第37話 怪物
その怪物は、今日も彼女の側にいた。
暗く、じめじめとした、非常に気持ちの悪い環境。
怪物は人間ではないが、彼だって不快だと感じるほどの悪辣な環境である。
本音を言えば、怪物もここから飛び出し、温かな太陽の光と爽やかな風が吹いている外の世界でその生涯を謳歌したい。
だが、彼は決してこの気持ちの悪い場所から抜け出そうとは考えなかった。
それは、怪物にとってとても大切な人がそこにいるからである。
外に出るのであれば、彼女と一緒だ。
彼の夢は、彼女と一緒に自由で楽しい外の世界を一緒に旅することなのだ。
だから、怪物は彼女の側にいる。
彼女を放置して外に逃げ出すこともせず、ただただ寄り添う。
自分では、彼女をこの場所から救い出してあげることができないから。
舌で汚れきり反応もしなくなってしまった彼女の頬を舐めて労わることしかできないから。
彼は祈ることしかできない。
誰か、この地獄から彼女を救い出してあげてほしいと。
自分はどんなことだってする。何をされても我慢する。
だから、彼女を助けてあげてほしい。
怪物は、教育を受けていない。
どんな人が彼女を助けてくれるのか、自分たちを外へと連れ出してくれるのか、想像すらできない。
一つだけ頭に浮かぶのは、多くの人間が、魔族が、動物が、自分の危機の時に祈る存在である、神。
願いを聞き届け、助けてくれるかわからない。
それどころか、そもそも存在するかもわからない。
それでも、怪物は祈った。
彼が彼女に対してできるのは、それくらいしかなかったから。
怪物の耳がピクリと動く。
ドタドタと荒々しい足音が近づいてくる。
常人よりもはるかに聴力が優れている怪物は、その音と足音の主を聞き取った。
ギロリと目が鋭くなり、喉を鳴らして威嚇する。
「おーす! ご主人様が来てやったぞー!」
そんな怪物のいる部屋に、何の気負いもなしに入ってきたのは少年だった。
ずかずかと、まるで自分の部屋に入るような気安さである。
いや、事実、ここは彼の所有している建物であり、支配している場所である。
であるならば、こうして気楽に入ってくるのは当然かもしれない。
「うわっ! 相変わらずすっげえ匂い。鼻が曲がっちゃいそうだ……。誰かに掃除させた方がいいかなぁ?」
鼻を抓み、露骨に顔を歪める少年。
彼の視界は、狭くて暗く、汚くおぞましい部屋を映していた。
その奥も奥。入り口から最も遠い場所にいるのが、少年の目的である彼女である。
そして、部屋の大部分を占めている巨大な怪物。
恐ろしく、おぞましいその姿は恐怖し逃げ出しても不思議ではないのだが、少年は一切気にしない。
この悪辣な環境の部屋について、少しだけ頭を悩ませた少年は……。
「……まあ、いいか。どうせ、綺麗にしてもすぐに汚れるし。それに……こんな汚い場所にいても、死なねえもんな」
あっさりとその悩みを捨てた。
彼の目は、奥でピクリとも動かず、自分が入ってきたというのに反応を見せない彼女を見据えていた。
「ほーんと、不思議だよなぁ。ちゃんと止血して治療はしたとはいえ、両手両足がなくなっても生きているんだもん。精霊でも死ぬぜ? ヴェニアミンがいたら、めちゃくちゃ興味を示すだろうなぁ。……あ、死んだんだっけ? ヴェロニカの言うことだから、本当かどうかは知らねえけど」
女には、あるべきはずの両手両足がなかった。
もともと、先天性のものではない。彼女にもちゃんと手はあったし、脚もあった。
それをもぎ取ったのは、この少年である。
もちろん、痛めつけたいわけでも殺したいわけでもないから、ちゃんと治療はした。
ただ、必要なかっただけである。あったらあったで、後々面倒なことになりかねない。
たとえば、犬や猫のペットを飼う時、人間は去勢をする。
それは、彼らを痛めつけたいわけではなく、あったら面倒なことになるからだろう。
少年も、彼女のことをペットと思っているわけではないが、そんな気持ちから両手両足をもぎ取ったのだ。
「俺からすれば死んでほしくないし、ありがたいんだけどな。すっげえ珍しいペットも増えるし、最高だ! この世界に来てよかったなぁ!」
キラキラと輝くような笑みを見せる少年。
この世界にやってきた仲間たちの中で、自分が一二を争うくらい楽しんでいると確信していた。
まあ、もれなく全員楽しんでいるのだろうか。
唯一暇そうにしていたのがヴェロニカくらいだったが、最近暗黙の了解を破って接触してきた彼女は、とても楽しそうだった。
少年はようやくここに来た理由を思い出し、両手両足を失った彼女へと目を向ける。
「ああ、そうだ。俺が来た理由だけど……分かってるよな? 新しいペットが欲しくなったんだ。だから……いつもみたいに、頼むぜ?」
笑顔を見せて言う少年。
これまで、怪物に頬を舐められても、その少年が入室してきても一切反応を見せなかった彼女が、劇的な変化を見せる。
「あ、ああ……ア亜阿唖あああああああ唖唖唖亜亜アアア亜亜亜嗚呼アアアアああ!!!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫。
部屋の壁や地面が悲鳴を上げ、ギシギシと空間がきしむほどの声だった。
普段声を一切出さないため、実際彼女の喉はダメージを受け、口から血がこぼれていた。
耐えがたい激痛があるだろうに、彼女はそれでも声を上げることは止めなかった。
「うぉっ、ビビったぁ! いきなり大声出すなよ! しつけ直すぞ!」
いつもそうだ。
お願いをしたら、こうして声を張り上げるのだ。
それが、煩わしくて仕方なかった。
楽しそうにしていた少年の顔が変貌し、怒りのままに彼女を痛めつけてやろうと近づく。
「グルルルル……!」
「またお前かぁ」
しかし、それは許すまいと立ちふさがるのが怪物である。
自分の大切な彼女にこんな負の反応をさせる少年を、許すわけにも近づけるわけにもいかなかった。
圧倒的な体格差があり、巨大な怪物に殺意を以て見据えられているにもかかわらず、少年は面倒くさそうにため息を吐くだけだった。
「どうして俺に懐かないんだ? 今までたくさんペットを飼ってきたけど、お前だけだぞ? ムカつくなぁ……」
「グルルアッ!!」
怪物が襲い掛かる。
その鋭い牙に食らいつかれれば、どんなものでも一瞬で命を落とすだろう。
襲い掛かるスピードも半端ではなく、気づけば命を落としていたという者がほとんどの襲撃。
「あんま調子に乗るなよ、お前」
「グギャッ!?」
しかし、それは少年に届くことはなかった。
彼が持っているのは、猛獣をしつけるときに使うような鞭。
だが、その装飾はとげとげしく、また非常にしなりを保ちつつも硬い。
石の地面も容易く砕くほどの破壊力を持つそれに、怪物は身体を打ち付けられて端へと飛ばされる。
ただ打ち付けられるだけではなく、ゾリゾリと棘で肉を抉り取られる。
その痛みは、言葉にできないほどである。
痛々しい傷をつける怪物。
だが、そこはボコボコと盛り上がると、すぐに治ってしまった。
彼もまた、異質である。
「さて、今日はこいつだからな。頑張れよー」
そんな怪物に目もくれず、少年は後ろの扉を開く。
そこから入ってきたのは、怪物に勝るとも劣らぬ怪物であった。
ズルズルと湿った音を立てながら這いずってきたのは、全身が触手で構成されているかのような化け物だった。
その魔手が、達磨の彼女へと向かっていく。
「アア嗚呼アア嗚呼唖アアアア!!!!」
悲鳴を上げる彼女。だが、誰も助けてくれない。助けられない。
だから、怪物は助けを求める。
今日も、どこにいるのかわからない誰かに、彼女を助けてくれと祈るのだった。




