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「やぁ、よく眠っていたな」
「ん? ……あれ?」
ハルは目を開けてぱちぱちとまばたきを繰り返した。目の前には東の青の将軍であるサザがいる。
というか、ハルは椅子に座っているサザの膝の上に乗っていた。
「私、いつここに着いた?」
ここはどうやらサザの屋敷のようだ。部屋の中にはクロナギやアナリア、オルガにソル、それに侍女二人もちゃんといて、ラッチは床でおやつに貰ったらしい干し肉をかじっていた。
部屋の暖炉は赤々と燃えていて、ハルの体には毛布も被せられていたので暖かい。
「一時間ほど前かな」
サザは青い目を穏やかに細めて言った。
「そうなんだ……」
「ドラゴンに乗りながら寝る奴なんて、なかなかいねぇぞ」
オルガがからかうように言う。ハルは少し頬を赤らめながら、誤魔化すようにサザに言った。
「ごめんね、夜もちゃんと寝たんだけど」
「連日の疲れが出たのだろう。気にする事はない」
「皆で何してたの?」
「陛下の寝顔を見ていたのだよ」
サザは笑って言った。冗談なのか本当なのかよく分からないが、よだれを垂れていなかったかと一応口元を拭う。
「あとはそう、クロナギたちに最近の陛下の様子を訊いていた。即位式が終わってから今日まで、数日会っていなかったからね」
「元気だよ」
「ああ、そう聞いた」
そんな話題だけで一時間も持ったんだろうかと思いながら、ハルは被せてもらっていた毛布をまとめて膝の上に置いた。侍女がすぐに取りに来てくれたので、「ありがとう」と言いながら渡しておく。
サザはハルを見下ろして続けた。
「私の妻と息子は今、外に出ているが、すぐに戻ってくる」
「サザも息子さんがいるんだね。いくつなの?」
「今年で三十九だったか。もういい歳だよ。息子は即位式で陛下にお会いしたと言っていたが……」
「え、そうだっけ?」
思わずクロナギの方を見ると、クロナギは頷いて、
「サザ将軍と一緒ではありませんでしたが、将軍のご子息と夫人の二人でハル様に挨拶に来ています」
「あ、そうだった」
クロナギに「サザ将軍の奥様とご子息です」とその時にも紹介されていたのだが、しっかり覚えずにさらっと流してしまっていたようだ。
即位式の日の夜会では、次から次へと貴族たちや軍の関係者が挨拶に来たので、一人一人の顔と名前を完璧には覚えられなかった。
それでもサザと一緒であれば印象に残っていただろうが、サザは城の警備などの仕事があって、家族と一緒にはいなかったから。
「二人はこの辺りで近頃評判の菓子屋に行っていてね。陛下に食べてもらうケーキを買いに行っているよ」
「ケーキ?」
ハルの声が分かりやすく弾んだので、サザは笑った。
「一年ほど前にできた新しい店だ。店主は一時期ジジリアへ行って、あちらの菓子の作り方を学んできたらしい。それで店ではジジリア風の菓子を売っているんだ」
「へー」
ラルネシオが言っていた話を思い出す。外の文化をドラニアスに持ち込むのは職人だという話だ。
「ドラニアスのお菓子や料理も大好きだけど、もうジジリアのものは食べられないと思ってたから嬉しいな。ラルネシオのところでもジジリア風の食事を用意してもらったんだよ」
「これからは、物でも、食べ物でも、ジジリア風のものが流行るかもしれない。陛下の生まれ育った国にドラニアスの国民たちも興味が出てきたようだから。件の菓子屋も最近まではそれほど流行ってはいなかったようだが、陛下が即位されてからはとても忙しいらしい」
サザとそんな話をしながら、ハルはサザの妻と息子がケーキを持って帰ってくるのを楽しみに待ったのだった。
「即位式以来ですね、陛下」
ケーキを持って帰ってきたサザの息子――シーザにそう声をかけられて、ハルは彼を覚えていなかった事を悟られないようににっこり笑った。
けれど心配しなくても、シーザと彼の母――シズの顔を実際に見たら、ちゃんと即位式の日の記憶が蘇ってきた。自己紹介されたくらいであまり長話はしていないはずだ。次々と挨拶にやって来る貴族たちへの対応でハルがいっぱいいっぱいになっているのが分かったのか、「今日はご挨拶だけにしておきます」と気を遣ってくれたのだ。
シズは物静かな女性で、いつも穏やかなほほ笑みを浮かべている。黒い髪には僅かに白髪も混じり始めていて、歳はサザと同じくらいに思えた。
息子のシーザは見た目は二十代後半くらいで、落ち着いた雰囲気だがまだ若々しい。
髪は柔らかな茶色で――サザは将軍になった時に髪を水色に染めたらしいので、元は茶色かったのかもしれない――出で立ちは貴族然としている。
しかしそれは別に偉そうとかいう意味ではない。余裕があって優しく、上品で清潔感がある外見が貴族っぽいのだ。
「今日お会いできるのを楽しみにしていました。夜会ではほとんど話せませんでしたから」
シーザは膝をついてハルの手を取り、その甲に口づけを落とした。こういう挨拶の仕方はまだ慣れなくて恥ずかしくなってしまう。
ハルは顔を熱くしたが、一方で背後からは冷気が流れてくるのを感じた。発生させているのはクロナギだろうか。
ハルは後ろを気にしないようにしながら、まだ膝をついたままのシーザを見下ろして尋ねた。
「シーザは竜騎士じゃないんだね」
竜人は基本的に皆、人間より背が高かったり筋肉がつきやすかったりするので、ハルからすると一般の竜人でも体格がいい者が多いのだが、やはり日常的に鍛えている竜騎士と比べると細かったり、雰囲気も鋭くなかったりする。
シーザは戦い慣れていなさそうな柔らかな雰囲気をまとっていた。
「ええ、私は一人っ子ですし父は軍の仕事で忙しいので、領主としての仕事をしています。青の竜騎士たちと一緒にこの辺りの土地を治めているのです」
「へー」
確かアナリアも一人っ子だが、妻のソフィアにかなり手伝ってもらいながら、グオタオが領主としての仕事も行っているようだ。
竜騎士でありながら領主でもあるというのは珍しい事ではなく、サザやグオタオよりも持っている領地は小さいし貴族としての歴史は浅いが、ラルネシオ、ジン、レオルザークも一応領主だと聞いた。
「ところで」
シーザは床に膝をついてハルの手を握ったままで話を続ける。
「ジン将軍のところでテオにはお会いになりましたか?」
「テオ? 会ったけど、どうして?」
「いえ、同じ婚約者候補として少し気になっただけです」
ハルは「え」と口を開いた後で、後ろに並んでいる紫のメンバーを見た。
クロナギはハルの視線に気づいていないのか、しらっとした顔でシーザを見ていて、オルガはハルの反応を楽しんでいるかのように口角を上げていた。ソルは壁に飾られている剣を見ている。
誰も答えをくれないのかと思ったが、アナリアだけは頷いてくれた。どうやら本当にシーザも婚約者候補のようだ。
どうして事前に教えておいてくれないのかと思ったが、ハルが必要以上に構えると思ってあえて伝えなかったのかもしれない。
「そっか、シーザも婚約者候補……。でも歳が二十五も違うのに」
ハルは眉を垂らして言った。年上の人が嫌というわけではなく、シーザが可哀想だと思ったのだ。いつかオルガが言ったように、こんな子どもの婚約者にされてしまうのは気の毒だから。
それを伝えると、シーザは「何をおっしゃるのです」と笑ってから続けた。
「私は、陛下の婚約者候補に入れた事は光栄な事だと思っていますよ。もちろん婚約者になれればもっと嬉しいですが。年の差は確かにありますが、二十五歳差の夫婦というのは世間にもいますしね。人間の感覚でいうと十二、三歳差というところでしょうか。なにも今すぐ結婚するわけではないのですから、陛下がもっと大人になられたら、我々の年の差もあまり気にならなくなると思いますよ」
シーザに続いて、サザがのんびりと言う。
「私も陛下の義理の父親になれるのなら嬉しいが、選ぶのは陛下だ。まぁ、もしシーザを気に入ったのなら是非」
サザの口調からして、サザはハルがシーザを選ぶ確率は少ないと思っていそうだった。
「サザは、シーザの他に誰が私の婚約者候補なのか知ってるの?」
「もちろん。会議に出ていた皆で決めた候補者たちだから。しかし陛下は、その様子だとまだ候補者が誰なのかご存じないようだ」
「リストを貰ったけど、まだ見てなくて」
「ああ、それで」
納得したように頷いてから続ける。
「禁城に帰ったらリストに目を通しておくといい。シーザが駄目でも、我々が選んだ候補者の中には、きっと陛下の気に入る者がいるだろう」
「私が駄目だと決めつけないでくださいよ」
シーザは父親にそう言うと、笑ってため息をついた。
シーザもテオと同じく、皇帝に対する思慕の念以外に特別な想いを初対面のハルに抱いているわけではなさそうなので、態度には余裕がある。選ばれなくても、残念だがしょうがないと思っていそうだ。
ハルはふと後ろを振り返ってみた。
クロナギはいつまでもハルの手を握っているシーザに苛々し始めた様子で、眉間に皺を寄せていた。
おそらくあと数秒もすれば、シーザにやんわりと「手を離せ」という事を伝えるために口を開くだろう。そんな顔をしている。クロナギの態度には余裕がなかった。
その日の夜、夕食のデザートにケーキを食べて満足したハルは、サザの屋敷の客室でラッチと一緒にぐっすりと眠っていた。
今日はラッチが寝ぼけてしっぽを振り回す事もなかったし、隣の部屋から話し声が聞こえてくる事もなかった。そもそもこの部屋には控えの間もない。
とても静かな夜だったが、ハルは日付が変わろうかという時間にふと目を覚ました。
(あれ? ……ヤマトがいるのかな?)
自分でもよく分からないが何故かそう思った。別にヤマトの声がするとか、足音がしたわけではなかったけれど。
ハルは上半身を起こして部屋を見渡す。暗くてよく見えないが誰もいないようだ。耳を澄ましても何の音も聞こえない。
けれどハルは気になって、ベッドから降りてスリッパを履いた。やっぱりヤマトがいるような気がするし、いるなら会いたい。
何の任務でいなくなっていたのか知らないが、無事でいるか、怪我をしていないか確かめたいのだ。
寝ているラッチをベッドに残し、ハルは廊下に出るため扉をそっと開けた。
すると扉の外には、少し懐かしい人物が立っていた。ハルがラマーンにいる時に出会って、何かとお世話になった竜騎士であるコルグだ。
「あ、コルグだ!」
「え? ハル様?」
ハルはパッと目を輝かせたが、コルグは驚いていた。どうやら彼は他の竜騎士と二人でハルの部屋の前に立って警備をしていたらしいのだが、突然ハルが起きてきたのでびっくりしたようだ。
どうしてコルグがここに? と尋ねようとしたが、すぐにひらめいてこう言う。
「そっか、コルグは青の竜騎士だもんね。サザの部下なんだ」
「そうです。昼間は他の仕事があったので顔を見せられなかったんですけど、今夜からはお側にいますよ! 紫の方々ほど近くにはいられないですけど、パレードも出ますし」
「そうなんだ。会えて嬉しい!」
「俺も嬉しいです」
ハルは自分の右手でコルグの左手を、左手でコルグの右手を握ってはしゃいだ。コルグもハルに合わせて、夜中の廊下で少しはしゃいでくれる。
隣に立っていたコルグの同僚の竜騎士は、「お前がラマーンで陛下と仲良くなったって自慢してたの、嘘じゃなかったんだな」などと呟いている。
「スライドは元気?」
「元気ですよ。明日、パレードの前に会ってやってください」
スライドはコルグの相棒のドラゴンだ。ラマーンではスライドにもかなり活躍してもらったのに、ご褒美もあげていなかった。
美味しいお肉の塊でもあげなくっちゃと思ったところで、ハルはハッと我に返る。今はヤマトの事が気になっていたのだ。
「ねぇコルグ。ヤマトはどこにいる?」
「え、ヤマトさんですか? 向かいの部屋にいますけど、どうしているって分かったんです? ついさっきですよ、ヤマトさんがここに着いたの」
「勘」
「勘ですか。……あ、駄目ですよ!」
向かいの部屋に入ろうとしたハルをコルグが止める。
「どうして?」
「今たぶん大事な話の最中ですから」
「大事な話って?」
「さぁ、俺も分かりませんけど、何だか皆さん張り詰めた表情をしておられたので。――駄目ですって!」
ハルは部屋への強行突入を試みるが、コルグに後ろから抱きしめられて動けなくされてしまう。
「部屋に戻って寝ましょう! ね? そうしましょう!」
「おい、声がでかいって……」
廊下に響き渡るコルグの声に、同僚の竜騎士が冷や汗をかく。ハルはコルグに拘束されながらバタバタと暴れた。
三人で廊下でそんな事をしていると、やがて向かいの部屋の扉が開いて、厳しい表情をしたクロナギが顔を覗かせた。
「煩いコルグ。騒ぐな」
それだけ言ってすぐに扉を閉めようとしたが、コルグが抱えているのがハルだと気づいて目を見開いた。
そうして部屋から出てきて心配そうに言う。
「ハル様、どうされましたか?」
「ヤマトに会わせて」
ハルは即座にそう返すが、クロナギは動揺を表情には出さずにこう答えた。
「ヤマトはまだ任務に行っています」
「嘘。コルグが、ヤマトがさっきここに着いたって言ったもん」
そこでぎろりとクロナギに睨まれて、コルグは慌てて弁解した。
「だ、だってヤマトさんが来た事をハル様に内緒にしろとは言われてなかったですし……」
クロナギもしょうがないと思ったのかコルグを睨むのはやめて、再びハルを説得しようとする。
「ハル様、明日もパレードがありますし、今は眠ってください。ヤマトとはまた――」
コルグとクロナギの隙を突き、話の途中でハルは向かいの部屋に飛び込んだ。ヤマトは明日の朝にはいなくなっているかもしれないし、クロナギの言う通りにしていたら次いつ会えるか分からない。
部屋に駆け込むと、サザとシーザ、紫のメンバーがテーブルを囲んでソファーに座っていた。ヤマトもちゃんとそこにいて、驚いた顔をしてハルを見ている。
「ヤマト! どこに行ってたの?」
「ハル様……不在にしていてすみません。ちょっと仕事で」
ヤマトは立ち上がると、ハルの前で膝を折って言った。
「怪我とかしてない?」
「大丈夫ですよ。危険な仕事ではないので」
「じゃあどんな仕事?」
「それは……」
ハルが追求すると、ヤマトは言い淀んだ。助けを求めるようにクロナギを見ている。
クロナギはハルを追って部屋に入ると、ハルの肩に手を置いて言った。
「ハル様、今回のヤマトの仕事はハル様が気にされるようなものではありませんので」
前に言ったのと同じセリフを言われたが、それではハルは納得できない。
ハルは怒って言った。
「気にするよ! どんな些細な仕事や任務だって、ちゃんと説明もされずにヤマトやクロナギやアナリア、オルガやソルがいなくなったら気にする!」
大きな声を出すハルとは反対に、クロナギたちは口をつぐんだ。こういう時にも冗談を言うタイプのオルガですら、今は真面目にハルの言葉を聞いている。
「どうして私にちゃんと説明してくれないの? 私が頼りないから? でも私は皆の……主なんだよ。なのに私に黙って勝手にヤマトに仕事をさせないで。ヤマトも、私に黙って勝手にいなくならないで」
ハルは緑金の瞳で皆を見つめた。
「紫の五人は私の竜騎士でしょ? 私の護衛が基本的な仕事なら、今回みたいに側を離れる時は必ず報告をしてから行ってよ。……心配だから」
最後にはしょんぼりしながらそう言葉を零すと、ヤマトもハルと同じくらい眉を下げて言った。
「ハル様、すみません。勝手にいなくなったりして。俺は……」
「待て、ヤマト」
そこで口を挟んだのはクロナギだ。
「クロナギ先輩、でも、もう俺はハル様に隠し事はしたくありません」
「違う。俺から説明する」
「クロナギ!」
今度はアナリアがクロナギを止めようとする。しかしクロナギはハルに話すと決めたようだった。
ハルをソファーに座らせて、自分はその前で床に膝をつき、ハルの両手を握って話し始める。
「我々はハル様が頼りないから説明をしなかったのではありません。そんなつもりは全くありませんでした。ただ、ハル様に余計な不安を与えたくなくて黙っていたのです。けれど、それで余計にハル様を不安にさせてしまった事はお詫びいたします。申し訳ありません。ヤマトを勝手に行かせたのも俺です」
「うん」
ハルが頷いて謝罪を受け入れると、クロナギは一度大きく息を吸ってから続けた。
「ヤマトには、ドラニアス内で調査をさせていたんです。ハル様の他に混血の竜人がいないかを」
「混血? 私の他に? 混血の竜人がいるかどうか調べて何がしたかったの?」
ハルが戸惑いながら訊くと、クロナギはまるで苦痛を感じているかのように目をぎゅっと細めて言った。
「彼らが何年生きているかを知りたかったのです。混血の寿命は人間と同じく短命なのか、それとも竜人と同じだけ生きられるのかが分かれば、ハル様の寿命も分かりますから」
「私の寿命……」
ハルはぽつりと呟く。それは思いがけない言葉だった。自分の寿命が何年かなんて、今まで考えた事がなかったからだ。
――当たり前のように、人間と同じだと思っていた。
しかしよく考えれば、自分が八十歳で死んだ場合クロナギたちを残して先に逝く事になるし、クロナギたちはその後で何十年も生きなければならない。
その時にはハルの子どもがいるとしても、悲しい思いをさせてしまう事になる。クロナギたちはエドモンドに続き、二度も主を失う事になるのだから。
「そっか、皆はそれを心配してたんだね」
今は子どものハルがあっという間に大人になって、皆より早く年老いて、そして死んでしまう事を。




