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第45話 取引

 










「あっ、ぐっ……!?」


 何が起きたのか、エステルにはさっぱりわからなかった。

 当たり前だ。召喚された直後に、耐え難い激痛を受けて、今は地面に転がっているのだから。


 歓迎されるべきだとは思っていないが、少なくとも召喚に応じてこのような仕打ちを受ける覚えはない。

 そもそも、この痛みは誰が何のために自分に与えたのか。


 その基本的なことすらわからなかった。


「ほほう。今回の勇者は女子(おなご)か。取引に使えそうで何よりじゃ」

「き、君は……?」


 地面に突っ伏すエステルの前に現れたのは、豊かな髭を蓄えた老人だった。

 彼は無機質な目で……少なくとも、自分たちの危機に助けにやってきてくれた勇者を出迎える好意的なものではない目で彼女を見ていた。


「おお。まだ言葉を発することができるとは。流石は勇者。常人であれば、意識を飛ばしていても不思議ではないのじゃが……」

「初めまして、勇者殿。ワシはフィリップ・ファン・クレーフェルト。マーウィン教皇国の教皇じゃ」

「マーウィン教皇国……」


 エステルが喰いついたのは、フィリップのことではなくマーウィン教皇国のことである。

 確か、自分が戦争を戦い抜き、しばらく経って命の火が消えようとしていた時に、そんな国が興ったという情報があったような……。


「では、お主の名も聞かせてもらってよいかな?」

「……エステル・アディエルソン」

「ほほう! 歴代最強格の勇者か! これは凄い。大当たりじゃ。以前の勇者ティルザに続いてな」


 攻撃された可能性がある以上、名前を答えるのは癪だったが、仕方なく答える。

 しかし、エステルはフィリップが呟いた名前にぎょっと目を見開くのであった。


 ティルザ。その名前を、彼女は無視することはできなかった。

 なぜなら、彼女が最も人生において世話になり、慕い、尊敬した人の名前だからだ。


「ティルザ……師匠のこと!? ちょっと……これはいったいどういうこと……!?」


 ティルザは、エステルの勇者としての師匠だった。

 村人出身で、戦いの「た」の字も知らない彼女を、一から鍛え上げて歴代勇者の中でもトップクラスの実力者に育て上げた女傑である。


 エステルは、ティルザこそが歴代勇者最強の勇者だと信じていた。

 そんな彼女が召喚されていたことは、あの不思議な世界にいたころから知っていた。


 フィリップは、彼女のことを知っている?

 何が何でも聞き出そうとして……。


「どういうことって……こういうことさ!」


 そんな声を上げて飛び込んできた者がいた。

 快活そうな笑みを浮かべて、心底楽しいといった笑顔を浮かべている少年。


 エステルも少女のように見える童顔さだが、彼もまた似たようなものだった。

 そんな彼は、彼女の前でポーズを決めてからピクリとも動かない。


「……どういうこと?」

「あれ?」


 二人揃って首を傾げる。

 エステルからすれば、いきなり飛び込んできてポーズを決めただけで何を伝えたかったのか、さっぱりわからない。


「精霊殿。お主のことを今召喚されたばかりの勇者エステルは知らないのだから、まずはそこから……」

「ああ、そっか。ごめんごめん」

「せ、精霊……!?」


 フィリップと少年の会話に、エステルは頬を引きつらせる。

 召喚される際に、世界を脅かしている大敵の情報は与えられることになっている。


 その知識の中に、精霊はあった。

 異世界から来た侵略者。世界を支配する、世界の敵。


 そんな彼が、どうして世界を守る責務があるはずの教皇の隣に。


「そう! 精霊アラニス。よろしくな!」

「な、何で精霊が……。教皇の隣に……!」


 信じられないと表情で表しているエステルに、フィリップはうっすらと笑みを浮かべながら答える。


「ワシらが、精霊殿に従属しておるからじゃよ、勇者エステル。そうやって、ワシらは平和と安全を取引しておるのじゃ」


 その言葉に愕然とする。

 エステルの頭にふっと沸いてきたのは、彼女よりも先に召喚されていた歴代勇者たちのことである。


「なっ……!? そ、それじゃあ、今まで召喚されてきた勇者たちは……」

「無論、全て精霊に捧げられておる。今まで何度も繰り返してきたことじゃ。勇者を暴れさせず、初撃で抵抗できなくなるようにする技術とノウハウも蓄積された。誇るべきことじゃないかもしれんがのう」


 あまりにも手馴れていた、勇者を戦闘不能に追い込む手筈。

 それは、もちろん知識だけではなかった。


 何度も何度も、計画して実行し、改善されて作り出されてきた手順だったのである。

 だからこそ、エステルは何もできずに地面に倒れ伏すことになった。


 それができるほどの勇者たちが、彼らに騙されて精霊に捧げられたのである。


「そうそう。お前らは助けに来てあげたはずの人間に裏切られて、騙されたってことだよ」

「……ッ!」

「ぷっ……あははははははははは!! 人間って自分のためなら助けに来てくれた人も売るんだよなぁ! 醜いよなあ!!」


 その笑顔は、少年とは思えないほど邪悪で悪意に満ち満ちたものだった。

 しかし、色々考えて悪意を巡らせているというわけではなく、純粋な悪。


 子供が何の罪悪感もなくアリを踏み潰すような、そんな無垢であるがゆえに危険なものを感じさせた。


「君が……君が、この人たちの心を折ったんだろ! 僕には分かるぞ! この人たちを解放しろ!」


 エステルは、自分が地面に突っ伏させられていたとしても、人々のことを思いやった。

 彼らが精霊に協力して勇者を捧げているのは、自分たちの安全を獲得するためだ。


 ならば、その安全を脅かしている精霊が悪いのだ。

 その言葉を聞いて、アラニスは面白くなさそうに顔を歪めた。


「……まだこいつらのことを助けたいって思うのか。前の奴もそうだったけど、勇者って皆こんな感じなのか? 俺には分からないなぁ……」


 思い出すのは、エステルよりも前に召喚した勇者ティルザのことである。

 彼女もまた言っていた。


『人間は、他人に怯えて誰かを裏切るような生活を送ってはいけないわ! 彼らを解放しなさい!』


 そう叫んでいた彼女を思い出したアラニスは、少し考える仕草を見せると……。


「よし! そんじゃ、取引しようぜ」

「取引……?」


 にこやかに笑って、そんなことを言い出した。

 エステルは怪訝そうに彼を見る。


「おう! 俺の言うことを何でも聞いてくれよ。そんじゃ、もうこいつらには関わらねえでいてやる」

「何でも……」

「ああ、なんでもだ。大変だぜえ? おすすめしないけど、こいつらのことを助けたいって言うんだったら、やるよな?」


 意地悪そうに笑うアラニス。

 何でも、という言葉には、エステルももちろん警戒する。


 こんな口約束、とりあえず了承して破ってしまえばいいのかもしれないが、召喚された直後に倒されてしまったように、何が起きるのかわからないので気安く答えることはできなかった。

 しかし、アラニスは拒否をさせないように迫ってきている。


 どう考えても彼には何らかの考えがあり、この申し出は受け入れない方が得策なのだろうが……。


「……どういうことをさせられるの?」


 そう尋ねるエステル。

 優しい彼女は、自分のことを犠牲にして彼らを救おうと……しつつも、アラニスの言うことを全て聞き入れようとはしていなかった。


 エステルがこうしてフィリップやアラニスに多く話しかけていたのは、何もただただ知りたかったからではない。

 召喚された直後に全身を襲った激痛から、彼女は今回復しようとしていた。


 もちろん、ダメージが一切ないということはないのだが、動くことができる程度には回復してきていた。

 そのための時間稼ぎをしていたのである。


 エステルは足に力をこめ、一気にアラニスに接近して切り捨てようとして……。


「魔物と交配して、今まで見たことのない生物を生み出す母胎になってくれ」


 その言葉に、エステルは全身からガクッと力が抜けたのであった。




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