22
翌朝、まだ薄暗いうちにハルは目を覚ました。
どうやらクロナギに抱かれたまま眠ってしまったようで、今もハルは土の床に座る彼の脚の上に乗せられている。
「荷物はラクダに?」
「ええ、少し重いので。ここに残していくものは自由に使ってくださいね。持ちきれない食料も置いていくので、腐らないうちに食べてしまってください」
会話をしているのは、クロナギとハディだった。二人ともまだハルが目を覚ました事に気づかない。
ハディはすでに荷物をまとめていて、集落の人々と一緒にここを離れるため、家を出ようとしているところのようだ。ハルがクロナギの膝の上に乗っているのは、寝具をハディが持っていくために使えなかったからなのかもしれない。
「世話になってばかりで申し訳ない。ハル様を助けて看病してくれた事にも心から感謝する」
クロナギの声は誠実だった。ハディはクロナギに見つめられて照れた様子で顔を赤らめる。
「竜騎士の方からお礼を言われるなんて……。当然の事をしただけです」
「どうかこれを受け取って欲しい」
クロナギが手渡したのは、小袋に入った世界共通通貨だった。
「いいえ、そんな。お金なんていただけません」
「しかし、嫌な話をして申し訳ないが、明日もしラマーンが負ければ金が必要になる場面も出てくる。サイポス兵に目をつけられた時にいくらか渡せば見逃してもらえるかもしれないし、あるいはジジリアへ逃げなければならない状況になった時にも使えるはずだ。一緒に逃げる集落の者たちのためにも、持っていった方がいい」
ハディは迷ったようだったが、最後の言葉に納得して遠慮がちに小袋を受け取った。
と、そこで近くにいたらしいヤマトも口を開く。
「護身用にこれも持って行けよ。小さいけど切れやすくて、女や子どもでも扱いやすい」
小型のナイフがヤマトの手からハディに渡った。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちの方だって」
と、そこで、やっとぱっちりと目を開けたハルも会話に加わる
「ラクダに荷物積むの、手伝おうか?」
「まぁ、起きてたの?」
「今起きた。もう出発するんだね」
クロナギの肩に手をついて、上半身を起こす。
ハディはショールを被りながら答えた。
「ええ、暑くならないうちにね。目を覚ましてくれてよかったわ。ハルに一言言ってから家を出たかったけど、よく寝ていたから声を掛けられなくて……」
そう言って、ハディはちらりとクロナギへ視線を向けた。寝ているハルに遠慮してというより、番犬のようなクロナギに気後れして、ハルを起こせなかったらしい。
「気をつけてね、ハディ。この戦いが終わったらまた会おうね」
「そうね、そうできればいいけど……」
ハディが暗い顔をするので、ハルは彼女を安心させるように笑う。
「大丈夫、きっとラマーンは勝つよ。ルカも殺させないように私にできる事は全部するから」
「……ありがとう。だけど無理はしないで。ルカや仲間の事ばかり気にして、自分も危うい立場にいる事を忘れちゃ駄目よ、ハル。自分の身もちゃんと守らないと」
「分かった」
ハルがクロナギの膝に座ったまま腕を伸ばすと、ハディはそれに応えて抱擁してくれた。ハルを抱きしめれば必然的にクロナギとの距離も近くなるので、ハディの褐色の肌は耳まで赤くなっている。立ち上がって抱擁すればよかった、とハルは思ったが、クロナギの手がしっかりと腰を掴んだままなので降りられないのだ。
「じゃあね、出会えてよかったわ、ハル。あなたがドラニアスの皇帝になる日を楽しみにしてる」
「うん」
ハディの言葉をすんなりと受け止めて頷いた途端、クロナギが驚いたように、さっとこちらに視線を向けた。
「そうそう、ハル様ってばいつの間にか決意してたみたいですよ、クロナギ先輩」
ヤマトはにやりとクロナギに笑いかけると、ハディの荷物を持って言った。
「ラクダのとこまで荷物運ぶの手伝うよ。ザナクドのおっさんの両親はもう準備できたかな?」
「声を掛けて、一緒に行くわ」
ハディも最後にハルに手を振り、家を出る。
二人がいなくなると、クロナギは座ったままハルの体を持ち上げ、自分と向かい合うように座り直させた。椅子があればそこへ座らせてくれたかもしれないが、ラマーン人は地べたに座る事が多いため、この家にも椅子は無いのだ。
「ハル様……本当に? どうして……」
クロナギの口調は戸惑っているふうだったが、目は期待に輝いていた。
その嬉しそうな目を見て、やっぱり皇帝になると决意してよかったとハルは思う。
「决意できたのは、ルカのおかげかな。同じような立場にいる人間と話をできた事は大きかったかも。あとはコルグや、彼と同じようにドラニアスを出た竜騎士を見たせいもあるし」
「俺ですか?」
部屋の隅から声がしたのでクロナギを避けて視線をやると、そこにはコルグと彼の青いドラゴンがいた。外に出していると他の竜騎士に見つかる可能性があるので、屋内に入れたようだ。
青いドラゴンは飛竜なのでそれほど大きくはないものの、この家も広くはないので部屋の角で窮屈そうに伏せをしている。
ハルの存在を気にしながらも動かないのは、コルグやクロナギに大人しくしているよう言いつけられているからかもしれない。
ちなみにラッチももう起きていて、その青いドラゴンの背に登ったり、耳をかじったりして遊んでいる。ラッチがまだ小さいからか、青いドラゴンは迷惑そうな顔をしつつも好きにさせていた。
「コルグ、帰ってきてたんだ」
クロナギが壁になって見えなかった。
解術の呪文は見つかったか聞こうとしたが、クロナギが話を変えさせてくれない。
「コルグたちを見て、どう思われたのですか?」
「うーん……、守らなくちゃって」
予想外の答えを聞いたかのように目を見開いたクロナギの視線を受け止め、まっすぐに見返しながらハルは続ける。
「コルグが苦しそうな顔してたから、私が彼らを守らなくちゃいけなんだって思ったの。こんな事……自分を特別に思っているようで前はとても言えなかったけど、先代皇帝を失って悲しんでる竜人たちを癒せるのは私しかいないって、今は思う。私にしかそれはできないって。……最初は嫌われてたアナリアと仲良くなれたり、ドラゴンに懐かれたりして調子に乗ってるのかも」
ハルはそこで一度冗談ぽく笑ってから、また真剣な顔をした。
「コルグだけじゃないよ。私はクロナギのためにも皇帝になる。ルカが言ってたの。身近な人を幸せにするために皇帝や王になるのは悪い事じゃないって。クロナギは私が皇帝になったら嬉しいでしょ?」
「もちろんです」
感極まった口調でクロナギが答える。
「ハル様が皇帝となり、私は竜騎士としてあなたに仕える。ドラニアスで、本来あるべき姿で生きていける。それはこの上ない喜びです」
そう言ってクロナギは、ハルの胸に下がっている皇帝の指輪に顔を近づけ、キスをした。
「よく決意してくださいました」
大切な宝物を見るように、クロナギはほほ笑む。
二人で見つめ合って笑っていると、
「あのぉ……」
コルグが居心地悪そうに声を掛けてきた。
「あ、コルグ! それでどうだったの? 解術の呪文はあった?」
「はい! ラマーン王の寝室で見つけました」
狩りで大きな獲物を仕留めた時のラッチのように、コルグが胸を張って言う。
「本当!? よかったぁ! ありがとう!」
ハルは声を弾ませてクロナギの膝から降りると、こちらに近付いてきたコルグから分厚いの紙の束を受け取った。
「一緒に行ったあの……ティトケペル王子によると、こちらの一枚が奴隷術の呪文のようです。そしてこちらの七枚はその解術の呪文だと」
「そういえば解術の呪文の方が長いんだった……」
ハルは魔賊のアジトを漁った時の事を思い出して言った。
術をかけるより解く方が難しいという事なのだろうか。大きな紙七枚に細かい魔術文字でびっしりと綴られた呪文を目にして、くらりと倒れそうになった。
魔術文字は発音が難しいので、これを噛まずにすらすらと言えるようになるには、どれくらい練習しなければならないのか。
(でも、やるしかない)
ハルは解術の呪文が書いてある薄茶けた紙からコルグに視線を移した。
「ところでルカは? 一緒に帰ってきたの?」
「いいえ、あの王子は王宮に残りました。戦いの準備をするのに、あちらにいた方が都合がいいようですから」
「でも竜騎士たちに見つからないかな?」
「それが、ドラゴンに乗って監視しているはずの竜騎士たちの姿がなくなっていたんですよ。空は静かなものです」
「おそらくサイポスとラマーンの決戦に備えて、竜騎士たちも一度ドラニアスに戻って準備をしているのでしょう。明日には体制を整えて、ティトケペル王子を捕まえるためにまた現れますよ」
口を挟んだのはクロナギだ。
「それも、これまでよりずっと多くの竜騎士の一団がやって来るはずです。この機にレオルザーク総長はティトケペル王子の件にケリをつけるつもりでしょうから」
「うん……」
ハルは神妙に相槌を打って、居間の隅にある小さなかまどに奴隷術の呪文が書かれてある紙を放り込んだ。解術の呪文の方は、もちろん燃やさず残しておく。
と、かまどの近くにいた青いドラゴンが伏せをしたまま小さく鼻を鳴らしてハルの注意を引こうとするので、隣に座って軽く頭を撫でておいた。ついでにラッチの頭も。
そこへヤマトが帰ってきて言う。
「集落の人間たち、皆出発しましたよ。ザナクドやアスタたちも王宮に向かいました。この集落には俺たち以外、猫一匹、ラクダ一頭もいません」
「竜人の俺たちがこのラマーンの集落に最後まで残るなんて、おかしな感じですね。ねぇ、ハル様――」
コルグが振り返った時、ハルはドラゴン二匹の隣で解術の呪文が書かれた紙を並べて、ぶつぶつと呪文を唱える練習をしていた。魔術文字の辞典を片手でめくりながら、すでに集中している。
クロナギとヤマト、コルグの三人は顔を見合わせると、ハルの邪魔をしないように静かになったのだった。
「ハル様、昼食にしましょう。朝もお食べにならなかったのですから、そろそろ何か口にしていただかないと……」
昼になり、ハディが残していった食材を使って食事を用意したクロナギが声を掛けたが、ハルは朝から全く変わらぬ姿勢で呪文と格闘していて、それに気づかない。延々と一人で呪文を呟きながら、発音を覚えようとしているのである。
外ではじりじりとした日差しが地面を焼いていて、家の中の気温も上がってきている。じっとしているだけで汗が浮いてくるというのに、ハルは起きてから水すら飲んでいないのだ。
「馴染みのない食材と香辛料ばっかりですけど、結構美味いっすよ」
「癖がありますけどね」
ヤマトとコルグも、先につまみ食いをしつつハルに言う。
「ん、後で食べる。……デュ・オラフブル・アクセラ・ウェボ……じゃない、フェボ、フェボラル・タン」
「ハル様、水だけでも」
クロナギはハルの意識を食事に向けさせるのは諦めて、コップに入れた水を口元まで差し出した。そしてそのコップを傾けると、ぶつぶつと呟き続けるハルの口に、少しばかり強引に水を含ませる。
「イスタ・シ・ブールド・メディ……んっ」
ごくりと水を飲み下すが、視線は呪文の書かれた紙から離れる事はない。
クロナギは続いて食事を盛った皿を持つと、一口分をスプーンに乗せて、これも本人の意志は無視してハルに食べさせる。
ハルは無意識にそれを咀嚼し、飲み込みながら、器用に呪文の練習も続けている。
「楽しそうですね、クロナギさん」
親鳥のようにいそいそと食事をハルの口に運ぶクロナギを見て、コルグがヤマトに囁いた。クロナギは根を詰めて練習しているハルの心配もしているが、世話ができるのは嬉しいようでもあった。




