初めての行儀見習い (3)
ジェレミーが仔犬を連れて帰った後の夕食では、当然のように食卓の話題は仔犬のことから始まった。
「どうやら気に入った子が見つかったようだね」
「はい、アローと名付けたそうです。ありがとうございます」
名前の由来を説明すると、パトリスは「ああ、なるほど」とうなずいた。
「あの犬種は、もともと猟犬だからね。走るのが大好きなんだよ」
猟犬と聞いて、フェリシエンヌは意外に思った。彼女の思い描く猟犬とは、大型犬だったから。そして攻撃的で獰猛な犬が頭に浮かぶ。
なのにアローたちは足こそ速いものの、決して体は大きくない。中型犬の中でも小さめなほうだろう。見た目も精悍というより、長い毛足が優美な印象を与える。しかも、おとなしく人懐こいのだ。
だがもちろん、狩猟にだっていろいろある。小動物や鳥類の狩りで使われた猟犬と聞いて、ようやく彼女も納得した。賢く、気配にとても敏感なばかりか、必要に応じて自分の気配を消すのも得意なのだそうだ。
仔犬の話が一段落したところで、フェリシエンヌは気になっていたことをパトリスに尋ねた。
「明日からわたくしは、どう過ごしたらよろしいのでしょうか」
「どう、とは?」
「行儀見習いにまいりましたが、どなたに教えを乞えばよいのでしょう?」
「ああ、そんな必要はない。好きなように過ごしてくれれば、それでいい」
これには彼女も面くらった。完全に想定外の回答だったからだ。好きなように過ごしてしまったら、何の行儀見習いにもならないだろう。
フェリシエンヌの困惑顔にパトリスは笑い声を上げ、言葉を続けた。
「行儀見習いと呼んではいるが、要するに結婚前にこの家に慣れてもらうことが主眼なんだよね」
「はい」
彼女が神妙にうなずくと、パトリスは笑みを深めた。
「だがご覧のとおり、うちは男所帯だろう」
「はい」
「つまり、きみは結婚したらそのときから、うちの女主人になるわけだ」
パトリスの説明は、とても明快で論理的だ。だがその内容はフェリシエンヌにとって、いささか衝撃的なものだった。
(え。いきなり女主人ですって……?)
理屈はわかる。わかるのだが、気持ちが追いつかない。
それに女主人として振る舞うための勉強をするだけなら、フォンテーヌ公爵家に滞在するよりも効率的な方法がある。実家に戻って、母から学んだほうがずっと得られるものが多いはずだ。
だがそこまで考えたとき、まさに冷や水を浴びせられたかのように彼女の頭が冷えた。
(それこそ無駄だわ。だってわたくしがマリウスさまと結婚することは、ないのですもの。そんなに先まで生きていられない)
そうだった。彼女の時間は限られている。今があまりにも元気で幸せなものだから、うっかり忘れてしまいそうになっていたけれども。その限られた時間はすべて、マリウスに幸せな思い出を贈るために使おうと決めたのではなかったか。
実家に戻っている場合ではない。
フェリシエンヌが目まぐるしく考えをめぐらせている間にも、パトリスは言葉を続けていた。
「そういうことだから、好きなようにやってくれればいいんだよ。でも、そうだなあ、せっかくだから結婚までの間に、マリウスとの仲を深めてくれるとうれしいかな」
パトリスの言葉に、彼女はマリウスと顔を見合わせてしまった。彼女と目が合った瞬間、マリウスはうれしそうに微笑んでみせる。「前回」には、あまり見ることのできなかった表情だ。彼女はなんともいえず、胸が締め付けられるような思いがした。
「フェリは、何かしたいことがある? 何でも付き合うよ」
「したいこと……」
婚約者からの問いに、フェリシエンヌは束の間、考え込んだ。したいことなら、たくさんある。
「いっぱいありますよ」
「なになに。教えて」
「機会があれば、美術館めぐりというものをしてみたく思います。美術館を訪ねた後には、流行りのカフェでお茶をいただくのも楽しそうです。サンルーム席のあるお店もあるのですって。それから────」
かつてのマリウスの言葉を思い出しながら、ひとつずつ挙げていく。
『────フェリがよくなったら、美術館めぐりに行こうよ』
『────美術館の近くにあるカフェが、若い女性に人気なんだって。サンルーム席があるそうだよ。美術館に行ったら、帰りに寄ってみない?』
『────神殿の鐘つき塔は、一般人も希望すればのぼれるって知ってた? てっぺんから見渡す王都の景色はすばらしいそうだよ。フェリが元気になったら、一緒に行こうよ』
『────オペレッタは好き? 最近は〝月の妖精と七人の貴公子たち〟ってタイトルが評判になってるんだって。よくなったら、観に行かない?』
フェリシエンヌを元気づけるために、マリウスが一生懸命に考えてくれたのだろう。その都度、彼女は『行けるようになったら、よろしくお願いします』と返したものだ。それにマリウスが『きっとだよ』と念を押すところまでがセット。
結局、どの約束も果たせないまま終わってしまったけれども。今なら行ける。まだ行ける。時間は有限とはいえ、外出できないほど彼女の具合が悪くなるまでには、しばらくの猶予があるのだから。
彼女が「前回」の記憶を引っ張り出しながら希望を挙げていくうち、マリウスは呆けたような顔をした。そんな息子と彼女の顔を交互に眺め、パトリスが吹き出す。
「マリウス。お前、デートプランが全部筒抜けじゃないか」
「いえ、フェリにはまだ話したことがないはずなんですが……」
いぶかしげに首をひねるマリウスに、フェリシエンヌはすました顔でにっこり微笑みかけた。
「あら。マリウスさまとは以心伝心でしたのね」
マリウスはほんのり赤面しつつ、納得いかない表情で、なおも首をひねっている。それがおかしくて、彼女もパトリスと一緒になってくすくすと笑ってしまった。
パトリスはひとしきり息子をからかってから、笑顔のまま大きく息を吐き出した。
「それにしても、よくぞこの女嫌いを結婚に踏み切らせてくれたねえ。まったくきみには感謝しているよ」
フェリシエンヌはきょとんとした。マリウスが女嫌いとは、初耳である。
「女嫌い……? マリウスさまが、ですか?」
「うん」
「まあ。それは存じ上げませんでした」
「ほう。きみに対しては最初からそういう感じだったのか。なるほどなるほど」
たっぷりと含みをもたせ、ニヤニヤとからかう視線を向ける父に、マリウスはすっかり閉口している。その顔がまたおかしくて、フェリシエンヌは声を上げて笑ってしまった。
二月二十八日。冬至の日まで、残り296日。




