痛めた足首の手当てをアナリアやクロナギから受けながら、ぶんぶんと首を横に振った。
ハルがよろめいた瞬間すぐ後ろにいたクロナギがハルの腕を掴んで支えてくれたので、下まで転がり落ちる事なく、階段を一段踏み外すだけで済んだものの、それでも少し足首を痛めてしまったのだ。
「寿命が竜人と同じだと判明しても、陛下自身に気をつけていただかなくては、そのうち事故で命を落とす事になります」
階段を踏み外しただけでそんな大げさな……と思ったが、実際、人間ならば階段から落ちただけでも死んでしまう事があるし、それに反論してさらにお説教が長くなるのは嫌なので、ハルは大人しく口をつぐんだ。
というか、庭に向かっている時にはレオルザークはいなかったのに、一体誰が彼にこの事を告げ口したのか。
今日のこの時間帯は珍しく紫のメンバーも全員揃っているので、オルガはニヤニヤ笑って、ヤマトは苦笑いしながら、ソルはいつも通り静かに、お説教を受けているハルを見守っている。告げ口をした犯人としてはオルガが怪しい。
そしてラッチはハルの膝の上から下を覗き込みながら、鼻をひくつかせていた。ハルの足首にはガーゼが当てられ包帯が巻かれているが、その下には炎症を抑える効果のある薬が塗られているので、匂いが気になるのだろう。
「ごめんなさい、気をつけます」
ハルは一応しおらしくそう言った。反省しているのは本当だ。
ハルがしょんぼりと肩を落としているのを見ると、レオルザークはひとまずお説教をやめて息をついた。
「では、今日はもう寝室でじっとなさっていてください。痛みが引くまで動かれない方がいい。クロナギ、陛下をベッドへ」
「ええ!? 寝てる必要なんてないよ! ひどく捻ったわけでもないんだし、足首以外は元気だから」
「そうですね。じっとしていてはもらいたいですが、ベッドで横になる必要はないかと」
ハルの言葉にクロナギも同意してくれた。
クロナギはわりと正確にハルの限界を見極めているが、レオルザークはハルを小鳥か何かと同じくらい弱いと思っているのか、心配の仕方が極端なのだ。
「お庭でティータイム……」
未練たっぷりの目でレオルザークを見上げる。足を軽くくじいたくらいで、素敵なティータイムを諦める事はできない。
「お願い、レオルザーク……」
弱々しくそう言うと、レオルザークの鋭い瞳が揺らいだ。
レオルザークは最初は厳しい事を言ってハルの行動を制限するけど、こうやってお願いすれば結構簡単に譲歩してくれるのだと、ハルはドラニアスに来てから学習したのだ。
「これから冬が来たら、春まで庭でお茶なんて飲めないし……。ね? いいでしょ?」
言いながらレオルザークのマントをきゅっと引っ張ると、案の定レオルザークは仕方がないと言うように許可を出してくれた。
「椅子にじっと座ったままでいると約束できるならいいでしょう」
「約束する! やったー」
しゅんと垂らしていた眉を上げて一瞬で笑顔になると、ハルは両手を軽く上げてバンザイをした。
「なんか総長がいいように操られているような……」
ヤマトがぼそぼそと呟いた。
「それじゃあ庭に行こう!」
「怪我してんのに足を動かすなよ」
椅子に座りながら足をバタバタと動かしていたら、オルガにそう言われてしまった。
仕事があるからと自分の執務室に戻るレオルザークを見送ってから、ハルはオルガに抱えられて庭へ向かった。クロナギ、アナリア、ソルにヤマト、それに侍女やラッチとも一緒に。
庭に出て、マロンパイを食べながらジジリアのお茶を飲む。甘い物を食べていると、足首の痛みも消えていくような気がする。
けれどここにいるのは侍女たちと紫の面々だけなので、誰も一緒に椅子に座ってお茶を飲んではくれない。皆、立ったままだ。
仕方がないのでラッチを隣の椅子に座らせ、ティーカップに入ったお茶とマロンパイを勧める。ラッチはマロンパイを味わいもせず一口で飲み込んだが、お茶には興味がない様子だった。
「ところで、紫に新しく人を入れるっていう話はどうなったの?」
パイを食べ終えてから、ハルはクロナギに尋ねる。
「すでに総長や将軍たちから候補は上がっているので、彼らを集めて一週間後に模擬試合を行う事になりました。それで勝った者が紫に入るというわけではないのですが、一つの判断材料にはします。前にも申し上げた通り、新人には強さだけではなく協調性も欲しいので」
「それって私も見に行っていい? 紫にどんな人が入るのかちょっと気になる」
「もちろん。ハル様が来られたら候補者たちの士気も上がりますよ。コルグも張り切るでしょう」
「コルグ?」
ハルの声が跳ねた。どうやら紫の新人候補の中にはコルグも入っているらしい。
クロナギは言う。
「俺とサザ将軍の推薦です」
「そうなんだ! コルグが入ってくれたら嬉しいな。私もコルグは好きだし、協調性はあると思うし、それにコルグのドラゴンのスライドはすごく速く飛べるもん」
「そうですね。スライドも優秀です」
クロナギに続いて、ヤマトが口を開く。
「あー、コルグが入ってくれるなら俺も嬉しいなぁ。下っ端として雑用を押し付けられるから色々と楽になるし」
今の紫で一番年下なのはソルなのだが、ソルは雑用係としては全く役に立たないので、細々とした仕事はヤマトがやっているようだ。
「あ、そういえばヤマト! アリサは無事に帰った?」
ふと思いついて、ハルはヤマトに尋ねた。
アリサはこの二、三日ドラニアスを見て回り、父方の祖父と祖母にも会いに行ったりしてドラニアス滞在を楽しんだようだが、昨日、村に帰ったと聞いていた。
ヤマトは頷いて答える。
「はい。昨日、ドラゴンで村まで送ってきました。でもアリサはドラニアスに住みたいらしいですよ。次に来る時は永住するつもりで引っ越してくるって言ってましたから」
「へー。よっぽど好きなんだね」
「ドラニアスがですか? ええ、気に入ったようですね」
「違うよ、ヤマトが好きなんだねっていう意味」
「え? 俺ですか?」
ヤマトはまばたきをして自分を指差し、戸惑っている。ハルはオルガが時々やるように、ニッと笑って言った。
「だってアリサがヤマトを見る時、目に『好き』って書いてあるんだもん。ね、クロナギ。クロナギたちも気づいたでしょ?」
「いやいやいや…………え、ほんとに?」
ヤマトは動揺しながらクロナギを見た。クロナギは適当な感じで頷く。
傍で見ていたオルガが面白がって笑い、侍女たちもくすくすと声を漏らした。
ヤマトは竜人の女性にはあまりモテないようで、『アリサが本当に俺の事を好きなら嬉しい、けど俺はアリサの事をそういうふうには見てないから困る、けどやっぱり嬉しいかも』みたいな事を延々と繰り返して言い始めた。
「どうしましょう、ハル様……。アリサは俺のためにこっちに越してくるつもりって事ですよね? 嬉しいけど困るし、でも……」
「もういいっつーの。お前の恋愛話とかそんなに興味ねぇから」
十分ほど経って、最初はヤマトの動揺ぶりを笑っていたオルガも、最後にはそう突っ込んでヤマトの話を強制的に終わらせた。
そして最初からこの話にあまり興味のなさそうだったクロナギも、
「ハル様、向こうの庭園を回ってみませんか? もう紅葉は終わってしまいましたが、色とりどりの落ち葉が絨毯のようになって綺麗ですよ」
と言いながらハルをお姫様抱っこした。少し恥ずかしいが、足首が痛いので運んでもらわなければ仕方がない。
「俺の話は……」
「後でまた聞いてあげるから」
しょんぼりするヤマトにハルが言う。ハルも正直この話題に飽きてきていたが、話を振ったのは自分なので最後まで付き合う責任があるだろう。
庭園へはこのまま皆で移動するのかと思ったら、クロナギが歩き出しても他の皆はついて来なかった。
「落ち葉の絨毯、見ないの?」
クロナギの肩越しに振り返って言うが、アナリアたちは笑って手を振るだけだ。
「見ないのかな?」
今度はクロナギに向かって呟く。
「デートの邪魔をするほど、皆、無粋ではないので」
「デート?」
「そう、デートです」
ハルはもう一度ちらりと後ろを振り返った。本当に誰もついて来ていない。ラッチもオルガに捕まえられているので、こちらには来られないようだ。
(よく考えれば、クロナギと二人きりになる事ってほとんど無かったかも)
ドラニアスを目指してジジリアを出発した最初の頃も、ラッチがいたので三人旅だった。
「なんか変な感じだね。改めて二人きりになると……」
ただの護衛だった頃のクロナギなら特にそんなふうには思わなかったかもしれないが、婚約者でもあるクロナギを意識すると、ちょっと照れ臭い気持ちになる。
「そう言われるとそうですね」
クロナギもほほ笑みながら言う。
庭園に着くと、赤や黄色の枯れ葉が地面を覆って、鮮やかな光景が広がっていた。
ハルはしばらく地面を見ていたけれど、無言でいると二人きりであるという事を意識してしまって何となく恥ずかしくなるので、「そういえば」と言いながらどうでもいい話を始める。
「この前さ、アナリアとオルガが仲よさげに歩いてるのを見ちゃった。二人とも休日だったから、街にでも遊びに行くところだったのかも。あの二人、もう付き合ってるのかなぁ?」
「さぁ、そうかもしれませんね」
「あとね、ソルが廊下で年上っぽい竜騎士のお姉さんに言い寄られてるのも見たよ。あ、その時はクロナギも私と一緒にいたんだっけ?」
「そうですね。いました」
「ソルは気がなさそうだったけど、年上にモテるのかな」
ぺらぺらと喋り続けるハルを、クロナギがじっと見て静かに笑う。
「な、何?」
「いえ、緊張されているのかなと……。でも、少しずつでも俺の事を前とは違うふうに意識してもらえるのは嬉しいです」
クロナギは穏やかに言った。
改めて間近で見ると、クロナギはやっぱり美形だなと思う。ハルみたいに平凡な顔立ちではない。それに強いし、賢いし、優しいし、大人だ。よく考えれば自分にはもったいない。
クロナギはヤマトとは違って竜人の女性にも人気があるようだから、ハルの婚約者に決まらなければ、他の女性から山ほど言い寄られた事だろう。そしていずれはアナリアのような目もくらむ大人の美女を伴侶にしたかもしれない。
「あのー、なんかごめんね……」
ハルはぼそっとクロナギに謝った。こんな完璧なクロナギの婚約者が、こんなチビな自分だなんて申し訳ない。
けれど今さらクロナギを離す事もできないので、ハルはこう言った。
「もう少し成長したら、もう少し美人になる予定だから、ちょっと待っててね」
正直、美人になるかどうかは分からないけれど、美人だった母親のフレアの血がこれから頑張って前に出てきてくれる事を願おう。
「それに、なるべく子どもっぽい事はしないようにするからね。年の差は縮まらないけど、でも急いで大人になるから」
「何の話をされているのかよく分かりませんが、急がれる必要はありませんよ」
クロナギはいつもは冷静な漆黒の瞳を、優しく細めた。
「俺はハル様が大人になられるまで、いつまででも待ちますから」
「うん、ありがとう」
ハルはクロナギの首に腕を回して、頬に顔を擦り付けるように抱きついた。するとクロナギはくすぐったそうに喉を震わせて笑う。
「猫の子のようですね」
「猫の子……」
例えがいまいち気に入らなくて、ハルは眉根を寄せた。せめて子はつけずに、猫と言ってほしかった。
「早く大人になりたいなー……」
独り言として呟くと、クロナギはフッと笑いながら、ハルのおでこに口付けを落としたのだった。




