第56話 母胎のくせに
「て、テメエ……よくも俺のペットを……!!」
わなわなと身体を震わせ、怒りをあらわにするアラニス。
精霊の怒り。人どころか国すらも逆らうことのできない存在に怒りを向けられることなんて、信じられないほどの重圧だ。
誰もがひれ伏し、許しを請うことだろう。
だが、バイラヴァは呆れたように彼を見るだけだ。
「いや、貴様がたきつけてきたのだろうが……。そんなに大切なら、貴様が最初から戦えよ」
「そんな舐めた口を利いてもいいのかよ? お前、腕ないじゃん。戦えないだろ! あははははは!!」
バイラヴァをあざ笑うアラニス。
確かに、彼は満身創痍だ。
片腕は失い、全身にやけどの跡もある。
一方で、アラニスはまだピンピンしている。
ダメージは一切負っていないし、戦う力も存分に残っている。
どう考えても、有利なのはアラニスである。
しかし、バイラヴァはその呆れをさらに加速させた。
「……お前はさっきまで何を見ていた?」
「は……げえっ!?」
目を閉じて大笑いしていたこともあったが、それ以上に高速で動いたバイラヴァの姿を捉えることはできなかった。
次に視界に入れられたのは、彼が目前で拳を固めていた時だ。
ゴリッと強烈な殴打が腹部にめり込んだ。
内臓がかきまわされ、ヘタをすれば破裂していても不思議ではないほどの威力。
アラニスはあっけなく膝をつき、そして……、
「ぐっ、おええええええっ……!!」
胃の中のものを全て吐き出した。
咎められることはない。あれだけの力で無防備な腹部を殴られれば、誰だってこうなる。
むしろ、それくらいで済んだことが、精霊としての力の大きさを物語っていた。
常人であれば、腹部が消し飛んでいても不思議ではないほどの力だったのだから。
しかし、腹部を抑えて地面に突っ伏すことは、決して破壊神の前でしてはいけないことだった。
「……少し思ったが、貴様は戦い慣れていないな。持ち前の力で最初から押しつぶしていたからか……最近は、あれらのペットに全て任せて自分で戦ったことはなかったのではないか? だから、そんな無防備な姿をさらせる」
バイラヴァはそう言って脚を振り上げた。
「ごっ!?」
アラニスの顔面に硬いつま先がめり込む。
鼻が潰れ、歯が割れ、血が噴き出す。
何度か地面をバウンドし、巨大な木の幹に衝突してようやく止まった。
アラニスが攻撃を受けたのは、たったの二度である。
その二度のダメージで、もはやろくに立ち上がることもままならなくなってしまっていた。
バイラヴァの言う通り、もし彼が数百年前この世界に侵攻してきていた時の状態だったならば……自分で戦うことも頻繁に行っていた当時ならば、少し話は変わっていたかもしれない。
しかし、彼はこの世界を精霊が支配してからというものの、自分で戦うことは一切なかった。
そもそも、戦いに喜びを感じるような人種ではなかったし、母胎を捕らえさせてキメラを産ませることにだけ力を注いでいたからだ。
その母胎だって、マーウィン教皇国を使えばあっけなく捕らえることができるので、力を発揮する機会はなかった。
精霊の力は強大だ。人を簡単に振り回し、弄ぶ。
だが、数百年も行使しなければ、衰えるのは当然と言えるだろう。
止めを刺そうとにじり寄ってくるバイラヴァ。
そんな彼に、アラニスは話しづらい口を動かして制止する。
「お、お前に、俺をこうまでする権利があるのか……!?」
「は?」
怪訝そうに首を傾げるバイラヴァ。
「お前だって、その戦争とやらでどれだけの人を傷つけた? 引き裂いた? ならば、俺に怒りを抱くことも、攻撃をすることも、権利はないはずだ……!!」
多少の正義感であったり倫理であったり……そういったものがあれば、心にくるものがあるだろう。
そして、ほとんどの人間はそういったものを持ち合わせている。
しかし、残念ながらバイラヴァに響くことは何もなかった。
「馬鹿か貴様。我が貴様に虐げられた者のために戦っていると、本気で思っているのか?」
そもそも、間違いだ。
千年前の戦争で世界に甚大な被害を与えた贖罪に、今この世界を支配して人々を脅かしている精霊を倒す。
そんな考えを持っていたのであれば、アラニスの言葉は心に響いたのかもしれない。
しかし、そんなことがあるはずがない。
「だ、だって……ヴェロニカが、お前が精霊を倒す救世主として崇められているって……!」
「誰だか知らんが、そのヴェロニカとかいう馬鹿に言え! 我はそういうの求めてないって!!」
『バイラヴァ教』なる邪教のことを思い出し、一気に気分がげんなりとする。
そのヴェロニカという者も、いつか痛い目を合わさなければならないと強く決意するのであった。
一つため息を吐き、話し始める。
「我は誰かのために戦わん。我のために戦う。この世界を再征服し、暗黒と混沌を齎すためにな。だから、我は貴様を破壊したいだけだ。貴様を破壊することによって、貴様に集められていた畏怖の念を我に集中させる」
「クソが……!!」
アラニスは思い通りにいかなかったことを歯噛みする。
バイラヴァが戦うのも、行動するのも、破壊するのも……全部自分のためだ。
彼が他人のためにそれらを為したことはない。
なぜなら、破壊神だから。そうあれかしと定義づけられた存在だからだ。
あまりにも凄惨な笑みに、アラニスも背筋を凍りつかせる。
そんな彼を解きほぐしてあげるかのように、バイラヴァは穏やかな表情を浮かべて肩をすくめる。
「とはいえ、貴様の言っていたことがあながち間違いというわけではない。貴様の言う通り、我との戦争で大切な者が奪われた者もいるだろう。なるほど、我に貴様を誅する権利はないかもしれん」
自分勝手な理由でアラニスを押しつぶすことに権利も何もないのだが、もし義憤などといったような理由からならば、彼をどうこうする権利はないかもしれない。
そもそも、その論理は当てはまらないのだが、言っていることに筋は通っている。
アラニスはそこに一筋の光を見出す。
フラフラする身体に鞭を打ち、何とか立ち上がる。
隙だらけのバイラヴァに、強烈な……それこそ、自分の全力を叩き込んでやる。
血だらけの顔で笑い……。
「だが、子を殺された母ならば、あるだろう?」
その笑顔は凍り付いた。
バイラヴァの背後から飛び上がる小さな人影。
銀色の長い髪は、汚れて散々くすんでいたにもかかわらず、今は光に反射してキラキラと輝いていた。
一方で、その表情はキラキラとしたものではなく、怒りでドロドロに煮詰まったマグマのような鬼のもの。
エステル・アディエルソン。
精霊アラニスによって四肢をもがれ、心を折られ、化け物との交配を強制されてキメラを産み続けた母胎と称された彼女は、今ここに復活した。
「――――――死ね」
もがれた四肢は、ヴィルによって回復させられていた。
その足で地面を蹴りあがり、その手には……多くの人々を助け、そして千年前にはバイラヴァとも交えた剣を握っていた。
「お、お前……!!」
まさかの襲撃に、目を見張るアラニス。
攻撃するために照準を合わせていたのはバイラヴァのみであり、唐突に彼の背後から飛び上がったエステルに対応できるはずもなく……。
彼女の持つ剣に水がほとばしる。
敵を害そうという、攻撃的な水。
それを剣に纏わせ……エステルは空中から一気に加速。
すれ違いざまにアラニスの身体を見事に両断してみせたのであった。
「ぐ、ぞ……! 母胎のぐぜに……!!」
憎々しげに声を張るが、もはやアラニスにできることは何もなかった。
そんな恨みがましい言葉を最後に、彼は別れた身体のまま地面に倒れ伏すのであった。




