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会議から帰ってきたクロナギとアナリアは、バルコニーと部屋を隔てる扉が一枚なくなっているのを見て唖然としていた。片付けは迅速に行われたので、もう硝子片は残っていなかったが。
「……風通しが良くなったでしょ?」
ヤマトが冗談を言って場を和ませようとしたが、クロナギとアナリアは眉を吊り上げるだけだった。
「何があったのよ、ヤマト」
「説明しろ」
ソルはクロナギたちから説明役として不適切だと思われているようで問い質される事はなく、残ったヤマトだけが責められている。
実はクロツキとナギサも、クロナギたちが戻ってくる数分前に気配を察知して、さっさと自分たちの屋敷に帰ってしまっているのだ。
「言っておきますけど俺のせいじゃないですよ!」
ヤマトはまずそう前置きしてから、ラッチの親が扉に衝突したのだと説明を始めた。
アナリアは会議の疲れを滲ませながら溜息をつくと、
「これからはラッチたちが遊ぶ時には、バルコニーの外に黄の竜騎士たちを配置した方がいいわね。それかラッチたちを他の場所で遊ばせるか。まさかここに鉄格子をつける事はできないし。見栄えが悪すぎるわ」
と言いながら、ハルが寒くないよう、ハルの体に毛皮のショールを巻きつけた。扉がないので風が入って少し寒くはあるのだが、毛皮はちょっと暑い気もする。
「扉の修理は?」
「今やらせてます。急ぎで。夜までには直るようです。あそこにはとりあえず板でもはめ込んでおこうかと思ったんですが、ハル様がいいと言うので」
「そんなに寒くないし」
クロナギの問いにヤマトが答え、ハルも言葉を付け加える。
と、そんなやり取りをしていると、今度は大きな岩竜である一号と二号がやって来てバルコニーに降り立った。ハルに会いに来たのだろう。
そして扉が外れている事に気づくと、そこに二体で首を突っ込み、中を覗いてくる。
「隣の扉がミシミシ言ってるんですが……」
「また壊れちゃう!」
ヤマトは顔を引きつらせながら言い、ハルは慌てて立ち上がって岩竜たちに近寄った。
自分がバルコニーへ行けば岩竜たちも中に入ろうとはしないだろうと、二体の大きな頭を押しつつ外へ出る。
ハルが出ると、クロナギたちやラッチも後に続いた。
「真面目に鉄格子が欲しいですね」
最後にバルコニーへ出てきたヤマトが、苦笑いしながらそう呟いていた。
「ところで、会議って何を話してたの?」
岩竜たちが帰った後、ハルは部屋に戻ってからクロナギに尋ねた。
「アナリアは少し疲れてるみたいだけど」
「そんな事はありませんよ」
ちらっとアナリアを見ると、アナリアは一瞬、疲れていると気づかれた事に驚いたような顔をしてから、自然に笑みを作って言った。
けれどクロナギは意外と観察眼の鋭いハルを誤魔化せないと思ったのか、否定する事はせずにこう口を挟む。
「アナリアは議論の最中に少し感情的になっただけですよ」
クロナギがこうやってハルをなだめるような口調で話す時は、詳しい事を話すつもりがない時だ。
アナリアが感情的になるのはいつもの事と言えばいつもの事だが、疲れを見せるほどというのはよっぽどだ。
ハルはじっとクロナギを見て続けた。
「何を話していてそうなったの? クロツキは私の事で色々決めなきゃならないんだろうって言ってたけど……私の事なの?」
「父上が? あの人はお喋りですね」
「ねぇ、何を話してたの?」
「父は何と言っていましたか?」
なかなか答えを得られないので、ハルは唇を尖らせながら言う。
「紫を増やすんじゃないかって」
「そうですね。その話もしていました」
ハルをソファーに座らせてから、クロナギは話し合った結果を報告し始めた。
「レオルザーク総長も含めた将軍五人から、見込みのある部下を数名ずつ推薦してもらう事になりました。そしてその中から一人か二人を新しく紫に入れようかと」
「一番強い人を選んで入れるの?」
「強さはもちろん大事ですが、今は協調性のある者が欲しいですね」
そこでクロナギは当てつけるようにソルやアナリアを見た。たぶん頭の中では、今日は休日でここにはいないオルガの事も思い浮かべているのだろう。
「今回は育てるつもりで入れるので、若く素直な者だと隊長の俺としては嬉しいのですが。あとはヤマトのようにサポートができ、ヤマトのようにハル様に馴染め、ヤマトより戦闘ができる者が希望です」
「俺、褒められてるんですか? けなされてるんですか?」
あまり戦闘は得意ではないヤマトが、クロナギの言葉に喜ぶべきか悲しむべきか迷いながら呟いた。
とにかく新しい紫のメンバーは、戦闘能力だけでなく、ハルとの相性や協調性、普段の素行なども考慮に入れて決めるようだ。
侍女が淹れてくれたお茶を手に取りながら、ハルは再び追求した。
「それで、クロナギはさっき『その話〝も〟してました』って言ったけど、この紫の話題以外に何を話してたの?」
アナリアが感情的になったという原因は、紫に新人を入れるという話ではないだろうと予想して問う。
しかしクロナギもハルがそう訊いてくるだろうと予測していたようで、詰まる事なく答えた。
「ええ、もう一つハル様に話しておかなくてはならない事があります。こちらの話の方がハル様にとっては重要かもしれません」
クロナギはそう言って、部屋に戻ってきた時からずっと持っていた紙の束をハルの目の前のテーブルに置く。
「何?」
ハルは一番上に重ねられていた紙を手に取って、そこに綴られている文字を目で追った。
最初に書かれているのは名前のようで、その後に年齢や性格、身長、それに竜騎士団の黒所属だという事や、両親の名前などが記されている。
二枚目の紙を見ても、やはり名前や年齢、性格などが書いてあったが、こちらは竜騎士ではないようで、代わりに上級貴族のバレッジ家の子息だという情報が書かれてあった。
紙は全部で三十枚はありそうだが、この全てにハルの知らない誰かの情報が載っているようだ。
「これ、何?」
ハルは首を傾げると、改めてクロナギを見て尋ねた。クロナギはさらりと答える。
「ハル様の婚約者候補たちです」
「こっ……」
口を『こ』の形で固めたまま絶句した。アナリアやヤマトが心配そうに見てくる。
ドラニアスに着いた時、確か八賢竜の誰かがハルの婚約者を決めなければと言っていたのは覚えているし、皇帝になれば結婚相手を自由に選べない事もあるだろうと考えてはいた。
けれど、こんなに早く婚約者候補を並べられるとは思わなかった。
戸惑っているハルに、クロナギが冷静に声をかける。
「今までドラニアスの皇帝は比較的自由に恋愛をしてきました。必ずしも上級貴族や竜騎士から相手を選ばなければならないという事はなく、過去には一般庶民が皇帝に見初められた事もあります。結婚する年齢も自由で、例えばエドモンド様のお父上――ハル様のお祖父様は百歳を超えてから伴侶を見つけて結婚されました」
竜人の寿命は人間の倍――およそ一六○歳なので、それも有り得る話なのだろう。
クロナギはハルの隣で膝をつくと、僅かに目を細めて淡々と続ける。
「けれどハル様が自由に恋愛をする事は難しいのです」
ハルは静かにクロナギを見つめたまま続きを待った。
「何故ならドラニアスの者たちは皆、ハル様がエドモンド様のようになるのを恐れているからです。つまり、人間を好きになる事を」
少し間を置いてから、ゆっくり説明する。
「ハル様が人間を好きになった場合、辿る道は二つです。エドモンド様のように寿命の違いに悩み、別れを決めるか、種族の違いを乗り越えて結ばれるか。前者の道ではもちろん辛い思いをする事になりますし、フレア様と別れた後のエドモンド様のように、新たな伴侶を見つけようという気持ちをなくしてしまう可能性もあります」
フレアと別れて十年以上が経っても、エドモンドは新たな恋をする事はなかったようだ。
皇帝という立場にいるからには跡継ぎを作らなければならないという自覚はあっただろうし、将来は竜人の伴侶を得るつもりだったのかもしれないが、まだしばらくはフレアの事を想っていたかったのだろう。
「そして寿命の違いを受け入れて結ばれた場合でも問題はあります。ハル様の血の半分は人間ですので、ハル様が人間と結婚すれば、生まれてくる子は四分の一しか竜人の血が流れていない事になります。そしてそれは、ドラニアスの者たちにとってあまり歓迎できない事です。ハル様のように皇帝一族の血が途絶えたと思った後に現れるならともかく、最初から血の薄い子どもを歓迎するとは思えません」
竜人と結ばれるという道があるのだから、そちらを選んでほしいと思うのがドラニアスの国民の気持ちだろう。
アナリアもハルには竜人を選んでほしいと思っている様子で、こう口を挟んだ。
「ハル様はラマーンのティトケペル王子と親しくされていたので、皆、ハル様が彼に心惹かれてしまうのではないかと心配しているんですよ。ですから早く竜人の婚約者をと望んでいるのです」
「ルカとはそんなんじゃないのに。友だちだよ」
ハルが反論すると、アナリアの代わりに口を開いたクロナギも反論してきた。
「分かっています。しかしこの先どういう気持ちを持つようになるかはハル様にも分からないでしょうし、だから心配なのです」
クロナギもハルとルカが仲よくなり過ぎる事を危惧しているようだ。過保護で心配症なクロナギだから、他の誰よりもルカの存在を気にしているのかもしれない。
(そういえばクロナギからは前に、私にはまだ恋人なんて早過ぎるって言われたけど……)
まだアナリアたちと出会う前、トチェッカの宿での事だ。
しかし婚約者だって恋人のようなものなのに、それはいいのだろうか? 何故、婚約者の存在は許すのだろう。
いつかはハルも婚約者を作って結婚しなければならない、とは思っているだろうが、クロナギの性格を考えれば、たとえ相手が竜人であっても今はまだハルに婚約者は早いと言いそうなものだが。
それとも、クロナギの考えはあの時から変わってしまっているのだろうか? 冷静に婚約者の話を続けるクロナギに、ハルは少し違和感を覚えた。
「クロナギも、私には婚約者が必要だって思ってるの?」
確認のためにそう尋ねるが、クロナギはさらりとこう返すだけ。
「そうですね。早めに竜人の伴侶を決めていただきたいです」
何となく突き放されたような気がして、クロナギのその言葉は思った以上にハルの心を悲しくさせた。
反論しようにも喉が詰まったみたいに声が出せない。
唇を真一文字に閉じたまま、ただうつむく。
テーブルの上にある紙に書かれている婚約者候補たちは、きっとハルの知らない竜人たちばかりなのに、クロナギはハルの事を彼らに任せようとしているのだ。
もちろんハルが知らないだけでクロナギは彼らの事を知っているのかもしれないし、信頼できる人物だと分かっているからハルの婚約者となる事を許しているのかもしれない。
けれど、ハルが一番信頼しているのはクロナギなのに、そのクロナギがハルを他人に託そうとしている事が悲しい。すごく傷つく。
クロナギは臣下であり護衛だから、その立場さえ守れればいいのかもしれない。恋人や婚約者という立場には興味がないのかも。
ハルだって別にクロナギに恋人になって欲しいとは考えた事がなかったが……。
「ハル様……? 大丈夫ですよ。婚約者を決めたからといって、すぐに結婚とはなりませんから。ハル様が成人するまで、一緒にお茶をしたりしてゆっくり仲を深めていけばいいのです」
ハルの表情をどう捉えたのか、クロナギはそうつけ加えた。
けれどハルが不満に思っているのはそんな事ではない。竜人の婚約者を作るのも、結婚するのも構わない。
ただ、クロナギがこうやって婚約者を作る事を勧めてくるのが、何故だかとっても腹が立つのだ。
ハルの婚約者という立場に興味がないにしても、こんなふうに簡単に、クロナギが他の誰かとハルを引き合わせようとするのが嫌だ。
たとえ八賢竜や将軍たち、ドラニアスの国民がハルに婚約者をと要求しても、それを突っぱねてくれるのがクロナギだと思っていた。
クロナギはハルが恋には疎いと知っているだろうし、初恋すらまだだと気づいているかもしれないのに、竜人の血が薄れる事だけを心配して、ハルの婚約者を決めようとしているのだろうか。
「これは後で見るよ……」
ハルは婚約者候補が書かれた紙をテーブルに置いたままソファーから立ち上がると、寝室へ向かった。
「ハル様」
声をかけてきたアナリアに、「ちょっと休む」と振り返らないまま答える。
アナリアが目配せをしたのだろうか、部屋の端で控えていた侍女たちが慌ててハルの後を追ってきて、あまり事態を分かっていないであろうラッチも一緒に寝室へ入ってくる。
クロナギも同じくついて来ようとしたけれど、
「クロナギは来ないで」
ハルが振り返って言ったその一言で、氷のように固まってしまった。
ヤマトとソル、アナリアがクロナギを憐れむように見ている。
少し罪悪感を感じたものの、ハルはいまいち迫力のない顔でクロナギを睨んだ後、寝室に篭った。心がもやもやして、今はちゃんと婚約者の事を考えられそうにないから。
ラッチは空気を読まずにハルを遊びに誘ってくるけれど、侍女たちはベッドを整えてハルに毛布を被せてくれた後は、何も訊かずに放っておいてくれた。別に体調が悪くなったわけではないと分かっているらしく、必要以上に心配される事もなかった。
こうして、ハルの頭の中はクロナギと自分の婚約者の事でいっぱいになってしまったので、アナリアが感情的になったという会議の内容が何だったのか、結局、問い質す事はできなかったのだった。




