第79話 つまらないから
ゴウッと自分たちの周りに紫の魔力が吹き荒れた時、尖兵のほとんどは脅威とは感じなかった。
ダメージを受けたとも感じないし、苦痛もない。
この魔力が、何の効果をもたらすのかすらわからない。
分からないことは警戒するべきなのだろうが……尖兵たちにそんな殊勝な考え方をする者はいなかった。
「かまうな! やっちまえ!!」
意気揚々と、ヒルデに対する突撃を続行する。
あの女を捕まえたら、すぐには殺さない。
まずは、たっぷりと楽しませてもらうとしよう。
あれほどの美女だ。そうそうお目にかかることはできない。
尖兵になって国や村を焼いたとき、そういった『お遊び』をすることはできるのだが……ヒルデほどの容姿の女は、未だ見たことがなかった。
だが、尖兵は数が多い。
早い者勝ちの競争になるだろう。
だからこそ、彼らは無防備に攻める。
たった一人しかいない、愚かな女に向かって。
「ぐぉっ!?」
一人の尖兵が盛大に転ぶ。
尖兵とはいえ、仲間意識はほとんどない。
自分たちが欲望のままに行動するために、多少協調しているだけの間柄だ。
だから、彼が倒れても、誰かが立ち止まって手を差し伸べるということはなかった。
「はははっ! なにしてんだお前! お先に失礼!」
「うるせえ! 何か急に踏ん張りが利かなくなって……」
むしろ、煽られる。
他の尖兵が嘲笑いながら、自分よりも先にヒルデに迫る。
こうしてはいられない。
このままでは、彼女を味わうことができなくなってしまう。
そのため、急いで脚に力を入れて立ち上がろうとするが……やはり、それができずに身体を倒してしまう。
不思議に思って自分の脚を見れば……そこは、腐り果てて地面に潰れ落ちていた。
「う、うわああああああああああ!? お、俺の脚がああああああああああ!?」
自身に起きたことをようやく認識できた尖兵は、大きな悲鳴を上げる。
その後、激痛も襲ってくる。
ぐじゅぐじゅと、耳を塞ぎたくなるような音と共に自分の身体が腐り落ちていく。
そして、それが全身に回り……尖兵は地面に崩れ落ちた。
まるで、腐った果実が地面に落ちて潰れてしまったように。
「ぎゃああああああああ!! 手がもげたあ!?」
「ひっ!? お、お前、顔が……!!」
それを発端にして、阿鼻叫喚となる。
肘から先を腐り落ちて失った者。
隣を走っていた仲間の顔が、腐ってなくなっているのを見て恐怖に震える者。
もはや、まともに走っている者は誰一人としていなかった。
魔王ヒルデ。彼女は、たった独りで軍勢とも言える尖兵の集団を潰してしまったのであった。
◆
そして、その惨状を遠くから見ている者たちがいた。
この世界に侵略をしている、精霊たちである。
「あらあらぁ? 何だか面白いことになっているわねぇ」
そう言うのは、紫紺の髪を短くボブで切りそろえ、退廃的な笑みを浮かべているヴェロニカだった。
眉のあたりに手を置いて、遠くにいるヒルデを覗き込むようにして観察している。
先ほどまではつまらなそうで、いつの間にかどこぞに消えてしまうような雰囲気があったのだが、今は子供のようにワクワクウキウキしていた。
「何が面白いんだ。また尖兵の調達をしなければならん。面倒だ……」
一方で、面倒くさそうに顔を歪めてため息を吐いているのは、ヴェニアミンである。
この世界に侵攻し、魔素を故郷の世界に送り込まなければならないという任務を唯一しっかりと考えている精霊だ。
それゆえ、責任感も強く、手足となる尖兵が減らされることに頭を痛めていた。
彼の研究した薬で腐った身体も元に戻すこともできるかもしれないが……あそこにいる尖兵たちは、間違いなく手遅れだった。
彼らに対して、とくに思いもない。
また調達するのが面倒だというくらいだ。
だから、助けに行くこともなく、悲鳴を上げて身体を腐らせていく彼らを、ただただ無感情に見るだけだった。
「別に気にしなくてもいいじゃなぁい。どうせぇ、すぐに補充できるわぁ。この世界の連中ってぇ、ビックリするくらい強欲でつまらないんだものぉ」
「それでも、補充するのは面倒なんだぞ。そう言うのであれば、お前がやってくれ」
「嫌よぉ。つまらないものぉ」
「こいつ……」
退廃的な笑みを浮かべてハッキリと拒絶するヴェロニカに、ヴェニアミンの怒りが向けられる。
凄まじい殺気なのだが、誰も気にする様子はない。
「……へー。確かに、面白そうじゃない」
その会話に参加していなかった最後の精霊が、口を開いた。
美しい容姿を興味深そうにしているのは、マルエラだった。
彼女の視線の先には、褐色の魔王ヒルデがいる。
「……お前がヴェロニカの意見に賛同するとはな」
ヴェニアミンは目を丸くして驚いていた。
マルエラとヴェロニカは犬猿の仲――――一方的にマルエラが嫌っているのだが――――のため、まさか同じような意見を言うとは思わなかったのだ。
「嬉しいわぁ。デレたのねぇ」
「殺すわよ。あたしがあんたなんかの意見に賛同するわけないでしょ」
ニコニコと笑いながら近づいてくるヴェロニカを手で押し返すマルエラ。
「じゃぁ、どういう意味ぃ?」
では、どういった意味があるのか?
ヴェロニカが尋ねれば、マルエラは凄惨なまでの嗜虐的な笑みを浮かべるのであった。
「ああいうプライドの高そうなのを屈服させて犬にするのも、面白そうでしょ?」
◆
「……まあまあね」
目の前に広がる地獄ともとれる惨状を見て、ヒルデはそんな感想を口にした。
身体を腐らせて地面に倒れる尖兵たちの様子は、まさに死屍累々。
しかも、まともな状態の死体は一つたりとてないため、おぞましさすら感じられる。
もちろん、ヒルデがそんな様子を見て顔を強張らせるようなこともないが。
「でも、まだあの破壊神には届かない」
ヒルデの表情がさえないのは、それが理由だ。
こんな雑魚を大量に殺したところで、自分の力があの破壊神に届くという自信を持つことはできなかった。
だから、もう少し試さなければならない。
「まっ、それが分かっただけでも十分ね。で、次はあんたたちってこと?」
目を向けるのは、ふわりと自分の前に降り立った複数の人影。
遠くから高みの見物を決め込んでいた、精霊である。
「ええ、そうよ。光栄に思いなさい。この世界の存在如きで、精霊であるあたしが直接相手をしてあげるのだから」
自信満々に胸を張って一歩前に出るのは、マルエラだ。
「ちょっとちょっとぉ。私もいるわよぉ」
「必要ないわよ。ヴェニアミンみたいに、後ろで大人しくしていなさい」
どうやら、自分と戦おうとしているのは、一人の精霊だけのようだ。
男の精霊は、後ろから観察するように見てくるのみ。
自分を相手に、随分と余裕ではないか。
ヒルデは多少の腹立たしさを覚える。
「あら、仲間割れかしら? 他所でやってくれる? 鬱陶しいから」
「あー……生意気でいいわね。あんたみたいなやつを犬にしたいのよ」
ニヤニヤと笑うマルエラに、ヒルデの憎悪心が高まる。
その理由は、一つしかない。
「……同族嫌悪って言うのかしらね。以前までのあたしを見ているようで、イライラするわ」
あの高飛車な様子は、以前までの自分に似ていた。
それが、気持ち悪くて仕方がない。
「別に、あんたたち全員でかかってきてもいいのよ? あそこにいる男も含めてね。所詮、あんたたちはあいつと戦えるかどうか試すための力試しに過ぎないのだから」
精霊なんて、敵ではない。
自分にとっての強大な敵は、破壊神以外存在しないのだから。
「あはぁ。すっごい自信ねぇ」
「ふーん。なら、やってみなさいよ。最初は攻撃しないであげるから」
しかし、そんな魔王の啖呵を受けても、精霊たちは余裕の表情を崩さない。
それどころか、自分に先手を譲るほどである。
ここに至って、ヒルデは我慢の限界になる。
そうか。そんなに死にたいのか。
ならば……。
「……あっそ。じゃあ、さっさと死ね」
『腐食』。
ヒルデの酷く冷めた表情と共に、紫の毒が撒き散らされた。
それは、逃げる様子すら見せない精霊たちに迫っていき……。
「ああ。これはつまらないからいいわぁ」
「…………は?」
ヴェロニカが腕を振るだけで、霧散させられたのであった。




