初めての公爵領 (1)
フォンテーヌ公爵領は、王都の西側に隣接している。領主館まで馬車で急げば一日、ゆっくり行っても二日の距離だった。
しかし今回は、船を使う。船ならば、なんと二、三時間ほどなのだ。船着き場まで馬車で行って乗り換える時間を含めても、半日あれば到着する計算である。
王都は海に面していないが、中央をグランクール河という大きな河が流れている。この河は西側のフォンテーヌ公爵領を通って、海に流れ込んでいた。この河を船で下る。
河岸のタラップからフェリシエンヌを客船にエスコートしながら、マリウスが尋ねた。
「フェリは船に乗ったことがある?」
「いいえ。このように大きな船は、初めてです」
フェリシエンヌが知っている船と言えば、手こぎボートくらいのものだ。王都の公園内にある池で、何度か乗ったことがある。
デッキに上がると、マリウスは船内に続く階段を手で示しながら彼女に尋ねた。
「中に行く? それともまだ景色を眺めていたい?」
「デッキにいても、いいですか?」
「もちろん」
初めての経験に、フェリシエンヌはワクワクしていた。短い船旅を存分に楽しめる程度に、今はまだ元気があった。咳が出始めたと言っても、咳き込み続けてとまらないというほどではないし、咳も軽い。
そしてたぶん、無意識のうちにはしゃいで見せていた。
だって、マリウスが悲しい顔をするから。
彼女が振り向くと、彼は一瞬で笑顔を取りつくろう。だから彼女は、何も気づいていない振りをする。おそらく彼は、彼女の病状について医師から詳しく聞いているのだろう。決して彼女には言わないけれども。そして彼女も、それについては何も触れない。
春も終盤、夏が近づいてくる気配がする中での短い船旅は、とても気持ちよかった。河岸には、野草の花がそこかしこで咲き乱れている。デッキの上で、彼女は流れゆく風景を飽きることなく眺めた。
船から降りて、馬車で領主館へ向かう。フォンテーヌ公爵領の領主館は、デュシュエ伯爵領の領主館とは全く違った。フェリシエンヌは思わず歓声を上げてしまう。
「すごいわ。宮殿みたい」
「フェリのところの領主館とは違う?」
「全然違います」
デュシュエ伯爵領の領主館は、石造りの古城だ。もとは城塞である。内装こそ近代的に整えてあるけれども、外観はいかめしい。
ところがフォンテーヌ公爵領の領主館は、それとは違った。城ではなく、宮殿と呼ぶべき邸宅なのだ。広大な敷地の中に、王宮と比べて少しも遜色がないほど立派な構えの居館がある。
マリウスと二人きりの夕食の席で、領主館の様式が話題になった。
「フェリの領地の領主館は、どんなふうにうちとは違うの?」
「まず、建っている場所が違います」
平地に建てられているこの領主館とは違い、伯爵領の領主館は、小高い丘の上にある。もとが城塞だっただけあり、見るからにものものしかった。攻め入る敵を攻撃するための狭間も、そこかしこに設置されていた。
門から玄関までの道も違う。この領主館は、門を入ると玄関までまっすぐに平坦な道が続いている。しかし伯爵領の領主館は、外門を入ると城壁の周囲をぐるりとらせん状に囲む坂道を上がっていかなくてはならなかった。
「いかにも首なし騎士の幽霊が出てきそうな、古いお城なのです」
「建国以来の、由緒ある家系だものね」
マリウスは笑いながらうなずくが、幼い日のフェリシエンヌにとっては笑いごとではなかった。
王都育ちの彼女が初めて領地に連れて行かれたのは、四歳になった年の秋のこと。幼い彼女の目には、古城はいかにも陰鬱でおそろしい場所のように映った。
ただでも重厚で威圧感たっぷりの城なのに、廊下には古い甲冑だの武器だのが飾られているのだ。しかも王都の屋敷に比べると、窓も小さい。当然、屋内は昼でも薄暗く感じられた。
四歳だった彼女が震え上がったのも、無理からぬことだろう。
ひとりで手洗いに行くのは、昼間でも何だかこわかった。暗がりに置かれた甲冑がひとりでに動き出しそうな、そんなおそろしい想像をしては泣きそうになっていたものだ。そればかりか、実際に女の泣き声が聞こえてきたことさえあった。
彼女の思い出話に、マリウスはからかうように眉を上げる。
「幽霊だった?」
「いいえ。生きている人間でした」
泣き声を聞いた彼女は、恐怖に固まった。だが同時に、不思議と使命感に駆られもした。その声がどこから聞こえてくるのか、突き止めねばならないような気がしたのだ。
全身を耳にして、声のする方角を探す。
しばらく探してから、ようやくその場所を突き止めた。ドアの向こうから、押し殺したすすり泣きが聞こえる。フェリシエンヌは意を決してそうっと小さくドアを開け、隙間から部屋の中をのぞき込んだ。そうして声の主の姿を目にして、彼女は仰天した。
それは、母サビーヌだったのだ。
つい先ほどまで恐怖に駆られていたことなどすっかり忘れ、フェリシエンヌはドアを大きく開け放ち、母に駆け寄った。
「お母さま!」
「フェリ……?」
「お母さま、泣かないで。大丈夫よ。もうこわくない。こわくないの。フェリが一緒にいてあげる」
小さな手で必死に母の頭をなでようとする彼女を、サビーヌは抱きしめた。
「ありがとう、フェリ」
「フェリがいるから、大丈夫なの。もうこわくないのよ」
「そうね。もうこわくないわ」
ソファーに腰を下ろし、背中を丸めてすすり泣いていたサビーヌは、泣き笑いの顔で娘を膝の上に抱き上げた。
「あなたは本当に、わたくしの自慢の娘よ」
そう言ってサビーヌはまた、小さな娘を抱きしめたのだった。
けれども今ならフェリシエンヌにもわかる。サビーヌは別に幽霊におびえて泣いていたわけではないのだと。
話を聞いて、マリウスは彼女に微笑みかけた。
「フェリは、そんなに小さなときから勇敢だったんだね」
「勇敢、でしょうか……?」
「うん。とても勇敢だと思うよ」
勇敢とはちょっと違うような気がしたけれども、フェリシエンヌは「ありがとうございます」と微笑みを返した。




