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平凡なる皇帝  作者: 三国司
第五章 混血と婚約者と平凡なる皇帝と

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 ハルがドラニアスの皇帝になって二日目。つまり即位式の翌日。

 朝の十時近くになっても、まだハルはベッドの中にいた。昨日は日が落ちてから貴族たちとの夜会が行われたのだが、それが盛り上がって深夜まで続いたので、眠るのが遅くなったのだ。


 夜会は禁城の一階で行われた。即位式の時に貴族たちが座っていた椅子は休憩用に壁際に並べられて、大広間は華やかに飾りつけされていた。

 夜会といえばジジリアでは男女でダンスを踊ったりするけれど、ドラニアスにはあまりそういう文化はないようで、幸いな事に、皆が見ている前でハルがダンスを踊らされる事はなかった。始まりに竜騎士が十人ほど出てきて力強い剣舞を舞ったくらいだ。


 夜会の最中、ハルはほとんどずっと玉座に座っていて、次から次へと挨拶に来る貴族たちの顔と名前を覚えるのに必死だった。

 そしてクロナギの両親とも昨日、初めて顔を合わせた。二人とも艶やかな長い黒髪で涼し気な顔立ちをしており、クロナギに似た美形夫婦だった。

 見た目が若いという事もあって、特に父親の方は、クロナギが髪を伸ばしただけなのではと思うくらいそっくりだった。

 ただ、もう現役を退いたという事もあって、クロナギより柔和で穏やかな表情をしていた。

 二人は今日からハルに行儀作法を教えに城に通ってくれるので、また会うのが楽しみだ。


 そして夜会が始まる数時間前――即位式の直後にはバルコニーに出て、正面広場に集まった人々に手を振って応えた。

 ハルが手を振った時に巻き起こった国民の大歓声と笑顔。楽しげに空を飛んでいる野生のドラゴンたち。そしてハルの後ろに控えていたクロナギたちの満足そうな顔。警備をしながらも今日という日を喜んでいる様子の竜騎士たちの姿。それらの光景は強くハルの印象に残った。

 皆がハルに期待してくれていると分かったので、その気持ちに応えられるよう頑張ろうと改めて思ったのだった。


 ちなみに国民へのお披露目はこれで終わったわけではなく、また三日後にはドラゴンの引く車――つまり引く動物が違うだけの馬車――に乗って中央地区でパレードを行い、国民からの祝福を受け、それが終われば北、西、南、東と場所を移して順番に同じ事をやるようだ。

 慣れない事なので少し疲れそうではあるが、地方へ行くのも、近くでドラニアスの人々の顔を見られるのも楽しみだった。


 と、ベッドの中でまどろみながら昨日の事を思い返していると、


「ハル様、おはようございます。そろそろ起きられますか?」

「うぅん……おはよう」


 いつものように侍女が起こしに来たので、ハルは伸びをしてから目を開けた。


「クロツキ様もナギサ様も、もう城に着いておいでですよ」

「え、早い」

「予定は十一時からでしたが、少々早く来られたようですね」


 侍女は苦笑しながら答える。一時間も早く来たのだから少々ではないような気がするが。

 ちなみにクロツキとはクロナギの父親の名前で、ナギサは母親の名前だ。


「急いで支度しなきゃ」

「ゆっくりで大丈夫ですよ。クロツキ様たちも、ハル様は疲れているだろうから十分寝かせてあげてとおっしゃっていますし。……でも、もうそちらの居室の方に来られてますが」


 侍女は再び苦笑して言った。


「それと、ラッチの親ももうバルコニーに姿を見せています」

「じゃあラッチも起こさなきゃ」


 ハルと同じく寝坊しているラッチを起こしつつ、慌てて身支度を整え、寝室から出る。

 するとそこにはクロナギ、アナリア、ソルと談笑しているクロツキとナギサがいた。正確に言うとソルは喋っていないが。

 バルコニーにはラッチの両親がすでに待機していて、我が子が外に出てくるのを待っている。


「ラッチをバルコニーに出してあげて」


 侍女にそう頼んでから、ハルはクロナギたちの元へ向かった。

 ハルが起きてきた事に気づくと、クロツキはクロナギにそっくりの顔で優しくほほ笑んだ。


「ああ、もう起きたの? すまなかったね、急がせるつもりはなかったんだけど」


 長い黒髪をそのまま背に垂らしているクロツキは、顔はクロナギと一緒だが、どちらかと言うと線が細くて男臭さというものがないので、そういう点では少しサイファンにも似ている。

 優雅な足取りでこちらに近づいてきたクロツキは、しかしやはり元竜騎士と言うべきか、軽々とハルを抱き上げてみせた。


「よく眠れたかい、ハル?」


 優しく目を細めて訊いてくる。昨日はハルの事を「陛下」と呼んでいたが、私的な場では名前で呼んでくれるようだ。その方がハルも嬉しい。

 しかしクロナギはそんな父親に厳しく注意をする。


「不敬ですよ」

「いいじゃないか。エドモンド様の代わりになんてとてもなれないけれど、僕を父親のように頼ってもらえればと思ってね」

「父親代わりになろうとするのは、将軍たちだけで十分です」


 疲れた顔をしてクロナギが言うけれど、クロツキはあまり息子の言葉を真剣に聞いていない。結構マイペースな性格のようだ。

 一方、母親のナギサの方は夫ほど自由奔放ではないけれど、クロツキを諌める事はせず、同じように親しげにハルの頬を撫でた。


「おはよう、気分はどう?」


 ナギサは控えめでクロツキほどお喋りではないが、こちらも元竜騎士なので、仕草や言葉の端々に、時々勇ましさも見え隠れしているように思えた。アナリアから若さゆえの尊大さを取り、尖った角を少し丸くしたような性格の美人だ。

 懐かしそうに緑金の瞳を見つめてくるナギサを、ハルも笑顔で見返した。


「とってもいいよ。ナギサやクロツキに会えたから」

「嬉しい事を言ってくれるのね」

「このままうちに連れて帰ってしまいたくなるね」


 ナギサがもう一度ハルの頬を撫で、クロツキがこめかみにキスをしてくる。そして向こうではクロナギが据わった目をして父親を見ている。

 ナギサもクロツキもすごく優しいのだが、しかしハルをだらしなく甘やかしてくれはしないようだ。ハルが「でも、ちょっとお腹が空いてる」と続ければ、


「ふふ、そうよね。じゃあテーブルマナーの勉強をしながら食事をしましょうか」

「それがいい。箸の使い方も覚えないとね」


 なんて、すかさず授業を挟み込んでくるのだから。

 ハルが嫌な顔をすると、「これも君のためだよ」とクロツキが笑った。



 クロツキとナギサに指導されながら食事を終え、お茶を飲みながら一息ついたところで、ハルはふと部屋の中を見回して言った。


「あれ? クロナギとアナリアがいない。代わりにいつの間にかヤマトが来てるし」


 二人の姿がいつの間にか部屋から消えて、代わりにヤマトがソルの隣に立っていたのだ。ハルが振り向いて驚いた顔をすると、ヤマトは口の端を持ち上げて得意げな顔をした。気配を消すのはお手のもののようだ。

 ハルと一緒にテーブルについていたクロツキは、美しい所作でお茶の入ったカップを手に取って言う。


「おや、気づいてしまったか。ハルに気づかれないよう、クロナギたちには静かに退室させたのに」

「どうして?」

「クロナギたちがいなくなると、ハルは寂しくなってしまうかと思ってね」

「私、そんなに子どもじゃないよ」


 ハルはすかさず言った。どうも竜人たちからは子ども扱いをされがちだ。クロナギやアナリアの姿が見えなくなったからと言ってぐずったりしないのに。


「それでクロナギたちはどこへ行ったの?」

「大丈夫だよ、一、二時間もすれば戻ってくるから」


 改めて訊くが、クロツキは慰めるようにハルの頭を撫でるだけだ。

 だから、別にぐずっているわけではないのだが。


 ナギサも笑ってお茶を飲んでいるだけだし、二人からは答えを貰えそうにないので、ハルは自分の後ろに立っているソルとヤマトを振り返った。

 するとヤマトはいつも通り親しげに、ソルは目だけでハルを見下ろしながらこちらもいつも通り無表情で答えをくれた。


「会議ですよ」

「会議」


 分かりやすく明確な返答だ。ハルは納得して頷くと、また前を向く。


「会議かぁ。何の会議だろう。何気によく会議してる気がするけど」


 ハルが眠っている間、夜中にもしているようだし。

 ハルの呟きにはクロツキが答えた。


「皇帝が代替わりすれば、色々と新しく決めなければいけない事も出てくるからね。こんなに幼い混血の皇帝というのは初めて事だし」

「混血の皇帝が初めてなのは分かるけど、十代の若い皇帝も初めてなの?」

「十代の皇帝は、初代皇帝以来だね。初代は十八歳で即位されたと記録にある。ちなみにその次に早かったのがエドモンド様の二十六歳だ」

「父さまも早い方だったんだ?」

「そうだね。竜人の寿命は約一六○年あるから、普通、皇帝はその地位に長く就き、その分その御子が即位する年齢も上がるんだけど、エドモンド様のお父上はかなり高齢になってから子をもうけられたからね。エドモンド様は若くして後を継がれたんだ」


 ハルは「ふぅん」と相槌を打った後で、


「それで、私の事で色々と決めなきゃならない事って何だろう?」


 と話を戻した。


「色々は色々だよ。そのうちクロナギあたりが話をするだろう」

「気になるなぁ」


 教えてほしいと言うようにハルがクロツキを見上げると、彼は僅かに笑い声を漏らしてから答える。


「僕やナギサは詳しくは知らないんだよ。会議に参加しているわけではないからね。けれど大体想像はつく。心配している事は皆同じだからね」

「心配している事って?」


 クロツキはそこで少し間を置いて、ナギサと一瞬視線を合わせた。

 けれど次にはまた優しくほほ笑んでこう言う。


「……そうだな、例えば最近の議題の一つは『ヴィネストの増員について』だと思うよ。ハルの身の安全は最優先事項だから」

「今の五人より増やそうとしてるの? でももう十分だよ。しょっちゅう外国へ出るならともかく、今のところその予定はないし、ドラニアスでの生活はすごく平和だもん」


 ジジリアで生まれたハルとしては外国と繋がりを持って行きたいし、人間のいいところは見習おうというエドモンドの意思を継ぎたいとは思うのだが、竜騎士たちも国民もしばらくはそれを許さないだろう。

 エドモンドの過ち――誰もそんなふうに言わないけれど、初対面のラマーン王を信頼して二人きりになってしまったエドモンドの行動は確かに過ちだった――をハルが繰り返す事はできないし、今の国民感情を考えると、少なくともこの先数年はハルが外国へ気軽に訪問する事はできないんじゃないかと思う。

 国民はハルとルカが仲良しだという事も知らないのだ。


 なのでハルも無理に外国を訪問する気はなかった。と言うか、まだ皇帝になったばかりなので、国内の事に目を向けるだけで今は精一杯で、外交にまで意識が向いていないのだ。

 友人として、ルカにはたまに会いたいなと思っているけれど。


 だからハルはしばらくは国に引きこもるつもりだが、即位式の日の貴族や国民たちの様子を見るに、現時点でハルに対しての暴動は起こりそうもないし、皇帝になれるのは皇帝一族だけなので、ハルの地位を奪おうとしているような臣下もいないだろう。

 国内にいれば危険はないと思えたし、だから専属の護衛がたくさん必要だとは思えない。

 クロツキも頷いて言う。


「元々、ヴィネストは少数精鋭の部隊だからね。増やすと言っても、まずは一人か二人という話だと思うよ。あまり多過ぎても、いざという時に統率が取れず動きにくいし」

「うん」

「けれど、ドラニアスでの生活においても、ハルにとっての危険は存在するんだよ。この禁城の中も完全には安全じゃない。ヴィネストだけでなく、レオルザークや大勢のジラスタの竜騎士が守っていても、必ず隙はできるものだからね」

「隙……?」


 ハルが首を傾げて尋ねると、クロツキは意味ありげに漆黒の瞳をスッと細め、目だけで笑う。

 そういう表情をすると、まるで悪い事を企んでいるように見える。


「危機というものは、予想もしていないところから突然にやってくるものなんだよ」

「どういう事……?」


 戸惑いつつ相手を見つめると、クロツキは目を細めたまま笑顔は消して、ハルの方へと腕を伸ばしてきた。


「今に分かる」


 すると――


「ハル様……っ!」


 突然、ヤマトが焦ったように叫んだ。

 それと同時にハルの体はクロツキに捕われ、背後からは硝子が割れる大きな音が響いてきた。


 回る視界の中でハルは何が起きたか分からずに混乱していたが、ほんの一秒か二秒後には、全ての動きは止まっていた。

 クロツキが静止したので、彼に抱かれていたハルも周りの光景を目に映す事ができた。


「……?」


 とは言っても、ハルの視界に映ったのは、自分を抱くクロツキの顔と、ソルやヤマトの背中だけだ。


「ハル様」


 廊下側の扉近くに立っていた侍女たちが、ハルを心配して駆け寄ってくる。

 ハルは状況を把握しようと、ソルたちを避けるように首を伸ばし、前を見た。

 そして目を丸くて小さく叫ぶ。


「ドラゴン!?」


 バルコニーと部屋を隔てる硝子扉のうちの一枚を壊して、ドラゴンが部屋の中に飛び込んできていたのだ。

 おそらく勢いよくぶつかったのだろう、倒れた衝撃で扉の硝子は粉々に割れ、周囲に飛び散っていた。

 赤い鱗のこの飛竜はラッチの父親だが、本人はきょとんとした顔をして割れた硝子の上に座り込んでいる。

 一方、バルコニーにいたラッチと、ラッチの母親である黄色いドラゴンはびっくりした顔をしてこっちを見ていた。


「何が起こったの?」


 説明を求めてクロツキを見る。クロツキはのんびりと言った。


「ハルはバルコニーに背を向けていて見えなかっただろうけど、あの三頭がバルコニーでずっとじゃれ合っていたんだよ。そのうちあの赤いドラゴンが、顔だけ向こうを向いたまま、はしゃぎながらこちらに飛んできて……それで扉を突き破ったんだ。遊びに熱中していて前をよく見ていなかったんだね」


 赤いドラゴンはラッチの父親だけあって結構やんちゃなのだろう。

 硝子は先ほどまでハルが座っていた椅子やテーブルにまで飛んできていたので、あのままあそこにいれば怪我をしたかもしれない。それをクロツキが助けてくれたのだ。ヤマトやソルもハルの壁になって、飛んでくる硝子を防いでくれた。

 一方ナギサはと言えば、ハルの事はクロツキたちが助けると分かっていたようで、その場から動いていない。慌てる様子もなく、足を組んで椅子に座ったままお茶を飲みつつ、テーブルの上に飛んできた硝子の細かい欠片を素手で払い落としている。


「みんな大丈夫? 怪我は……?」


 ハルはナギサやクロツキ、ソルやヤマトに侍女たちを見て言ったが、全員怪我はないようだったので、今度はラッチの父親であるドラゴンへ顔を向けた。


「ラッチのパパも手当てしてあげないと」


 やっと自分が扉にぶつかった事を把握したらしい赤いドラゴンは、あまり痛そうな様子は見せずに立ち上がって、ブルルッと体を振った。一見怪我はないように見えるが、よく観察すると顔や体に硝子片がいくつか刺さっている。


 ハルの言葉を受けてヤマトが動いてくれたが、ラッチの親は野生のドラゴンなので、近づいてきたヤマトを警戒して軽く唸り声を上げた。ハル以外の竜人にも慣れてきたように思えたが、まだ近づかれるのは怖いようだ。


「大丈夫だよ。硝子を取るだけ」


 しかしハルが声をかけると、眉のような部分をハの字にして大人しくなった。ヤマトが硝子を取るとチクッとしたのかまた少し唸って文句を言っていたが、攻撃をしたりはしない。


「こんなもんかな」


 硝子片を捨てると、ヤマトはドラゴンの体を見てそう呟いた。

 と同時に、赤いドラゴンは慌てて外へと出ていく。ラッチや黄色いドラゴンが『大丈夫?』と言うように駆け寄ってきた。


「あ、まだ血が出てるのに」

「大丈夫ですよ。あれくらいはドラゴンにとってかすり傷ですから、放っておいても。また明日以降もラッチに会いにここへ通ってくるでしょうから、もし化膿していたらとっ捕まえて消毒しましょう」


 ヤマトが赤いドラゴンを見送りながら言う。

 ドラゴンが部屋から出ると同時に、侍女たちがほうきやちりとりを取りに行き、バタバタと片付けの準備が始まった。部屋の外で警備のために立っていたらしいジラスタの竜騎士たちも、何事かと部屋を覗いてぎょっとした顔をした後、慌ただしく侍女たちを手伝い始めた。


「さて、では反省会だ」


 部屋を行き来する侍女や竜騎士たちを横目に、クロツキはハルを抱き上げたまま、ソルとヤマトの方へ体を向けた。ナギサも立ち上がってこちらへやって来る。

 ソルの表情は変わらないが、ヤマトは目を泳がせた。


「まず、ソル。お前の動きは大方よかったよ。お前もバルコニーに背を向けていたけれど、よく反応したね。相変わらず反射神経は獣並みだな。けれど今回は剣を抜く必要はなかったはずだ」


 クロツキは、ソルが右手に持っている曲刀に視線を落とした。ソルは二本の曲刀を背負っていたが、今はそのうちの一本を抜いていたのだ。


「とっさに剣に手をやるのは仕方がないけど、抜くまでするのは無駄な動きだ。お前はその時もうすでに突っ込んでくるドラゴンを目に映して、剣では止められないと分かっていたはずだからね。剣を抜いている間にハルを移動させるべきだった」


 ソルは面白くなさそうな、けれど指摘を素直に受け入れてもいる様子で、剣を鞘に仕舞う。


「そしてヤマト」

「う、はい……」


 ヤマトは背筋を伸ばし、姿勢を正す。


「お前の動きも悪くはなかったけれど、反応するのが遅かったね。お前の位置からだと視界の端に動いているドラゴンたちが映っていたはずだ。何をぼーっとしていた。部屋の中でも常に周囲に注意を向けろと、僕は教えていたはずだ」

「すみません、ちょっと、会議の事が気になっていて……。それにクロツキ様たちがおられたので気を抜いていました」

「僕らはもう引退しているのに頼られても困る」

「す、すみません」


 ヤマトは冷や汗を拭って繰り返した。

 もうその辺にしてあげてと、ハルがクロツキの服を引っ張ると、クロツキはにっこりほほ笑んでこちらを見た。そしてまたソルやヤマトの方を見て続ける。


「まぁでも、僕も思わず手を出してしまったけれど、そうしなくてもお前たちはちゃんとハルを守れただろう。今回は及第点と言ったところかな」


 ヤマトはホッとした顔をした後で、じっとりとクロツキを見てこう言う。


「クロツキさんとナギサさんが現役復帰してくだされば、ヴィネストに新人を入れる必要もなくなるんですけど……」


 ハルもクロツキを見つめたが、クロツキは口元に笑みを浮かべたまま静かに首を横に振った。


「僕らは皇帝を守れなかったんだ。当時、紫の隊長だった僕の責任は重い。それに僕やナギサの気持ちとしても、もう紫に戻るつもりはない。やはり若い頃より体力も落ちてきたと感じるしね。老後はゆっくりさせてくれ」


 見た目は若いクロツキから老後なんて言葉が出てくると、何だかおかしく感じてしまう。実際、まだお爺さんという歳ではないのに。

 クロツキは続ける。


「護衛としての知識や技術はクロナギに叩き込んであるし、僕らが戻らなくても今のメンバーでやっていけるだろう。若い新人を迎えるのもいい事だよ」


 クロツキやナギサの気持ちは揺るがないらしい。しかしそれは、自分の息子や今の紫のメンバーを信頼しているという事でもある。

 クロツキはヤマトからハルに視線を移して言う。

 

「ハル、僕らは常に君の側にいるわけではないけれど、何かあればいつでも頼ってきてほしい。紫とは違うところで君を守る事もできるかもしれない。僕のような上級貴族の知り合いを作っておくと色々と便利だよ」


 クロツキは冗談めかしてそう言って笑ったので、ハルも「うん」と頷きながら笑った。

 クロツキやナギサが紫に戻ってくれれば、きっととても頼りになるだろう。けれど、ハルにとって一番信頼できて頼りになるのは今の紫の五人なのだ。

 クロツキやナギサの事は好きだが、本人たちに現役復帰の意志がないなら、戻ってきてほしいと頼むつもりはない。行儀作法の授業でこうやって会えるなら、それでいいとハルは思ったのだった。

 



『平凡なる皇帝』を書籍化していただける事になりました!ありがとうございます。

詳しくは活動報告で。

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