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次の日、朝の準備を整えて寝室から出ると、いつものように居室には紫のメンバーがいた。今日はクロナギとアナリア、オルガがいる。
「おはよう」
手前にいたアナリアとオルガに挨拶をした後、憔悴した顔をしているクロナギに近づいて彼にも「おはよう」と声をかけた。
まだもやもやした気持ちは残っているので明るく笑いかける事はできないけれど、昨日、「クロナギは来ないで」なんて言ったのはあまり良くない態度だったかなと考えたのだ。
クロナギは別に悪い事をしたわけじゃない。ハルが勝手にクロナギにがっかりしているだけなのだから。
「……っおはようございます、ハル様」
無視されると思っていたのか、ハルが声をかけると暗かったクロナギの瞳に少し光が戻った。やっぱり昨日のハルの態度を気にしていたようだ。目の下には隈もできている。
罪悪感を感じないわけではないが、「昨日はごめん」と謝る事ができるほど大人でもないので、ハルは寝ていないらしいクロナギの体調を心配しつつも無言でテーブルについた。侍女たちはすぐに食事の準備を始めてくれる。
もう一方の、ソファとセットになっている足の短いテーブルの方を見ると、端の方に婚約者候補たちのリストが置かれたままだった。昨日は結局、目を通せなかったのだ。
「ハル様」
食事が運ばれてくるまでの間に、クロナギがそっとこちらに近づいてきて隣で膝をつく。
「昨日の話ですが……ハル様がお嫌なら、婚約者を急いで決める必要はありません。私から他の者にもそう話をしておきますので――」
「ううん、いいよ。大丈夫」
ハルは自分の目の前のテーブルに視線を移し、テーブルクロスの柄をじっと見つめたまま口を開く。
「別に婚約者を作るのが嫌ってわけじゃないし、それで皆が安心するならなるべく早く決めるよ。それが皇帝としての義務の一つだと思うし」
ハルはただ、クロナギが自分に婚約者を作るよう勧めてくるのが悲しいだけだ。他の誰かから婚約者を作ったほうがいいと言われても何も感じないのだが、クロナギだと嫌なのだ。
今は「ハル様がお嫌なら、婚約者を急いで決める必要はありません」なんて言っているけど、それは昨日のハルの態度を見たから言っているだけだろう。
聞き分けよく「大丈夫」とハルに言われると、クロナギはそれ以上何か言う事はできなくなった様子で、中途半端に口を開いたまま迷うように視線をさまよわせた。
「何だ、この空気」
昨日はいなかったオルガが、口論しているわけではないが若干緊張感のある二人のやり取りに眉根を寄せる。
と、そこで侍女たちが朝食を運んできたので、ハルはすでにテーブルにセットされていたスプーンを手に取った。野菜や肉、卵や芋など、入ってるものや味付けは日によって違うが、朝のメニューは大抵お粥なのだ。
しかし今朝はデザートに杏仁豆腐もついている。ハルはドラニアスに来てから初めてこの杏仁豆腐というものを食べたのだが、一度食べただけで好物になってしまった。プリンより柔らかくなめらかな触感で、優しい甘さなので、どれだけでも食べられてしまう。
「ハル様に元気になっていただこうと思って、昨日のうちに料理人に頼んでおきました」
杏仁豆腐を運んできた侍女のマキナが、小声でハルにそっと言った。
「ありがとう!」
ハルは笑顔でマキナにお礼を言う。一方で、食事を運ぶ侍女たちの邪魔になっていたクロナギが、マキナにだけ向けられているハルの笑顔にとどめを刺されたかのように、ふらふらと憔悴した足取りでハルの後ろに移動していった。
アナリアはその様子を呆れ顔で見ていたが、クロナギはしばらく使い物にならないと判断したのか、クロナギが伝えるはずだったらしいハルの明日からの予定を、代わりに説明し始めた。
「ハル様、食べながら聞いてください。前にもご説明していた即位のお祝いのパレードの事ですが、明日から順番に地方を回っていきます」
「うん、分かった」
「最初は中央地区、その後は北、西、南、東と同じようなパレードを五回行います。多くの国民がハル様のお姿を見にやってきますよ」
「うん」
嬉しいような緊張するような気持ちで、ハルは食事をしながらアナリアの話を聞く。
「私は何かやる事ある? 馬車、というか竜車に乗って、皆に手を振る以外に」
「いいえ、ハル様の仕事はそれだけですよ。けれど町をぐるりと回るのに一時間ほどかかりますし、それを数日かけて五回繰り返すわけですから、きっとお疲れになると思います。もし体調が悪くなれば、すぐにおっしゃってくださいね」
「うん、遠慮なくそうする」
我慢しても迷惑をかけるだけだという事は、旅の途中で風邪を引いた時に学習したのだ。
「パレードが終わったら、次のところへ行く前に一回一回この禁城へ帰ってくるの? それともどこかに泊まるの?」
「将軍たちの家に泊まるつもりです。それぞれの地区には要塞もありますが、ハル様が泊まるにはあまり適さない場所ですので」
石造りなので寒くて暗かったり、窓が小さかったり、部屋の内装も殺風景だったりするようだ。
「明日は中央地区――この禁城のある地区でパレードを行い、夜はレオルザーク総長のお屋敷に泊まります。近いので禁城へ戻ってきてもいいのですが、総長に招かれていますし、せっかくの機会ですから」
「レオルザークの家かぁ」
ちょっと楽しみだなと思いながら呟いた。
「そしてその翌日はドラゴンに乗って北へ移動し、ジン将軍の屋敷に泊まります。パレードは翌日の午前に行い、午後は西に移動、夜はラルネシオ将軍の屋敷に一泊します」
「うん」
「そして翌日午前にパレード、午後に南へ移動、夜はグオタオ将軍の屋敷――うちの実家に一泊し、翌日午前にまたパレードを行います」
「うんうん」
「午後に東へ移動、夜はサザ将軍の屋敷に一泊、そして――」
「翌日午前にパレード、午後は禁城に帰ってくる……て感じ?」
つらつらと説明するアナリアの言葉を引き継いでハルが言うと、「そうです」とアナリアは頷いた。
こうやって聞くと、六日間でドラニアスを一周するというなかなかハードな日程のようにも思える。ドラゴンで飛べば馬車よりずっと早く移動できるから可能な計画なのだろう。実際、時間の余裕は結構あるようだ。
「移動の時はドラゴンに乗り、パレードでは竜車に乗って、ハル様は基本的にずっと座っていていただけると思いますが、それでもやはりお疲れになると思います。その場合は将軍の屋敷に二泊以上して休息を取る事も可能です。パレードの日はずらせばいいだけですから」
「分かった、ありがとう」
「では私は、明日からハル様がパレードでお召しになる衣装の最終チェックがありますので、退室させていただきますね」
また新しい服を作ったのかと思いながら、ハルは尋ねる。
「アナリア、昨日はソルと寝ずの警備だったんでしょ? そろそろ休まないの?」
「衣装のチェックが終われば休ませていただきます。ソルが昼には起きてくるでしょうから、その後で」
「……あの、その時にクロナギも寝室に閉じ込めてきて。寝かせないと」
ひそひそと声を潜めてアナリアに耳打ちすると、アナリアはため息をついて、ハルの背後で肩を落として項垂れたままのクロナギを見た。
「一日くらい寝なくても死にませんから平気です。放っておけばいいのです」
突き放すように言ったものの、次にはクロナギを擁護するように小声でこう話した。
「ハル様、もしかして何か勘違いをされているかも知れないと思ったので言っておきますが、クロナギはハル様の事をとても大切に想っています」
「うん、それは分かってるよ。臣下として私の事を大事に思ってくれてるのは。でも……」
反論しようとしたハルの唇を人差し指で軽く押さえてから、アナリアは続ける。
「ハル様、私もクロナギも、竜人なら誰でもいいからハル様の婚約者にしようとしているわけではないのです。ただ、どこの誰とも分からぬ者にハル様を奪われるのは嫌なだけ。ハル様を任せられる信用できる者を、ハル様の未来の伴侶にしたいんです」
それは、あの紙に書かれている候補者たちはアナリアやクロナギの信用している者ばかりだと言いたいのだろうか。だから安心しろと。
指を唇に当てられたまま、ハルは不満げに眉を寄せた。まだ納得できない。
しかし拗ねたその顔もアナリアには可愛く映ったらしく、ほほ笑みを浮かべられてしまう。
そしてアナリアは笑ったまま立ち上がると、部屋を出て行くついでに婚約者候補が載っている紙を指差して、こう言い残していった。
「気が向いた時に、またこの候補者たちに目を通しておいてくださいね」
アナリアが出ていくと、ハルは再び食事を再開しながらぶつぶつと呟く。
「簡単に言うんだから……」
どちらかと言うと、アナリアも「ハル様に恋人や婚約者なんてまだ早い」と言ってくれる方だと思っていた。
過保護なはずのクロナギやアナリアが、二人の信頼できる誰かにハルの事を進んで託そうとしているのが納得いかない。見放された気分だ。
「婚約者ねぇ。お前にはまだ早いんじゃねぇの?」
オルガが腕を組んでそう言ってくれたので、ハルは目を輝かせ、思わず彼を見上げて「オルガ!」と感動の声を上げてしまった。
まさかクロナギやアナリアではなく、オルガが望んでいた言葉を言ってくれるとは。
「だってよ、俺はこの件には口出ししてねぇからその候補者たちってのが誰なのか知らねぇが、一番上の紙に書いてあるステイラーは二十九歳だぞ。色気なんて皆無な子どものハルの婚約者にするのは可哀想だろ」
しかし、続けられた言葉は望んでいた言葉ではなかったので、バシバシとオルガの腕を叩いてからまた食事に戻った。不機嫌に頬を膨らませているハルに、侍女が慌てて杏仁豆腐を勧めてくる。
ちらりと後ろを見てみると、クロナギはまだ項垂れたまま心ここにあらずといった様子でうつむいている。明日から各地を移動するのに大丈夫だろうか? ハルよりクロナギの方が体調を崩してしまいそうだ。
甘い杏仁豆腐を一口食べればハルの機嫌はとりあえずは直ったので、話を変えてオルガに尋ねる。
「ヤマトって今日は休みだっけ? それとも寝てる?」
「いや、あいつは夜のうちに休んで、今は仕事に出てる」
「禁城にいないの?」
「ああ、まぁな。これからヤマトの姿はしばらく見なくなるかも知れねぇが気にすんな。仕事だ」
オルガはバルコニーに続く扉から晴れた空に視線をやりながら答えた。昨日ラッチの父親に壊された扉は、すでに直されて元通りだ。
「何の仕事? ドラニアスにいる?」
「ああ、ドラニアス内での、ちょっとした調査だ」
「オルガ」
ハルとオルガの会話に割って入ったのはクロナギだった。やつれたような顔をしたまま、オルガに視線を向けて忠告する。
「分かってるって」
オルガは肩をすくめて言い、それ以上ヤマトの事を説明するのはやめてしまった。
ハルはオルガとクロナギの顔を順番に見ながら尋ねる。
「何?」
「何でもありませんよ」
「気になる」
ハルが食い下がるとクロナギは、
「今、ヤマトに任せているのは、ハル様が気にされるような仕事ではないので」
と控えめに、しかしこの話題を打ち切るように言った。
「ふぅん」
ハルは静かに言いながら、残りの杏仁豆腐を口に入れる。自分は関係ないと言われているようで、また少しもやもやした気持ちになる。
ヤマトは皇帝専属の護衛部隊である紫に所属しているのだから、自分の側にいない場合は、今どこでどんな任務についているのか気にするのは当たり前ではないだろうか。
ヤマトは自分に近しい臣下だから行動を把握している必要があるし、何か危険を伴う仕事だったらと心配にもなるのに。
クロナギは、明日から各地を回らなくてはならないハルが余計な事を考えなくていいように隠そうとしてくれているのかもしれないが、それはハルが望んでいる気遣いではなかった。
あるいは、まだ皇帝として未熟で何も分かっていないハルに仕事の事を説明しても無駄だと考えているのかもしれない。それなら悲しい。
もう少し食い下がってヤマトが何をしているのか説明を求めようかと思ったが、ただでさえ今のハルは婚約者問題でクロナギに少し不満を持っているので、これ以上何か言い合う気力は持てなかった。
クロナギは素直に説明してくれそうにないし、そうすればハルも普段よりきつい言い方をしてしまうかもしれない。色々な不満が爆発して、クロナギを酷く責め立ててしまうかも。
そうやって口論をして信頼関係に亀裂が入ってしまうのが怖くもあったので、ハルはそれ以上ヤマトの事を尋ねる事なく、口をつぐんだ。
「むせるぞ」
甘い杏仁豆腐を勢いよく口にかき込むハルに、オルガが呆れ顔で呟いた。
翌日、いつもより少し早めに起きたハルは、寝間着のままもそもそと朝食を食べ――マキナが今日も杏仁豆腐を運んできてくれた――その後でパレードのための衣装に着替えた。普段よりちょっと豪華な衣装だ。
即位式の時に一度つけたマントもまとい、寝る時に外していた指輪も忘れずつけていく。
ラッチも今日は首元に黄緑色のリボンを巻いてもらっていて、おめかししている。
時間になると、ハルはずるずるとマントを引きずりながらラッチや侍女たちと寝室を出た。
居室には、今日はヤマト以外の紫のメンバーが揃っていて、即位式の日のように彼らも黒い揃いのマントを身につけていた。
「おまたせ……」
ハルは床を見つめながら言った。自分のためのパレードだというのに気持ちは沈んだままだ。
クロナギとはあれからほとんど口をきいていない。昨日も「そろそろ夕食にしますか?」とか「暖炉をつけましょうか?」とか言うクロナギの言葉に、「うん」「ううん」と最低限の返事をしていただけ。
クロナギの方に一瞬だけ視線をやると、ハルよりさらに元気がない様子で、昨日より憔悴した顔をしていた。
クロナギがこんな状態になっている原因が自分だと思うと、意地悪だけど、少しだけ安心してしまう。クロナギにとって、自分はまだちゃんと大切な存在なのかなと思えるからだ。
「ハル様、今日の衣装もよくお似合いです」
近づいてきたのはアナリアで、ハルの顔を両手で包むと、おでこにキスを落とした。そうして「では行きましょうか」とハルを先導する。
アナリアやオルガは、やつれたクロナギの事を泥酔したソルと同じように見ているらしく、放っておいても問題ない、あるいは構うのが面倒くさいと思っている様子で基本的には無視している。
ハルとクロナギの間に流れる微妙な空気にオルガとアナリアは気づいているはずだが――ソルは何も気づいていないようだけれど――アナリアは昨日少しクロナギを擁護しただけで、それ以上二人の仲を取り持とうとする事はなかった。
ハルがクロナギを避けてアナリアにくっついたりしていると、フッと勝ち誇ったような笑みを浮かべる時もあるので、この状況を少し楽しんでいるふうでもある。
行き違いがあったとしても、最終的にハルとクロナギは仲直りをするだろうと思っているからこその余裕だろうが、ハルはそこまでの余裕は持てなかった。
クロナギとちゃんと仲直りできるのかは分からない。少なくとも今は、自分からは歩み寄れそうになかった。クロナギから婚約者を作るよう勧められたのはやっぱり悲しいし、ヤマトの事は自分にも知る権利があると思うからだ。
ハルは暗い表情のまま、マントの裾を侍女に持ってもらいながら禁城の一階に向かった。そうして外に出ると、二十人近い黄の竜騎士とドラゴンたちが待機していた。
これから皆に護衛してもらいながら、パレードを行う場所に向かうのだ。ハルの世話をするべく、侍女も二人ついてくるらしい。
黄系統のドラゴンたちの中には、紫色の体色を持つドラゴンも四頭いて、ハルが近づくとしっぽを振って歓迎してくれた。だが勢いよく振るので隣のドラゴンにバチバチと当たっている。
彼らはアナリアとオルガ、ソルとクロナギのドラゴンだ。
ハルは少し笑顔を取り戻して四頭を撫で、どさくさに紛れて甘えてくるラッチも撫でた後、さり気なくアナリアのドラゴンの隣に立った。鞍に手をかけアナリアを見て、乗せてと意思表示をする。
アナリアは一瞬クロナギを見た後で近づいてきてくれたが、ハルの手を取ったのはクロナギの方が早かった。さっきまで足取りが重かったのに、こういう時は素早く動けるようだ。
「こちらへ」
自分のドラゴンであるヨミの方へ連れて行こうとするので、ハルは足を踏ん張ってみたけれど、あっけなく持ち上げられて鞍の上に乗せられた。
「今日はアナリアと一緒に乗る」
「駄目です」
すぐに後ろに乗ってきたクロナギは、有無を言わさぬ口調で言う。
しかし言った後で反省したのか、声を落として謝ってきた。
「申し訳ありません。ですが……ハル様には俺の手の届くところにいていただきたいので」
今はクロナギと二人乗りするのは気まずいのだが、どうにも逃げられそうにないので、ハルは大人しく鞍を跨いだ。
クロナギは相変わらず過保護なのか、それともそうじゃなくなったのか、よく分からない。




