再び公爵領へ
フェリシエンヌは病状の悪化を隠そうとした。しかし、できなかった。
どう頑張っても咳はとまらない。つまり、隠しようがなかった。ならばせめて、血が混じったことだけでも伏せておきたい。そう思ったのだが、公爵家お抱えの医師も侍女のアメリーも、職務にとても忠実だった。
そうしてその夜のうちに、彼女の病状の変化はマリウスはもちろん、その父パトリスの知るところとなったのである。
翌朝、朝食の席でマリウスは真剣な顔をしてフェリシエンヌに提案した。
「フェリ、公爵領へ戻ろう」
「え?」
「王都に来たせいで悪くなったんだよ。だから戻ろう」
確かに以前、公爵領に滞在している間に咳が治まった。けれども、あのときと今では状況が違う。王宮で週に二回も講義を持つマリウスは、一緒に公爵領に行くわけにはいかないだろう。でも彼女は、できるだけ彼と離れたくなかった。
「マリウスさまはどうなさるの?」
「もちろん、一緒に行くよ」
「でも、王宮でお仕事があおりでしょう?」
「そんなものは、日帰りするさ」
マリウスは即答だ。そのためらいのなさに、フェリシエンヌは目を丸くする。一回限りならともかく、定期的に週に二回も往復しなくてはならないのに。
彼女が心配して頭を悩ませていると、マリウスは少々意地悪くからかうような笑みを浮かべた。
「どうしたの、フェリ。そんなに僕と離れたくないの?」
「はい」
今度は彼女が即答だ。フェリシエンヌが真顔でうなずくと、彼はまばたきをとめて固まった。それからじわじわと頬を紅潮させたかと思うと、視線をそらして口もとを片手で覆う。
それまで口を挟むことなくやり取りを聞き流していたパトリスは、息子の様子を見て盛大に吹き出した。
「お前、その顔……!」
「ちょっと父上。うるさいですよ」
「大負けじゃないか」
「いいんですよ。先に惚れたほうが負けって言うでしょう。最初から勝負になってません」
顔を赤くしたまま、マリウスは言い返す。その言い草の居直り具合に、フェリシエンヌもつい吹き出してしまった。パトリスの隣で、ステファンも笑っている。ふてくされた顔をしていたマリウスも、やがて苦笑を浮かべた。
ひとしきり笑ってから、パトリスは彼女に向き直った。
「公爵領行きに関しては、わたしもマリウスと同意見だよ。療養に行ったほうがいい。一度は効果があったわけだからね」
「はい」
こうして彼女は、再びフォンテーヌ公爵領に滞在することになったのだった。
* * *
驚いたことに、マリウスの読みは正しかった。前回の滞在時と同じように、今回も少しずつ咳が減っていったのだ。
ところが彼女の咳が減るのと反比例するかのように、マリウスは日に日に顔色が悪くなっていった。それも道理だ。だって彼は、毎週二回も公爵領から王都に日帰りしているのだから。
船に乗っている時間が二、三時間とはいえ、領主館から船着き場へ行く時間と、王都の船着き場から王宮へ行く時間まですべて含めれば、片道四時間は下らない。
それだけでなく彼は、王都に行くたびに公爵邸に寄り、ステファンと情報交換までしているらしかった。だから家を出るのは早朝、帰宅は深夜となる。
そんな日が四週間ほど続いたある日のこと。事件が起きた。
その日は午前中、フェリシエンヌはマリウスと居間で遊びに出かける相談をしていた。この頃には彼女の咳はすっかりとまっていたので、少し遠出をしてみようかという話になったのだ。
昼近くになり、二人の会話がひと区切りしたところへ執事が声をかけた。
「お食事の用意がととのいましてございます。いかがいたしましょう?」
「ああ、ありがとう。今行くよ」
一礼して部屋を出ていく執事の後ろで、二人はソファーから立ち上がる。
────そのときだった。マリウスがぐらりとよろけたのは。
しかもそれだけではない。彼はそのまま意識を失い、倒れてしまったのだ。倒れざまに激しくローテーブルに肩を打ち付ける。テーブル上の茶器が揺れて、カチャカチャと音を立てた。
「マリウスさま!」
あわててフェリシエンヌは彼のもとに駆け寄った。マリウスの顔からはすっかり血の気が引いている。彼女の呼びかけにも、何の反応も示さなかった。
執事は彼女の叫び声に驚いたのだろう。ドアノブに手をかけたまま、後ろを振り向いた。そして状況を見てとるや、フェリシエンヌに声をかけた。
「すぐに人を呼んでまいります。少しお待ちください」
執事はそのまま足早に部屋を出て行く。ほどなくして、数人の従僕がシーツを手にしてやって来た。四つ折りにしたシーツの上にマリウスを乗せ、三人がかりで運んでいく。気が気でない彼女は、従僕たちが運ぶ後ろからマリウスの部屋まで付いて行った。
(どうしたらいいの。もし、もしも、マリウスさまがこのまま亡くなるようなことがあったら……)
それはおそろしい想像だった。考えただけで、恐怖のあまり全身から血が引いていくような心地がする。
(どうしましょう。どうしましょう……!)
気がついたら、フェリシエンヌの両目から涙がこぼれ落ちていた。
こわくてこわくて、たまらない。自分の命に期限があると知っているのとは、全く質の違う恐怖だ。マリウスを失うかもしれないなんて、これまで考えたこともなかった。先に死ぬのは自分であってマリウスではないと、頭から思い込んでいたのだ。
しかし必ずしもそうとは限らないということに、このとき初めて気がついた。そして同時に、もうひとつ別のことにも気づいてしまった。
(マリウスさまは、ずっとこんな気持ちでいらしたのね)
なのに彼は、彼女の前では極力表情を取りつくろっていた。悲しい顔を見せないように、決して恐怖を悟らせないように。何という強さだろう。マリウスに幸せな思い出を遺したいなどと言いつつ、実のところフェリシエンヌはずっと彼の強さに守られていたのだ。
マリウスの寝室に運び込まれた椅子に座り、不安な気持ちを抱えたまま彼女はじっと彼の寝顔を見つめていた。するとやがて彼は目を覚まし、ゆっくりと周りを見回して、彼女の姿に気がついた。
「あれ? フェリ……?」
フェリシエンヌが返事をしようと口を開きかけたのと、執事を伴って医師が部屋に入ってきたのは同時だった。
「おや。もうお目覚めのようですな」
この医師は、フォンテーヌ公爵家のお抱え医師だ。彼女の療養のために、王都から一緒に公爵領にやって来ていた。
医師は彼女の存在を気にとめるでもなく、マリウスのシャツをはだけさせて聴診器を当てる。彼女は目のやり場に困り、こんな状況にもかかわらず真っ赤になってしまった。フェリシエンヌの困惑をよそに、診察はすぐに完了した。
医師は呆れたように鼻を鳴らし、診断を告げた。
「寝不足からくる貧血でしょう」
「寝不足」
フェリシエンヌは思わず復唱してしまう。ただの寝不足で、こんなふうに倒れたりまでするものなのだろうか。だが医師は彼女にチラリと視線を向けただけで、マリウスに向かって説教を始めた。
「睡眠は大事ですよ。仮に毎日少しずつ睡眠時間を削ったとして、それがたった一時間でも一週間続けたら徹夜したのと同じだけの睡眠不足です。いったいどれだけ削ってたんですか?」
医師の問いに、マリウスはスッと視線をそらした。正直に言えないくらい削っていたようだ。
「まったく、ご婚約者をこんなふうに泣かせるだなんて。紳士の風上にも置けません。反省してください」
医師の小言に、マリウスはハッとしたようにフェリシエンヌを振り向く。彼女はあわてて、ハンカチで涙の痕を拭いた。
医師の手厳しい小言はまだ続く。
「睡眠を削ってダラダラ時間だけかけたって、自己満足でしかないんですよ。寝不足のぼんやりした頭で考えることなんて、ろくなものじゃありませんからね。いいですか、本当に仕事の能率を上げたいなら、きちんと食事して、しっかり睡眠を取ることです」
マリウスは神妙にうなずいた。思い当たることは多分にあるらしい。それを見てようやく医者は満足そうにうなずきを返す。そして「では、お大事に」とだけ言葉を残し、薬も出さずに部屋を出て行った。
マリウスは気まずそうに、上目遣いにフェリシエンヌを見る。
「心配かけてごめん」
「本当です。心配しました。先生のおっしゃるとおり、きちんと寝てくださいね」
「うん、そうする」
彼女はようやくホッとして肩から力を抜き、笑みを浮かべた。そして彼も、その笑みを見て微笑んだのだった。
八月二日。冬至の日まで、残り141日。




