第59話 遠く離れた場所で
バイラヴァたちのいる場所から、少し離れた場所。
国境を越え、別の国がある。
「なあ、聞いたか? 精霊を倒している奴がいるって話」
その国の街で、そんな会話がなされていた。
ここもヴェニアミンやアラニスがいた場所とは離れているのだが、精霊の影響を受けていないということはない。
今や、この世界を支配しているのは、数少ない精霊なのだから。
この国もまた、支配を受けていた。
それこそ、他のどこよりも強く。
「ああ。空中に浮かんで言っていた奴だろ? くだらねえホラ話だとばかり思っていたが、まさか本当だなんてな……」
思い出されるのは、空中投影された男が精霊に対して宣戦布告していたことである。
あんなこと、自殺行為でしかない。
少なくとも、彼はすぐに殺されるだろうと予想していた。
だが、その予想を覆し、その男はもう一体の精霊を殺したという。
信じられないことだ。しかし、その噂には信ぴょう性があった。
「精霊がいなくなった場所は、考えられないくらい住みやすくなったらしいぜ。尖兵もいないしな」
「いいなあ。俺たちのところにも来てくれねえかな?」
そんな会話をする。
マーウィン教皇国やアールグレーンの治めていた街のように、精霊と何かしらの取引をしてその脅威から逃れている場合を除き、世界中の人々を悩ませているのが精霊と尖兵である。
そして、何よりも彼らのいるこの場所は、精霊の影響力が強い場所だった。
精霊にも個人差がある。
たとえば、ヴェニアミンは自分たちの世界に魔素を届けることを最優先に行動しており、自分の権威を借りて好き勝手している尖兵のことは見逃していたが、逆に積極的に彼の方から人々を虐げることはなかった。
また、アラニスも珍しい動物をペットにしたいと考え、その魔手が向けられたのは歴代勇者のみである。
そう考えると、彼らは積極的に一般人に関わろうとはしなかったため、まだマシだと言える。
一方で、彼らがいるこの場所を支配する精霊は……積極的に人に接触している。
「……俺たちがそっちに行くっていうのはどうだ? 自分から行動しないと……」
ボソリと周りに聞かせないようにして囁く。
あの精霊を殺した男が、次にここに来てくれるとは限らない。
であるならば、自分たちの方から……。
しかし、もう一人は難しい顔を崩さない。
「受け入れてもらえるのか? 人間じゃねえんだぞ。それに……ここから逃げられるのかよ……」
そう、彼らは人間ではない。
魔族。人とは異なる種族であるが、しかし人に近しい存在。
彼らもまた精霊の支配を受けていることに変わりはない。
とはいえ、肌の色でも差別をすることがある人間が、それ以上に変わっている魔族を受け入れてくれる可能性は低い。
しかし、ずっとここにいれば……いつ命を理不尽に奪われても不思議ではない。
天秤にかけて考えていると……。
「あら。面白そうな話をしているじゃない。あたしにも聞かせてくれる?」
冷たく通る声が、耳元から聞こえてくる。
「う、うわっ!?」
飛びずさって振り向く二人。
そんな彼らを見て上から目線の笑顔を浮かべているのは、女だった。
異質なのは、あまりにも露出度の高い服。
もはや、服とは言えないかもしれない。
起伏の富んだ肢体が見えているのだが、彼らは好色の視線を向けず、恐怖の表情を浮かべていた。
「ひ、ヒルデ・ローヴァ……」
「ほら、早く……ねえ?」
女――――ヒルデは、嗜虐的な笑みを浮かべて呟くのであった。
◆
「ひ、酷い……」
多くの人が広場に集まっていた。
口々に小さく呟くのは、そんな畏怖と同情の言葉。
彼らの視線を集めているのは、磔にされた二人の魔族である。
全身に痛々しい怪我があり、血が流れて磔に伝っている。
ピクリとも動かないが、息はあるようだ。
人間ならば死んでいても不思議ではないのだが、魔族は生命力が多少豊かであり、そのおかげで命までは失わずに済んでいるようだった。
しかし、これが大きなダメージであり、命に係わることであることは事実である。
「ここまでされることをしたのかよ……? ただちょっと……」
「おい、止めとけ! お前までこんな目に合うぞ!」
怒りをあらわにする者もいれば、それを制する者もいる。
ざわめく現場を一気に静かにさせたのは、その磔を背にして現れたヒルデである。
「いいかしら? 精霊様に刃向うと、こういうことになるのよ。その前兆を見せるだけでもね。だから、あんたたちは精霊様にただひれ伏し、従うのよ。それが、生き延びる唯一の手段なのだから。……こいつらみたいに、馬鹿なことは考えないことね」
言いたいことだけを言うと、ヒルデは彼らに背を向けて去って行った。
そんな彼女に対する怒りと恨みの視線は、非常に強いものだった。
それこそ、自分たちを支配する精霊や、その威を借りて好き勝手する尖兵たちに向けられるものよりも、だ。
「偉そうに……!」
「裏切り者め……」
「裏切り者の魔王め……!」
その言葉は、ヒルデにも届いていた。
しかし、彼女は振り返ることなく、歩き続ける。
これ以上時間を空けてしまうと、危険であることが分かっているからだ。
彼女の脚が向かうのは、この魔族領を見渡すことができるほどのとても大きな魔王城である。
かつては魔族たちの王が座していたその場所は、今では精霊の居城となっていた。
魔王城に入り、そして一番高い精霊の私室へと向かう。
扉を開けて、跪く。
「ただいま戻りました、マルエラ様」
「ああ、私のヒルデ。戻ってくるのが遅かったじゃない。どこに行っていたのかしら?」
そう声をかけてきたのは、女の精霊だ。
優しく問いかけてきているようだが、一切嘘をつくことや答えないことを許さない言外の迫力があった。
それを敏感に感じ取ったヒルデは、ビクッと身体を震わせながらも言葉を発する。
「街に。マルエラ様に対して不穏な言葉を呟いていた連中を、磔にして参りました」
「あら、そう。よくやったわね」
「ありがとうございます!」
褒められて、感激に身体を震わせるヒルデ。
「ただ……」
「あがっ!?」
しかし、顎に強い衝撃を受け、蛙が仰向けになるようにひっくり返される。
跪いて顔も伏せていたため、女――――マルエラの脚が振り上げられて顎を打たれることを避けられなかった。
顎を打たれれば、脳も揺れる。
思考力が大きく減少し、どうしてこんなことになったのか理解することもできなくなってしまった。
そんな彼女に対して、マルエラは出来の悪い生徒に教える教師のように話す。
「私に指示を仰がないで勝手に行動するなんて、偉くなったじゃない。勘違いしているようね」
「ち、違います! あたしはただマルエラ様のことを思って……!」
良かれと思ってしたこと。
しかし、それはマルエラにとっては余計なお世話でしかなかった。
「そういうのが余計だって言ってんのよ!!」
「がっ、あぐっ、ぎっ……!?」
うずくまるヒルデを、何度も何度も蹴りつける。
マルエラはヒールのようなものを履いているため、それは彼女の身体を大きく傷つけていく。
褐色の肌は血で汚れる。
ヒールが突き刺さり、尋常ではない痛みに襲われる。
露出度の高い衣服を着ているので、直に皮膚を切り裂かれてしまう。
無視できないほどの出血量で地面をのた打ち回るヒルデを見て、ようやくマルエラの気持ちが落ち着いてくる。
「いい? ヒルデは私のもの。道具と一緒よ。なら、道具が勝手に考えて動くのはおかしいわよね? これからは勝手なことはしないこと。いいわね?」
蹴りつけるのを止めて言えば、コクリと頷くヒルデ。
もはや、返事をすることができなくなるほど消耗していた。
ただの人間であれば、命を落としていても不思議ではないほどの苛烈な罰だった。
ヒルデが魔族だからこそ、生きていることができていた。
「そう、それでいいのよ。私の玩具。ちゃんとしていたら、壊れない程度に遊んであげるからね」
そう言って、マルエラは血だらけのヒルデの頬を撫でる。
手に付着した血を舐めとると、甘美な味がした。
震えるヒルデを見て、嗜虐心を満たされゾクゾクしてくる。
「ほら、嬉しいでしょ? なら、ちゃんと笑わないと。それとも……嬉しくないのかしら?」
そう言われたヒルデは、ビクッと身体を震わせると……。
「え、えへへ……」
魔族の領民たちに見せていた冷たい顔はどこにいったのか。
恐怖に震えさせる顔を無理やり笑顔に変えて、痛々しい姿をさらすのであった。




