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第50話 師匠

 










「グルルアッ!!」


 アラニスが現れたとたん、化け物は彼に向かって襲い掛かった。

 彼がここにいて、少なくとも母にとっていい状況になることはない。


 それが理解できているからこその行動だった。

 牙をむいて高速で襲い掛かってくる化け物。


 普通の者ならば、何が起きたかわからない間に首元に食らいつかれて命を落とすことだろう。


「またかよ……。もう流石に慣れたわ」

「ぎゃっ……!?」


 だが、ここにいるのは只者ではないのである。

 アラニスは呆れたようにため息を吐くと、襲い掛かってきた化け物をあっけなくいなす。


 地面を転がり、壁に叩き付けられて悲鳴を上げる。

 そんな化け物を、アラニスは冷たい目で睨みつけていた。


「本当に次やったら殺処分だからな? 珍しいから許してやっていたけど、流石に酷いわ」


 化け物を対等の敵とみなすことはなく、まるでペットの飼い主のような軽い感覚。

 しかし、それは二人の間の隔絶した力の差を見せつけていた。


 どれほど化け物が全力を出して襲い掛かったとしても、アラニスからするとしつけの鳴っていないペットにじゃれつかれた程度にしか思われていないのだ。

 それほどの力の差が、二人の間には存在しているのだ。


「さあて。元気かぁ、エステル?」


 ニヤニヤと笑いながら声をかけるアラニス。

 すると、四肢を失ったエステルはビクンと身体を震わせると……。


「うっ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」


 絶叫を上げた。

 それ以上こちらに近づいてくるなという威嚇の意味もあるだろう。


 何よりも、恐怖だ。自分をここまで陥れた精霊が、恐ろしくて仕方ない。

 そういう怖さを表すために、喉が裂けても声を張り上げ続けるのであった。


「お前もまたかよ……。何でお前らって同じ反応しかしないの? 飽きるって」


 心底煩わしそうに顔を歪めるアラニス。

 最初こそこの反応を面白く新鮮に感じていた彼だったが、会いにくるたびにこのような反応をされてしまえばたまらない。


「……あー。もしかして、ずっとここに閉じ込めていたのがダメだったか? ペットは散歩させた方がいいって知っているんだけど、母胎は知らないからなあ。悪かったな」


 エステルから自由を奪い、暗くじめじめとした場所に閉じ込め、日光すら当てられない場所に閉じ込めたのはアラニスだ。

 別に、彼は拷問をしてやろうとか、そういうことを考えていたわけではない。


 ただ、効率というか、そうする必要性が感じられなかっただけだ。

 珍しい生き物を産ませるためだけに捕らえた彼女を、健康的で文化的な生活を送らせる意味があるだろうか?


 少なくとも、アラニスはそんなことをする理由はまったく思いつかなかった。

 ある程度清潔な場所でそれなりの待遇がないと人間は死んでしまうのだが、エステルは勇者であり死者である。


 常人の生者を相手にするときのように気を遣わなくてもいいのだ。

 だからこそ、アラニスの彼女に対する仕打ちは苛烈なものになっていた。


「ただ、やっぱりずっと閉じ込めていたらこんな風に壊れてしまうんだな。勇者だって言って、気張っていたのになあ……」


 アラニスはふとかつてのエステルを思い出すのであった。











 ◆



「ほい。今日からここがお前の場所……ってわけじゃないんだけどな。今から準備してくるから、ちょっとここで待っててくれ」

「あぐっ……!?」


 乱雑に投げ捨てられるエステル。

 彼女には、本来あるはずの両腕両脚がない。


 そのため、受け身もろくにとることができず、胴体から地面に落とされたので、悲鳴すら出てこないほどの痛みと衝撃にもだえ苦しむ。

 しかも、投げ捨てられた場所は、お世辞にも清潔とは言えない汚い牢屋のような場所だ。


 エステルだって女……いや、男でも、この場所に投げ捨てられるのは、屈辱的で嫌悪感があふれ出てくるだろう。

 また、こんな場所に何もできない状態で放り込まれれば、困惑と恐怖が湧き上がってくる。


 すぐに顔を上げて、アラニスを睨みつける。


「ぼ、僕をどうするつもりだ!?」

「言っただろ? 交配させるって。まあ、言葉だけじゃあ伝わらないだろうから、直接見た方が早いって。大人しく待ってろ」


 ヘラヘラと笑いながら、彼は部屋から出て行った。

 ガチャリと鍵も閉められ、両手足を失ったエステルはもはやどうすることもできない。


 シンと静まり返った状況なので、なおさら自分のことに目を向けてしまう。

 そうすると、じわりじわりと湧き上がってくるものがあって……。


「うっ、ひっ、うぇぇぇ……」


 エステルは我慢できずに嗚咽した。

 クリクリとした大きな目は悲しみに歪み、ポロポロと大粒の涙をこぼす。


 それを拭うことも、もう自分ではできないのである。

 そして、自分の代わりにそれを拭いてくれる者は誰もいない。


 なぜなら、彼女はそんな人々から売られて生贄にされたのだから。

 エステルに、味方はいなかった。


「何で僕がこんな目に……。僕は人を助けたいって……そう思っていただけなのに……。それは、間違っていたの……?」


 その目に光はない。

 人々を助け、悪をくじく強い勇者エステル・アディエルソンの姿はどこにもなかった。


 ただ、心細く、恐怖に震えている小さな女の子だった。

 自分は、人様に胸を張れる生き方をしたはずだ。


 そして、死後もそういった活動をしようとしていた。

 だが、今自分が両手足を失い、守っていた人々から裏切られて地面に転がされているのは、その生き方が間違っていたと考えるほかない。


 エステルが暗く冷たい、闇の中に沈んでいこうとしたとき……。


『力があるんだったら、自分のためだけじゃなく周りの人のために使ってあげましょうよ!』


 そんな言葉が、ふと脳内に浮かび上がってきた。

 それは、あの人と……自分の師匠と会話した時のものだった。


『そうしたら、自分の周りは笑顔になるだろうし、いつかそういったものが自分に帰ってくるわ! それって、素敵なことじゃない?』


 どうして、あなたは戦うのか?

 確か、あの時そんな質問を投げかけたはずだ。


 元はただの村人であったエステルにとって、勇者になるための訓練は非常に厳しかった。

 それこそ、途中で投げ出してしまいそうになったことは何度もある。


 これも、そんな弱気が表に出そうになっていた時に尋ねたものだ。

 それに対して、師匠は……ティルザ・メイネルスは、笑って答えたのだった。


 自分と同じ女で、勇者という重責を担っていた彼女。

 白刃交じり合う厳しい戦場にも何度も立ち向かっていたことから、とてもじゃないが首都などでキラキラした生活をする同性とはまったく異なる、辛い時を過ごしてきたはずだ。


 それでも、ティルザは笑った。


『あんたも潰れそうになってしまった時は、そう思っているといいわよ。そうやって、人を助けることができたら……あんたは紛れもない勇者よ!』


 勝気ながらも整った顔をニカッと笑わせ、自分を励ましてくれたティルザ。

 強い女性だった。


 実際、能力も気も強かったが。

 そんな彼女のことを思い出し、エステルは少しの光を目に宿す。


「そうだ……。僕は、勇者なんだから……」


 たとえ、腕を飛ばされても。脚をもがれても。

 自分は、勇者なんだから。


 人々に裏切られて、背中を攻撃されたとしても、彼らを守らなければならないのだ。


「……なんで?」


 しかし、再びもう一人の冷静な自分が、さらに深く冷たいよどみへと引きずり込む。

 どうして、そこまでしてやらなくてはならないのか。


 自分が勇者だから? だから、自分を生贄にして、礎にしてその上にのさばろうとしている人々を守らなければならないのか?

 なんで、そこまでして自分が……。


 ズズズ……と、黒い靄が彼女の心を覆い隠していく。

 それは、エステルの心を間違いなく殺していくもので……。


「ち、違う! 僕は勇者だ! だから……だから……!」


 ブンブンと強く頭を振るって、その黒い靄を振り払おうとするエステル。

 このままだと、間違いなく彼女の求める……ティルザに教えてもらった勇者という道から外れてしまうことになるだろうから。


 しかし、そう否定しても、その靄が多少薄くなる程度でしかない。

 また、それは一時的なものだ。


 すぐにまた彼女の心を覆い隠していき……。


「おーい! 準備が整ったぞー! ちゃんと連れて行ってやるからなあ!」

「うあぁっ!?」


 バタン! と音を立てて入ってきたのは、アラニスだ。

 彼はエステルの長い髪を引っ張り引きずる。


 悲鳴を上げて抵抗しようとする彼女だが、それをする手足がないためされるがままだ。

 そして、しばらく引きずられていき……。


「きゃっ!!」


 どこかの部屋に投げ入れられた。


「お前一人だけじゃないから、寂しくはないよな。仲間と一緒に、俺のために頑張ってくれよー」


 痛みにうずくまるエステルに、アラニスは笑いながら声をかけた。

 その仲間という言葉に、彼女は反応を見せる。


「仲、間……?」


 ここには自分以外いるのか?

 おそるおそる隣に気配を感じてそちらに目を向ければ、人影があった。


 暗い場所にようやく目が慣れてきて、明瞭に見えるようになって……エステルは愕然とした。

 そこにいるのは。鎖につながれているのは……。


「ティルザ、さん……?」




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