20
一階の大広間の脇で、ハルはそわそわと耳をそばだてていた。
いよいよ即位式が始まる。
ハルの目の前には重厚な扉があって、ハルがいる廊下と、すでに貴族たちが集まっているであろう大広間を隔てている。
「準備はいいですか?」
クロナギにそう訊かれたが、反射的に「まだ」と返したくなった。
しかし大広間では、ハルの心の準備を待たずに鼓笛隊の演奏が始まってしまう。演奏はハルを鼓舞するような力強いものだ。緊張が最高潮に達し、ハルは落ち着きなく指を動かす。
お喋りをしていた貴族たちの声もピタリと止まり、全員の視線がこの扉の外に集まっていると感じた。
「い、いつ出ればいいんだっけ? 音楽が終わってから? もう出ていいの?」
そわそわしながら振り向いて、後ろに控えていたクロナギや紫のメンバー、サイファンを頼る。
「落ち着いて。そろそろです。扉が開いたら出てください」
勇気づけるようにクロナギがハルの背中に手を添えた、その時。
向こう側に立っていた竜騎士二人の手によって、目の前の扉がゆっくりと開かれた。
大広間には思ったよりも大勢の貴族たちが集まっていたので、ハルは目をぱちくりさせる。
よそ見をしている者や、興味がなさそうな顔をしている者などは残念ながら一人もいなかった。そういう者が何人かいればハルの緊張も少しは和らいだのだが、彼らは今日のために並べられた椅子に座り、全員がハルに注目している。
「ハル様」
クロナギにそっと背中を押され、ハルは一歩前に進み出た。そしてその勢いのまま、ぎくしゃくと腕を振り、足を動かし、玉座の階段の前に立っているレオルザークを目指して歩く。
膝も肘も曲がっていないハルの動きはかなりおかしかっただろうが、大広間にいた貴族たちからは笑い声ではなく、ホッとしたような、言葉にならないため息が漏れていた。
ハルの顔がエドモンドと似ていた事、瞳が美しい緑金である事が確認でき、間違いなく皇帝一族の血を継いでいると分かって安堵したのかもしれない。
竜人たちは皆、新たな皇帝を望んでいると言っても、エドモンドとは似ても似つかない混血の子どもが出てくれば気持ちは複雑だっただろうから。
ぎこちない動きのままレオルザークの前に立つと、レオルザークからは不安そうな視線をもらってしまった。ハルがあまりに緊張しているので心配されているみたいだ。
大丈夫ですか? というように視線で問いかけられた気がするので、全く大丈夫ではなかったけれど、ハルは大丈夫だと答えるようにコクコクと小さく二度頷いた。
と、その時、鼓笛隊の演奏が終わって、大広間がしんと静まり返る。
音が消えた事で、ハルは自分に集まるたくさんの視線を一層強く感じた。僅かな身じろぎも、呼吸のために開いた唇の動きも、まばたきの回数も、しっかりと観察されているような気分だ。
(緊張し過ぎて倒れそう)
レオルザークが後ろから近づいてきた竜騎士にマントを手渡されているのを見ながら、そんな事を思う。
レオルザークは深緑色のビロードのマントを受け取ると、それを丁寧な手つきでハルの肩に掛けた。
「いつも慈悲深くあるように」
と、声をかけながら。
マントの丈はハルには長いので、裾はかなり余って床についてしまっている。これは代々の皇帝に受け継がれるものなので、ハルに合わせて裾を切ったりはできなかったのだ。
続いて、先ほどとは別の竜騎士が今度は金色の長い杖を持ってきて、またレオルザークに手渡した。いわゆる王笏だ。先端には、宝石を抱えたドラゴンの装飾がついている。
宝石はハルの瞳と同じ色の〝皇帝の石〟だが、これ一つで小さな国が買えるのではないかという大きなものだった。
「いつも堂々とあるように」
レオルザークが静かに差し出してくるその杖を、ハルはしっかりと両手で握って受け取った。結構重いので片手で持つのは不安だったから。
そして三人目の竜騎士が持ってきたものは冠だ。ハルは少し頭を下げてレオルザークにそれを被せてもらう。
「いつも賢くあるように」
これも皇帝の石や他の宝石がたっぷりついていて重い。
マントも杖も冠も大人サイズでハルには大きいので、間抜けに見えているんじゃないかと心配になる。
けれどハルの視線の先、大広間の端の方で並んで立っていたグオタオ、ジン、サザ、ラルネシオの四将軍にふと視線をやると、子どもや孫の晴れ舞台を見ているかのように満足げな表情をしていた。
そして最後に、四人目の竜騎士がレオルザークに手渡したものは、フレアの形見でもある指輪だった。今朝のうちに指から外して、サイファンに預けておいたのだ。
レオルザークはハルの左手を取ると、中指にその指輪をはめた。
「――いつも笑顔であるように」
あれ? と思ってハルはレオルザークを見上げる。
昨日の予行では、ここで掛けられる言葉は「いつも公正であるように」だったはずだ。
(レオルザークが変えたのかな)
そう予測をつけながら、マントと杖、冠と指輪を身に着けたハルは玉座の方に体を向けた。五段ほどある階段を上って、これからあの椅子の前に立たないといけないのだ。
普段なら何てことない動作だが、長いマントを引きずり、重い杖を持って、サイズの合わない冠を被っている今、それはとてつもなく難しい事に思えた。
ハルはごくりとつばを飲んでから、慎重に階段を登り始める。
気のせいか、レオルザークを始めとする竜騎士たち、それに貴族たちも、背後で息を呑んでハラハラとハルを見守っている気がする。
ちらりと斜め後ろを見ると、いつの間にか紫のメンバーも階段の前に整列して立っていた。クロナギたちの視線も心配そうだ。
普段ならきっとすぐに誰かが出てきてハルを支えてくれるだろうけど、今は一人で玉座に上がらねばならない。
あそこに立てるのはハルしかいないのだから。
ハルは再び前を向き、一歩一歩ゆっくりと段を踏んだ。そうして玉座に到達すると、ハルはマントを翻し――なんて格好良く振り向く事はできなかったので、長いマントの裾をずるずる引きずりながら、大広間を振り返った。
緊張はしていたけれど、先ほどレオルザークに言われたように『堂々と』見えるよう、胸を張って大広間を見渡す。皇帝となる人物が体を縮めていたら、皆が不安に感じてしまう。
それによくよく顔を見てみれば、貴族たちは皆、優しい表情をしていた。誰一人としてハルを睨んだり、笑ったり、蔑んだりしている者はいない。
皆ハルの事をまだよく知らないので、「混血だが、はたして皇帝に相応しい人物なのか」と不安に思う部分もあるかもしれないが、最初から拒絶や否定をするのではなく、応援しようとしてくれているようだった。
「第十五代ドラニアス帝国皇帝、ハル・リシュドラゴ陛下の誕生だ!」
大広間全体に届くような声で、レオルザークが高らかに宣言する。
「この一年、我々は闇の中にいた。しかし今、こうしてまた光を得る事ができた。ドラニアスは決して滅びる事はない! 皇帝陛下の下、我々は一つである!」
「皇帝陛下、万歳!」
レオルザークに続いて、グオタオがすぐさま拳を突き上げて叫ぶ。
すると、この場にいた竜騎士や貴族たちも呼応するように声を上げ始める。「万歳!」と両手を上げる者もいれば、立ち上がって拍手をする者、静かにハルに向かって頭を垂れる者もいた。
「わわっ……」
皆の雄叫びに圧倒されて、ハルは思わずよろめいた。
しかし足に力を入れると、すぐにまた胸を張って、しっかりと玉座の前に立つ。
「ふふ」
そうして『いつも笑顔であるように』という先ほどのレオルザークの言葉を思い出して、ハルはえくぼを作って笑った。
僅かに残る緊張と、そして高揚感、無事に皇帝になれたという安堵。様々な感情が混じり合っていたが、大広間にいる竜人たちが自分を受け入れてくれたという嬉しさが、他の全ての感情を飲み込んでいったのだ。
「えへへ」
だからハルは締まりのない顔でふにゃふにゃ笑う。
強く威厳のある皇帝とは程遠い、小さくて平凡な皇帝だが、ハルが笑うと皆つられて笑ってしまうらしい。
結局ハルの即位式は、最後は皆が笑顔になって終わるという、平和な式になったのだった。




